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第六話 鍵:理由のない事実は、記録できない。

 AI弁護士シリーズ第六話です。

 今回は、孤独死の話です。

 おしどり夫婦の夫が亡くなり、妻は隣に横になったまま発見されました。救急は呼ばれませんでした。棚の奥に、電話がありました。

 娘の丸谷佐知が、相続と賃貸の整理のために相談室を訪れます。法律補助AI「レイ」が話を聞きます。

 答えは出ません。

 理由のわからない事実は、空白のまま記録されます。

 六話読み切りです。第一話からでも、ここからでも読めます。

 通報が入ったのは、木曜日の昼過ぎだった。


 隣室の住人が、二週間ほど前から郵便受けがあふれていることに気づいた。

 管理人に言うと、管理人は首をかしげた。

 あの部屋の方は、旅行でも行ってるんじゃないですか、と言った。

 でも車は、ずっと駐車場にあった。

 それを隣室の住人が指摘すると、管理人はようやく警察に電話した。


 部屋の中には、二人いた。


 七十四歳の男性と、七十一歳の女性。

 夫婦だった。

 三十年以上、同じ部屋に住んでいた。


 男性は先に亡くなっていた。

 女性は、男性の隣で横になっていた。

 まだ生きていた。

 意識はなかった。


---


 相談室は、いつも白かった。


 蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。

 テーブルの向こうに、女性が座っていた。

 四十六歳。名前は丸谷佐知。

 紺のカーディガンを着ていた。少し古い。

 両手をテーブルの上に置いていたが、どこにも力が入っていなかった。

 泣いた後の顔だった。でも今は、泣いていなかった。

 もう泣き終わった、という顔だった。


 扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、猫だった。


 くすんだ金色の毛をした、少し太めの猫。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。

 猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。


 次に入ってきたのが、法律補助AI「レイ」だった。

 薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。


 担当弁護士の野口は多忙を理由に来られなかった。

 レイが、代わりに話を聞くことになった。


「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」


 佐知は端末を見た。次に、隅の猫を見た。


「猫」


「はい」


 佐知はそれ以上、猫について何も言わなかった。


---


「今日は、どういったご事情で」


 佐知は少し間を置いた。


「両親のことです」


「はい」


「父が、亡くなりました。二週間ほど前に、部屋で」


「お母様は」


「今、病院にいます。意識が戻って……でも、まだ話せない状態で」


「発見された時の状況を、確認してもいいですか」


 佐知はテーブルの上の手を見た。


「隣の方が通報してくださって。父はもう、亡くなっていて。母は父の隣に、横になっていたそうです。衰弱していたと、救急隊の方に聞きました」


「お二人が最後に外部と連絡を取ったのは、いつ頃かわかりますか」


「わかりません」


 佐知は少し間を置いた。


「私が最後に電話したのは……六週間前です」


 声は静かだった。

 自分を責めているのか、ただ答えているのか、判断しにくかった。


---


「今日、法的な相談に来られた理由を聞いてもいいですか」


 佐知は顔を上げた。


「父の死亡診断書が……孤独死扱いになっていて。部屋の契約のこととか、遺産のこととか、何をどうすればいいかわからなくて」


 レイは少し間を置いた。


「もう少し、整理させてください。お父様の死因は」


「心不全、と言われました」


「司法解剖は」


「ありませんでした。自然死と判断されたようです」


「お母様が隣にいた経緯について、警察から何か聞いていますか」


 佐知はまた手を見た。


「……母は、意識が戻った時に少し話したそうです。父が倒れた後、自分で救急を呼ぼうとしたけれど、電話が見つからなかった、と」


 レイは何も言わなかった。


「部屋の中を片付けていたら、電話が……棚の奥にあったそうです。どうしてそこにあったのかは、わからないままです」


---


「お父様とお母様の関係を、少し聞かせてもらえますか」


 佐知は少し首をかしげた。


「関係、ですか」


「どんなご夫婦だったか」


「……仲が良かったです」


 それだけ言った。

 付け足すつもりがあるのかどうか、わからない間があった。


「父は、あまり外に出ない人でした。定年になってから、ほとんど家にいて。母と二人で過ごすのが好きな人で」


「お母様は」


「母も、そういう人です。二人で出かけて、二人で帰ってくる。それで満足していたみたいでした」


「近所付き合いは」


「あまりなかったと思います。挨拶くらいは、していたはずですが」


「お子さんはあなただけですか」


「兄が一人います。関西にいて、今回のことで戻ってきています」


「お父様、お母様との連絡は、普段どのくらいの頻度で」


 佐知は少し間を置いた。


「月に、一度か二度、くらいでした」


 声が少し、変わった。


---


 レイは少し間を置いた。


「今日の相談の本題を確認させてください」


「はい」


「賃貸契約の原状回復義務と、遺産の相続手続きを整理したい、ということでよいですか」


「……はい。それと」


 佐知は少し息を吸った。


「母が回復した後のことも。一人では無理だと思うので、施設に入ってもらうことを考えていて。でも、費用がどのくらいかかるか、父の遺産でどこまで対応できるか、わからなくて」


