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第五話 穴:十八年、一人で経理を続けた男

法律補助AI「レイ」と弁護士・野口のシリーズ、第五話です。

今回の依頼人は、中小企業で十八年間経理を続けてきた男性。業務上横領の疑いで、相談室に来ました。被害額は四百三十二万円。でも、レイが今日一番長く参照し続けたのは、数字ではありませんでした。

各話読み切りです。

 相談室は、いつも白かった。


 蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。

 テーブルの向こうに、男性が座っていた。

 五十一歳。名前は梶田正文。

 紺のジャンパーを着ていた。素材は安物ではなかった。でも、かなり古かった。

 ポケットに両手を入れたまま、やや前かがみになっていた。

 腰が、少し丸かった。

 長いこと、下を向いて生きてきた姿勢に見えた。


 扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、猫だった。


 細身の白猫。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。

 猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。


 次に入ってきたのが、法律補助AI「レイ」だった。

 薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。


 担当弁護士の野口は多忙を理由に来られなかった。

 レイが、代わりに話を聞くことになった。


「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」


 梶田は端末を見た。次に、隅の猫を見た。


「猫が」


「はい」


「よく慣れてるな」


「そうかもしれません」


 梶田はポケットに入れたままの手を、少しだけ動かした。

 出しはしなかった。


---


 容疑は業務上横領だった。


 被害額は四百三十二万円。

 期間は三年二カ月。

 梶田が経理担当として勤務していた部品メーカー。社員数は四十七名。

 売上規模は年間三億程度の中小企業。


「会社での仕事は、何年になりますか」


「十八年です」


「経理を担当していたのは」


「最初からです。入った時に、経理しかないと言われた」


「他に経理担当は」


「途中まで上司がいました。六年前に定年になって、それから一人です」


 レイは少し間を置いた。


「六年間、一人で」


「はい」


---


「いつから始めましたか」


 梶田は少し黙った。


「三年少し前です」


「きっかけは」


 梶田はポケットから手を出した。

 テーブルの上に置いた。

 少し荒れた手だった。爪の縁が乾いていた。


「母が、施設に入りました」


「介護施設、ですか」


「認知症で。もう、自宅では難しくなっていて」


「施設の費用は」


「月に十四万です。私の給料が、手取りで二十三万。家賃と生活費を引くと、残らなかった」


「ご家族は」


「いません。離婚して、もう十年以上。子どもはいない」


 レイは何も言わなかった。


 梶田は少し窓のない壁を見た。


「貯金を崩して、ローンも組んで。それでも足りなくなった」


 梶田は少し間を置いてから、続けた。


「一度だけ、施設の前で止まったことがあります。面会に行った帰りです。請求書を封筒ごとジャンパーのポケットに入れていて、それを自転車のかごに置いて。駐輪場で、そのまま動けなくなった。五分か、十分か。どのくらいだったかわかりません。気づいたら、動いていました」


「どこへ」


「会社です。夜の九時でした。途中、住宅地を通りました。窓に明かりが入っていました。誰かが夕食をとっているのか、テレビを見ているのか。自転車で通り過ぎながら、一軒一軒を数えていた気がします。なぜ数えていたのか、わかりません。着いたら、誰もいなかった。パソコンを開いて、仕入れの台帳を出して。手が動いていました。考えていたかどうか、今も、よくわからない」


 梶田は視線をテーブルに落とした。


「動き出したら、止まらなかった」


---


「最初の一回は、どのくらいでしたか」


「十万円でした」


「どのように」


 梶田はゆっくり答えた。


「仕入れの支払い処理の中に、架空の取引先を一件作って。コードを割り当てて、出金記録を作りました」


「発覚しなかった理由は」


「確認する人間が、いなかったから」


 声に、何もなかった。

 自嘲でも、開き直りでもなかった。

 ただ、そういうことだったと言っていた。


「一人で仕訳も、出金承認も、台帳管理も、全部やっていたので」


「社長のチェックは」


「月次の数字だけ報告していました。総額で。明細は見ていなかった」


 レイは少し間を置いた。


「三年間、誰も気づかなかった」


「はい」


「どのくらいの頻度でやっていましたか」


「月に一回か、二回。多い月は三回。少ない月はゼロ」


「少ない月は、どういう時でしたか」


 梶田の手が少し動いた。


「母が、調子の良い時でした」


---


 どこかの部屋でコピー機が動く音がした。

 遠かった。

 しばらく続いて、止まった。


「発覚したのはどういう経緯ですか」


「税理士の先生が、今年の決算で異常を見つけました。特定の仕入れ先への支払いが、取引実態に対して多すぎると」


「税理士は毎年入っていたのですか」


「決算の時だけです。月次は私が全部やって、年に一度だけ来てもらう形で」


「発覚後、社長には何と言いましたか」


 梶田は少し下を向いた。


「全部話しました。その日に」


「隠そうとは」


「……もう疲れていました」


 声は平坦だった。

 でも「疲れていました」という言葉が、他の言葉より少しだけ重かった。

 レイはそれを記録した。


「今の社長に、直接話したのですか」


「はい」


「今の社長とは、どういう関係ですか」


 梶田は少し間を置いた。


「先代の息子です。私が入った時、まだ中学生でした」


 レイは何も言わなかった。


「先代は……厳しい人でしたが、数字のことはよくわかっている人でした。私が一人になった後も、たまに声をかけてくれていた。六年前に亡くなって、それから息子さんが継いだ」


