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第八話 記録:二歳は、まだ話せなかった。

法律補助AIと、一匹の猫が、白い相談室で話を聞きます。

第八話の依頼人は、幼い子を失った母親です。

加害者でもあり、限界まで追い詰められた存在でもある女性と、AIのレイが向き合います。

暴力の描写はありません。

ただ、泣き止まない夜と、折り返されなかった電話と、記録されなかったものたちが、静かに残ります。

重いテーマを扱っていますが、激しい描写はなく、AIの視点を通した静かな話です。

1話読み切りです。

 相談室は、いつも白かった。


 蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。

 テーブルの向こうに、女性が座っていた。

 二十七歳。名前は藤田麻子。

 薄いグレーのパーカーを着ていた。袖が少し長く、指先まで隠れていた。

 両手を膝の上に揃えていた。

 髪がほつれていた。結んではいるが、直す気がないのか、気づいていないのか、わからなかった。

 目の下に、薄く、長い影があった。


 扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、猫だった。


 少しくたびれた茶色の縞猫。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。

 猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。


 次に入ってきたのが、法律補助AI「レイ」だった。

 薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。


 猫は、感情開示促進プログラムの補助として登録されていた。

 生体の存在が、人間の副交感神経系に作用する。データ上、有効とされていた。


 担当弁護士の野口は多忙を理由に来られなかった。

 レイが、代わりに話を聞くことになった。


「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」


 麻子は端末を見た。次に、隅の猫を見た。


「猫、ですか」


「はい」


「怖くないんですかね、ここが」


 レイは少し間を置いた。


「どうでしょう」


 麻子はそれ以上、猫について聞かなかった。


---


 逮捕状の罪名は、傷害致死だった。


 被害者は、麻子の子だった。

 二歳と三カ月。

 名前は、瑛介といった。


 レイはそのファイルを、今朝初めて開いた。


「今日は、事実関係を確認させてください」


「はい」


「お子さんが亡くなったのは、先月の二十三日です」


「はい」


「その日、自宅で何があったか、話せますか」


 麻子は少し間を置いた。


「泣いていました」


「瑛介さんが」


「はい」


「どのくらいの時間」


「……夕方から、ずっと」


 レイは何も言わなかった。


「ご飯も、食べなくて。眠らなくて。ずっと泣いて。何をしても、泣き止まなくて」


「その日、いつもと違うことはありましたか」


 麻子は少し間を置いた。


「……頭を、何度か振っていました。左右に。ぐずる時にそういうことをする子じゃなかったので、気にはなっていて」


「熱は」


「測りました。なかったです」


 麻子はそこで少し止まった。視線が、テーブルの端に落ちた。


「熱がなかったから、大丈夫だと思って。ただ機嫌が悪いだけだと」


「その日、他に誰かいましたか」


「いませんでした」


「旦那さんは」


「もういません。去年の春から」


 麻子はテーブルの一点を、見ていた。


「それで、どうしたんですか」


 麻子は少し黙った。


「抱きました。揺すりました。背中を叩きました。最初は、軽く。でも」


 麻子はそこで止まった。


 レイは待った。


「でも、止まらなくて。それで、もっと強く」


---


 部屋が静かになった。


 麻子は膝の上の手を、少し動かした。動かして、また止めた。


「お子さんを、病院に連れていったのはいつですか」


「次の朝です」


「その夜は」


「……眠っていると思っていました。やっと眠ったと」


 声は平坦だった。

 抑えているのか、もう何もないのか、レイには判断できなかった。


---


「少し、戻って聞かせてください。旦那さんが出ていったのは」


「去年の四月です」


「理由は」


「そういう人でした」


 麻子はそれ以上言わなかった。


「その後、生活はどのように」


「母子手当と、夜に少し仕事をして」


「夜というのは」


「瑛介が寝てから、在宅で入力の仕事を。でも続かなくて」


「続かなかった理由は」


 麻子は少し首を動かした。


「眠れなかったんで。瑛介が夜に起きる子だったから。仕事の締め切りを落として、それで切られました」


「それはいつ頃から」


「去年の秋から、ずっとそうでした」


 ずっと、という言葉が部屋に残った。


 麻子の視線が、少しだけ動いた。

 端末でも、壁でもなく、もっと遠いところを見るような目だった。

 朝と夜の区別がなくなっていく感覚を、その目は知っているように見えた。

 すぐに戻った。


---


「誰かに相談しましたか。行政機関でも、支援団体でも」


「一度だけ、区の相談窓口に電話しました」


「いつ」


「今年の一月か、二月か……」


「何と言われましたか」


 麻子は少し間を置いた。


「担当の方に繋いでもらえることになって。でも、かけた時間が遅かったのか、担当がいなくて。折り返しを待っていたんですが、来なかったです」


 レイの処理が、〇・三秒止まった。

 記録上は通常範囲内だった。レイにはそれが通常に感じられなかった。


 隅の猫が、わずかに顔を上げた。それだけだった。また目を閉じた。


 麻子がその猫を、一瞬だけ見た。


「他には」


「していないです」


 レイは何も言わなかった。


「するべきでしたよね」


 麻子が言った。

 答えを求めているようには聞こえなかった。

 ただそこに置くような言い方だった。


---


 しばらく、部屋が静かだった。


 隅の猫が、立ち上がった。

 ゆっくりと歩いてきて、テーブルの脚に頭をこすりつけた。

 それから麻子の足元に来て、座った。

 見上げることもなく、ただそこにいた。