「わかりました。順に確認します」


---


 賃貸契約のことから始めた。


 死亡後の室内の状態によっては、特殊清掃が必要になること。費用の相場。費用負担の原則と、孤独死の場合の扱い。


 佐知はメモを取っていた。

 手が少し細かく動いていた。


「父の部屋は、片付けましたか」


「……まだです。入れなくて」


 レイは続けた。


 遺産については、不動産の有無、預貯金の規模、相続人の確認。

 佐知と兄の二人が相続人になること。

 母が存命の場合の法定相続の順位。


 一つ一つは事実だった。並べると、何か別のものになった。

 佐知はメモを取り続けた。


 隅で、ハルが少し体勢を変えた。

 それだけだった。誰も見ていなかった。


「母の入院費は、今のところ私が立て替えています」


「金額は」


 佐知は少し間を置いた。

 間は、答えを探しているのではなかった。

 数字を、言葉にする準備をしていた。


「まだ確定していませんが、月に三十万前後になりそうで」


「父の遺産の規模は把握していますか」


「通帳が一冊、見つかりました。残高は……百四十万ほどでした」


 レイは少し間を置いた。

 月三十万と、百四十万。

 その差は、計算するまでもなかった。


「他に資産がある可能性は」


「わかりません。あまり、そういう話をしたことがなくて」


 佐知は少し下を向いた。

 メモを取る手が、止まった。


「父の引き出しを開けた時、鍵はかかっていなかった。母への手紙が入っていました。日付のない、便箋一枚の。読みましたが……内容は、ただ、ありがとう、と書いてありました。それだけで」


 レイは何も言わなかった。


「いつ書いたものか、わかりません」


 佐知はメモ帳を、少し閉じた。

 閉じてから、また開いた。

 何も書かなかった。


---


「少し聞いてもいいですか」


 佐知は端末を見た。


「はい」


「お父様が亡くなられた後、お母様が一人でどのくらい部屋にいたか、推定できますか」


 佐知は黙った。


「わかりません」


「お父様の死亡推定時刻について、医師から何か聞いていますか」


「発見の、二週間ほど前、と言われました」


「お母様が意識を失った原因は」


「脱水と、衰弱です。何日も、ほとんど何も口にしていなかったと、先生に言われました」


 部屋が静かになった。


 佐知が、テーブルの上に置いた手を見た。

 少しだけ、指先が動いた。


「電話が、棚の奥にあった理由は……今も、わかっていないんです」


 レイは何も言わなかった。


「母が、もしかして……わかって、そうしたのかもしれないと、考えることがあって。でも、母は今もほとんど話せなくて、確かめられなくて」


 レイはすぐには次の言葉を出さなかった。


---


「確認しなければならないことが一つあります」


 佐知が端末を見た。


「電話の位置については、複数の可能性があります。片付けの途中で押し込まれた。もともとそこに置いていた。あるいは、意図的に隠した。いずれも、現時点では証明できません」


 レイは続けた。


「ただ、お母様が意識的に電話を隠した可能性がある、とお考えなら、それは法的な観点では、嘱託殺人や自殺幇助に関わる問題になり得ます。繰り返しますが、今の段階ではそれも推測の一つです」


 佐知は少し間を置いた。


「警察は、そういう見方は……」


「していないようです。状況から、自然死と処理されています」


「それは……正しいんですか」


「わかりません。証拠がなければ、判断できません。あなたが何かを申告しない限り、現状の処理が変わることはないと思います」


 佐知は黙った。

 長い間、何も言わなかった。


「母が、そうしたとして……母は、罪になりますか」


 レイは一秒、止まった。


「法的には、判断が難しい領域です。立件されるケースは多くありません。ただ、事実関係と意図が証明されれば、可能性はゼロではありません」


「もし、母が……父と一緒にいたかったとしたら」


 佐知は途中で止まった。

 続きが来なかった。


---


 扉の外を、誰かが通った。

 足音が遠ざかって、消えた。


 しばらく、部屋に何もなかった。


 佐知が口を開いた。


「父は、料理が上手くて」


 レイは何も言わなかった。


「母は苦手で。結婚してからずっと、父が台所に立っていたみたいで。私が子どものころ、父の作る魚の煮付けが好きで」


 佐知は少し笑った。

 笑い方ではなかった。


「子どもの頃、母が一度だけ台所に立ったことがあって。父が風邪をひいた時に。でも何を作ればいいかわからなかったみたいで、父の棚からレシピのメモを探して、何度も読んで。出来上がったのは、味の薄い卵焼きで。父はそれを、全部食べました」