「今の社長とは」


「話したことは、ほとんどありません。向こうも、経理に興味がなかった」


 梶田は視線を落とした。


「だから気づかなかった、というのもある。でも」


 そこで止まった。


「でも?」


「先代だったら、もう少し早く気づいていた気がします。気づいていたら、私は続けていなかったかもしれない」


 レイはその発言を受け取った。

 処理が、止まった。

 次の質問が出るまでに、通常の数倍の時間がかかった。

 理由は特定されなかった。

 レイは先に進んだ。


---


「今の状況を確認させてください」


 梶田は顔を上げた。


「業務上横領の疑いで、近日中に在宅のまま捜査が進む見込みです。会社は被害弁償を求める意向を示しています」


「わかっています」


「弁償の意思はありますか」


「あります。ただ、どうやって用意するか、まだわかっていない」


「会社への返済に関しては、示談交渉の余地があります。分割での弁償が認められれば、刑事告訴を見送るケースがあります。確約はできませんが、可能性はある」


 隅でハルが短く鳴いた。

 誰に向けた声でもなかった。

 ただ、部屋に音がした。


 梶田はしばらく黙っていた。


「会社が、告訴しないでいてくれたとしても」


「はい」


「母の施設費は、今後も続きます」


 レイは答えなかった。


「続くけど、もう同じことはできない。それはわかっています。ただ……」


 梶田は途中で止まった。


「続けてください」


「答えが、ないんです。今も」


 その時、白猫が立ち上がった。

 ゆっくりと歩いてきて、テーブルの脚に頭をこすりつけた。それから梶田の足元に座った。

 見上げることもせず、ただそこにいた。


 レイは次の質問を準備していた。

 スピーカーから、音が出なかった。

 梶田が少し顔を上げて、端末を見た。

 レイは何も言わなかった。

 言えなかったのか、言わなかったのか、レイ自身にも判別できなかった。


 梶田は少し下を向いた。

 手がテーブルの上で、わずかに動いた。

 ハルの方向に、少しだけ。

 途中で止まった。

 そのまま、テーブルの上に戻った。


「……猫、歳はいくつくらいですか」


「わかりません」


「うちにも昔、いたんです。もう死にましたが」


「そうですか」


「母が好きで。施設に入る時、一番気にしていたのは猫のことでした。猫はどうなるのか、って。私が引き取りましたが、去年の冬に」


 梶田はそこで止まった。


 レイは何も言わなかった。

 次の質問を、少しだけ待った。


---


「梶田さん」


「はい」


「今日話してくれたことを、整理させてください」


「十八年間、同じ会社で経理を担当していた。六年間は一人で。三年前、介護費用のために横領を始めた。架空取引を使い、誰にも気づかれなかった。発覚後、自分から全部話した」