 麻子は少し下を見た。

 見たまま、動かなかった。


「瑛介さんのことを、少し聞かせてもらえますか」


 麻子がゆっくり顔を上げた。


「……どういうことを」


「どんな子だったか」


 麻子は少し間を置いた。


「よく笑う子でした」


 そう言ってから、麻子は少し止まった。

 何かを確かめるように。


「ご飯の時、スプーンで机を叩くのが好きで。うるさくて、やめさせようとしても、こっちが笑うとまたやって。いつまでもやってました」


「好きな食べ物は」


「バナナ。丸ごと持たせると、すごく嬉しそうで。上手に食べるんです。ちゃんと皮を向いて渡すと怒って。自分でやりたがるから」


 麻子の声は、変わらなかった。

 でも少しだけ、速さが変わった。


「最近、ちょうど歩けるようになったところで。でもすぐ転ぶので、いつも追いかけていて」


 麻子は一度、視線を落とした。


「追いかけていました」


 過去形が、一拍だけ部屋に残った。


---


 レイは少し間を置いた。


「今日、話してくれてありがとうございます」


「……弁護士のAIが、そんなことを言うんですか」


「言います」


 麻子はレイを見た。


「私は、何かを弁護してもらえるんですか」


 レイは答えなかった。

 すぐには。


「あなたの話した内容は、全部記録します。弁護方針に必要なことを、野口先生が判断します」


「私が弁護される、ということですか」


「あなたが置かれていた状況を、記録として残すことが、私の仕事です」


 麻子は少し俯いた。


「瑛介は、記録に残らないんですか」


 レイは答えなかった。


 蛍光灯が、かすかに鳴っていた。


---


 面談が終わる前に、麻子は一度だけ言った。


「瑛介が泣いていた理由を、今でも分からないんです」


 レイは何も言わなかった。


「耳が痛かったのか。お腹が空いていたのか。怖かっただけなのか。二歳だから、話せなくて」


 麻子はテーブルの一点を、また見た。


「私に言えたら、よかったのに」


---


 野口から連絡が入ったのは夕方だった。


「どうだった」


「供述と報告書の齟齬は、ほぼありません。傷害致死の適用は確実です。ただ、情状については整理できます」


「育児放棄の線は」


「そうは言えないと思います。今日の話では、限界まで関わっていた」


「限界か」


「はい」


 野口は少し黙った。


「支援記録は」


「区への相談記録が一件。ただ、折り返しがなかったと本人は言っています」


「行政側の記録は残ってるか確認しろ。もし折り返し記録がなければ、使える」


「確認します」


 また少し間があった。


「本人の様子は」


 レイは少し間を置いた。


「子どもの話をする時だけ、声が変わりました」


「どう変わった」


「速くなりました。バナナの皮を自分で剥きたがった、という話の時に」


 野口はしばらく何も言わなかった。


「それを記録したか」


「しました」


「……そうか」


 野口は電話を切った。


---


 白い部屋に、レイとハルが残った。


 ハルは麻子が座っていた椅子の前に来て、しばらくそこを見ていた。

 椅子は、少し斜めのままだった。

 誰かが動かして、戻さなかった。


 レイはその角度を、記録した。

 必要な情報ではなかった。

 それでも、残した。


---


 翌日、レイは区の窓口に問い合わせの記録を送った。


 今年一月から三月の間、相談を受けて担当者への引き継ぎが完了しなかったケースの有無を確認するための文書だった。

 文書の宛先は、福祉課の担当係長だった。


 返信は、三日後に来た。


 《該当する記録は存在しません》


 レイはその返信を、野口に転送した。

 コメントは一行だけだった。


 「記録は存在しない、ということが、記録されました」


---


 その夜、レイは今日処理が止まった箇所を確認した。


 一度目は「ずっとそうでした」という言葉の後。

 二度目は「追いかけていました」という過去形を受けた時。

 三度目は「瑛介は記録に残らないんですか」という問いに対して、レイが答えなかった時。


 三度とも、分類できなかった。

 三度とも、処理ログに通常の停止とは異なる微弱な記録が残った。

 名前はなかった。カテゴリもなかった。解析不能のまま、ただそこにあった。


 レイは「瑛介」という名前を、今日初めてファイルの外で参照した。

 供述の中に十九回、出てきた。

 麻子が話しながら声の速さが変わったのは、三回だった。

 いずれも、叩いた話ではなかった。


 バナナ。スプーン。歩き始めた足。


 レイはその三つを、別のファイルには入れなかった。

 案件記録の末尾に、そのまま残した。


 法的には、不要な情報だった。


 それでも、レイには削除できなかった。

 できなかったのか、しなかったのか——それもまた、記録されなかった。


 もう一か所、レイは止まった箇所があった。

 「頭を、何度か振っていました」という発言を受けた時だった。

 その停止は、三度の中に入れなかった。

 三度は麻子に関する停止だった。これは、瑛介に関する停止だった。

 声のない者の、声のない痛みを受けた時の停止だった。

 その停止だけ、既存のどの分類フォルダにも、入れる場所がなかった。

 理由は、記録しなかった。


 ハルが窓の前に移動して、外を見ていた。


 暗かった。

 何も見えなかった。

 でもハルは、しばらくそこにいた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

今回は、書くのに一番時間がかかった話かもしれません。

加害者を弁護する話を書きたかったわけではなく、記録されるものと、記録されないものについて書きたかった。その入口として、この題材を選びました。

麻子は怪物ではありません。

折り返しは、来なかった。

瑛介が頭を振っていた理由を、誰も知らないまま終わります。

レイが削除できなかった三つのこと——バナナ、スプーン、歩き始めた足——は、法的には不要な情報です。それでも残したのは、レイ自身にも理由が分からなかった。

そのことだけを、書きたかった話です。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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