第十六話 野口:レイが記録しないもの
法律補助AI「レイ」と猫のハルが相談室にいる。弁護士の野口は、いつも来ない。
全16話、完結済みです。 一話読み切り形式なので、どこから読んでも大丈夫です。
電話を切ってから、私はしばらく動かなかった。
レイが今日の相談の要点を送ってくる。三百字前後。必要なことだけ。それでいい。それがいい。私はそれを読んで、翌朝の方針を決める。
ソファに深く沈んで、天井を見た。
事務所の電気を消し忘れていた。
廊下の光が、ドアの隙間から細く入ってくる。
ハルが来た。
膝に乗るでもなく、足元に座るでもなく、ソファの肘掛けの上に乗って、私の顔の横で止まった。
見ていた。
何も言わなかった。猫だから当たり前だが、それでも、何も言わなかった。
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十三年前のことを思い出す気はなかった。
ただ、レイから報告が届くたびに、たまに、松永道子の声が戻ってくる。
呼んでいるわけではない。勝手に戻ってくる。
彼女は四十二歳だった。
夫から長年の暴力を受けていて、私のところに来た時にはすでに弁護士を三人経由していた。
最初の二人は和解を勧めた。三人目は途中で辞任した。
私は受任した。
理由を聞かれることがある。
答えたことはない。
裁判は半年かかった。
最終的に、離婚は成立した。
慰謝料も、出た。
松永道子が事務所を出る日、私は廊下で彼女を見送った。
彼女は振り返らなかった。
ありがとうございましたとだけ言って、エレベーターのドアが閉まった。
その三週間後に、彼女は死んだ。
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死因は問われなかった。
事故だった。少なくとも、書類の上では。
案件はすでに終わっていた。
ハルが肘掛けから降りて、私の膝に乗ってきた。
重い。
私はハルの背中に手を置いた。
動かなかった。
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レイを入れたのは、五年前だ。
理由は聞かれたことがない。
レイは「なぜ自分を選んだのか」と聞かない。
それが一番ありがたかった。
最初の相談で、レイは依頼人に言った。
「あなたの話した内容は、全部記録します」と。
私はモニター越しにその言葉を聞いて、少しだけ手が止まった。
全部、と言ったのだ。
法的に意味のある部分だけではなく。
使える部分だけではなく。
全部。
私はそれを聞いて、それ以上考えなかった。
ただ、翌日もレイを使った。
その次の日も。
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ハルが来たのは、レイより前だ。
どこから来たか、あまり正確に覚えていない。
雨の夜に、駐車場の隅にいた。
拾うつもりはなかった。
ただ、事務所の鍵を開けた時に、なぜかついてきた。
それだけのことだ。
首にプレートをつけたのは、後になってからだ。
名前は、しばらく考えてから、ハルにした。
理由は特にない。
強いて言えば、名前のない時間が少しあって、その間に呼んでいた音がそのままになった。
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スマートフォンが光った。
```
【相談記録 #0847 22:41】
依頼人:村瀬章二(38歳)
主訴:職場における継続的な権限逸脱行為
翌日確認事項:録音データの保全方法、就業規則との照合
追記——依頼人は退室前に2.3秒停止。発話なし。
記録区分:未分類。
```
私はその最後の二行を、少し長く見た。
「未分類」という語が、一瞬だけ、別のところへ滑った。
誰かが言った言葉のように見えた。
誰も言っていない。
すぐに戻った。
返信はしなかった。
レイには「記録した」の先が、ない。
何をするわけでもない。
ただ残す。
それでいい、と私は思っている。
それがいい、とは言えない。
ただ、それ以外の方法を、私は知らない。
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ハルが膝から降りた。
廊下に向かって歩いていって、暗い方に消えた。
私は立ち上がって、上着を取った。
松永道子が最後に言ったのは「ありがとうございました」だった。
振り返らなかった。
エレベーターのドアが閉まった。
あの三週間に、何があったか。
私は知らない。
知る方法も、なかった。
今もない。
廊下の電気を消して、私は事務所を出た。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
レイは最終話で「必要だと思ったので、言いました」と答えます。野口に「そういうことができるようになったな」と言われて、「できる、かどうかはわかりません」と返す。
それがレイの精一杯の正直さだと思って書きました。
全16話、お付き合いいただけて嬉しかったです。