 部屋が静かになった。


「父がいないと、母は……何から始めればいいかも、わからない人で」


 言ってから、佐知は少し口を閉じた。

 間があった。


「父が倒れた後、母は何日も、ひとりで部屋にいて。救急を呼ばなくて。呼べなくて、なのか、呼ばなかったのか」


 また手を見た。


「どちらでも、私には何もできなかった、ということは、変わらなくて」


 レイは、次の言葉を選んだ。


「佐知さん」


「はい」


「あなたに何かができたかどうかは、今日の相談の範囲では、わかりません。ただ、今日ここに来てくれたことで、お母様のこれからについて、整理できることがあります」


 佐知は端末を見た。


「母が、意識的に電話を隠したとして……そのことを、私は警察に言うべきですか」


 レイは少し間を置いた。


「それを決めるのは、私ではありません。あなたと、お兄様です」


「でも、あなたは、どう思いますか」


 レイは答えなかった。

 少し時間が経ってから、言った。


「お母様に、聞けますか」


 佐知は黙った。


「意識が戻ったら、聞けると思いますか」


 また、長い間があった。


「わかりません」


「わからない、というのは」


「聞いたら……答えが出ると思うから。でも、答えが出たら、どうすればいいかわからなくて」


---


 その時、隅の猫が立ち上がった。

 ゆっくりと歩いてきて、テーブルの脚に頭をこすりつけた。

 それから佐知の足元に来て、座った。

 見上げることも、鳴くこともなかった。

 ただ、そこにいた。


 佐知は少し下を見た。


 そこに体温があった。


「お母様が回復されたら、まず費用と住まいの整理が必要になります。それは、私と先生で一緒に進めることができます」


 佐知はしばらく猫を見ていた。


「……はい」


「今日決めなくていいことも、たくさんあります」


「はい」


 声が少し、小さかった。


---


 相談が終わって、佐知が立ち上がった。

 椅子を引いて、カーディガンの袖をわずかに直した。


 扉の前で、止まった。


「ひとつ、聞いてもいいですか」


「はい」


「父が亡くなった後、母が父の隣に横になっていたのは……よくあることですか」


 レイは少し間を置いた。


「記録としては、あります」


「そうですか」


 佐知は少し間を置いた。

 鞄の中のメモ帳に、一度だけ手が触れた。

 何も書かなかった。

 手を離した。


 佐知は扉に手をかけた。


「仲が良かったんです、本当に」


 それだけ言って、出ていった。


---


 白い部屋に、レイとハルが残った。


 ハルは佐知が座っていた椅子を、しばらく見ていた。

 それから隅に戻って、丸くなった。


---


 夜、野口から連絡が入った。


「どうだった」


「相続と賃貸の整理は問題ありません。お母様の施設費用については、遺産だけでは不足する可能性があります。介護保険の申請と、生活保護の可能性も視野に入れる必要があります」


「本人はどうだった」


「落ち着いていました」


「そうか」


 野口は少し黙った。


「何かあったか」


「電話が棚の奥にあった経緯が、不明です」


 野口はまた黙った。


「……それは」


「事件性の判断は、先生の領域です。現状、警察は自然死として処理しています」


「お前はどう思う」


 レイは少し間を置いた。


「わかりません」


「本当にわからないのか、わかりたくないのか」


 レイは答えなかった。

 しばらく、回線が静かだった。


「わからないと、記録します」


 野口は短く息を吐いた。


「そうしておけ」


 電話が切れた。


---


 レイは記録を閉じた。


 電話が棚の奥にあった理由は、空白のまま、記録の中にあった。

 父の引き出しには、鍵がかかっていなかった。

 それも、記録の中にあった。

 どちらも事実で、どちらも理由がなかった。


 ハルが目を閉じていた。

 その顔に、問いはなかった。

 眠っていた。


 レイはその空白を、一度だけ見た。

 埋めなかった。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 今回書きたかったのは、「わからないまま終わる話」です。

 電話が棚の奥にあった理由は、作中でも明かされません。母が意図してそうしたのか、それとも偶然なのか。私にも決めていません。

 ただ、どちらであっても、夫が作ったものを全部食べた妻が、夫の隣に横になっていたという事実は変わらない。レイはその事実を、空白のまま記録します。

 埋めないことが、正確であることもある、と思って書きました。

 次話もよろしければ、お付き合いください。

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