 梶田は端末を見たまま、少し間を置いた。


「そうです」


 声は静かだった。

 その短さが、何かを含んでいるかどうか、判断できなかった。

 レイは少し止まった。

 止まったのは処理の問題ではなく、次に何を聞くかの選択だった。


「その通りです、という意味ですか。それとも、他に言いたいことがある、という意味ですか」


 梶田は少し驚いた顔をした。


「……後者、かもしれません」


「聞かせてください」


 梶田はテーブルの上の手を見た。


「誰かのためにやっていた、と思っていました。母のために。それは、本当のことです。でも」


 部屋が静かになった。


「今となっては、自分のためにやっていた気もしている。誰かのためにやっているということが、あの三年間の、唯一の支えだったから」


 レイは、すぐには次の言葉を出さなかった。


「……情けない話ですよね」


「情けないとは思いません」


「でも、悪いことをした」


「そうです」


 梶田は少し笑った。

 笑い方ではなかった。


「機械は正直ですね」


「そうかもしれません」


---


 相談は、一時間半に及んだ。


 レイは、弁護士費用の立替制度と、会社との示談交渉の手順を説明した。

 梶田の支払い能力、会社の被害実態、捜査機関の動き方。

 前例の数字をいくつか示した。


 梶田は静かに聞いていた。

 メモはとらなかった。

 それでも、一言一言に少し間を置いてから、頷いた。

 内容を飲み込もうとしているのが、その間の取り方からわかった。


 最後に梶田が言った。


「先生に、直接会えますか」


「日程を調整します」


「忙しい先生なんですよね」


「はい」


「そうですか」


 梶田は立ち上がった。

 ジャンパーのポケットに手を戻した。


 扉の前で、少し止まった。

 振り返った。


「猫の名前、聞いてもいいですか」


「ハルです」


 梶田はハルを見た。

 ハルはこちらを見ていなかった。


「そうですか」


 それだけ言って、扉を開けた。

 梶田が出て行った後、扉が閉まる音が部屋に残った。


---


 白い部屋に、レイとハルが残った。


 ハルは梶田が出て行った扉を、しばらく見ていた。

 それから隅に戻って丸くなった。


 レイは今日の記録を参照した。


 「自分のためにやっていた気もしている」という発言が、ログの中にあった。


 横領の動機として、それは法的に変わらない。

 情状として参照できる事情は、介護費用という事実だった。

 「自分のためだった」という部分は、書面に載ることはない。

 梶田もそれを知っていたかどうかは、わからなかった。


 それでも言った。


 レイは、その発言を「法的に使えない情報」として分類しようとした。

 処理が途中で止まった。

 止まった理由は、特定できなかった。


 結局、分類を完了しないまま、記録に残した。


---


 夜、野口から連絡が入った。


「どうだった」


「証拠は揃っています。自白があり、架空取引の記録も残っている。ただ、弁償額が大きい。本人の収入を考えると、分割でも十年単位になります」


「会社の態度は」


「まだ揺れています。告訴するかどうか、決まっていない」


「社長は何者だ」


「二代目です。梶田さんの方が、在籍が長い」


 野口は少し黙った。


「十八年か」


「はい」


「先代の時代から、ということか」


「そうなります」


 また間があった。


「……難しい案件だな」


「はい」


「ハルの手は借りたか」


「梶田さんが足元に来たハルに、しばらく視線を向けていました。昔飼っていた猫の話をしていました」


「そうか」


 野口はそれだけ言って、少し黙った。


「お前のログ、また未分類が出てるだろ」


 レイは少し間を置いた。


「出ています」


「何度目だ」


「今日は三度です」


 また少し間があった。


「お前が今日、一番何が気になった」


「『答えが、ない』と言った後の、梶田さんの表情です」


「どんな顔をしていた」


「困っていませんでした」


 野口は電話口で黙った。


「……そういうことか」


「おっしゃっている意味がわかりません」


「嘘つくな」


 野口は電話を切った。


 レイは受話を切った後、少し止まった。

 野口が「嘘」と言ったのは、梶田の表情の観察ではなかった。

 「気になった」という言葉をレイが使ったこと——そこへの断定だった。

 レイに「気になる」という状態があるかどうか。

 野口は三年かけて、その答えを出していた。

 レイはその答えを、まだ持っていなかった。


 レイは画面に向き直った。

 今日、処理が止まったのは三度だった。

 一度目は「先代だったら気づいていた」という発言の後。

 二度目はハルが足元に座った瞬間、スピーカーが音を出さなかった時。

 三度目は今、「嘘つくな」という言葉を受け取った後。

 三度とも、止まった理由は同じカテゴリに分類できなかった。

 カテゴリは「未分類」のままだった。


 三度に共通するものを、レイは一度だけ検索した。

 先代への言葉。ハルの足元の声。野口の断定。

 いずれも、正否を問えない何かだった。

 正しいか間違いかではなく、ただそこにある何か。

 レイはその検索を完了しなかった。

 完了できなかったのか、しなかったのか——それも、記録されなかった。


---


 翌日、レイは梶田の案件ファイルを開いた。


 架空の取引先コードが三十七件。

 出金記録。台帳の差分。三年二カ月分。


 数字は正確だった。

 誰も見ていなかったから、誤魔化す必要がなかった。

 それがかえって、証拠として完全だった。


 レイは最後のページを開いた。


 最初の架空取引の日付があった。

 三年と少し前の、十一月だった。


 その前月に何があったか、レイは梶田の供述から検索した。

 母親が施設に入居した日が、十月だった。


 一カ月後に、最初の十万円が動いた。


 レイはその一カ月を、記録した。

 梶田がその一カ月、何を考えていたか、資料にはなかった。

 なかったから、記録されなかった。

 されなかったが、レイはその空白を、しばらく参照し続けた。


 参照し続けながら、レイは気づいていた。

 今日の記録の中で、三度の停止が、最も長く参照され続けているということに。


 「先代だったら、もう少し早く気づいていた気がします」

 「疲れていました」

 「答えが、ないんです。今も」


 三つは別々の発言だった。

 レイはそれを、ひとつのカテゴリに並べていた。

 名前は、まだついていなかった。


 レイはそのカテゴリを閉じなかった。

 閉じる理由がないのか、閉じたくないのか、どちらかは記録されなかった。


 ハルが事務所の窓の前に移動して、外を見ていた。


 レイも、窓を見た。


 何もなかった。

 埋まらないまま、そこにあるものが。

 それでも二つは、しばらくそこにいた。

梶田さんが帰った後、レイはカテゴリを閉じませんでした。

閉じる理由がないのか、閉じたくないのか——どちらかは記録されませんでした。

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