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第四話 圧力:月曜の朝が、七カ月続いた。

 AI弁護士補助システム「レイ」と、担当弁護士・野口が依頼人の相談を受ける、一話読み切りシリーズの第四話です。

 今回の依頼人は、七カ月間、毎週月曜の朝に社長から呼び出されてきた男性です。怒鳴られるわけでも、暴力を受けるわけでもない。ただ、一対一の密室で、静かに「辞めないか」と言われ続ける。

 怒れないから、誰にも言えない。言葉にできないから、存在しないことになっていく。

 そういう圧力の話を書きました。

 ※各話独立していますので、このお話からお読みいただいても大丈夫です。

 相談室は、いつも白かった。


 蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。

 テーブルの向こうに、男性が座っていた。

 三十四歳。名前は堀川誠一。

 グレーのスーツを几帳面に着ていた。ネクタイの結び目が少し左に歪んでいた。

 背筋を伸ばして、両手を膝の上で揃えていた。

 それがかえって、何かに耐えているように見えた。


 扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、猫だった。


 大きめの茶トラ。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。

 猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。


 次に入ってきたのが、法律補助AI「レイ」だった。

 薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。


 担当弁護士の野口は多忙を理由に来られなかった。

 レイが、代わりに話を聞くことになった。


「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」


 誠一は端末を見た。次に、隅の猫を見た。


「猫も、いるんですか」


「話しやすくなる方もいます」


 誠一は少し間を置いてから、視線を端末に戻した。

 何か言おうとして、やめた。


---


「今日はどういったご事情で」


 誠一はまた少し間を置いた。


「退職を、迫られています」


「誰から」


「社長です」


 レイは何も言わなかった。


「七カ月、毎週呼ばれています。月曜の朝、九時に。会議室に一人で」


「社長と、二人で」


「はい。誰も来ません。議事録もとりません。一対一です」


---


「その場で、どういうことが言われますか」


 誠一は少しだけ視線を落とした。


「最初は、評価の話でした。今期の数字が足りない、と。でも自分では、チームの中では下ではないと思っていて」


「客観的な評価データはありますか」


「同僚の売上と比べると、私は中位から上位の間だと思います。数字は出せます」


「続けてください」


 誠一はネクタイに触れた。一度だけ。


「三回目くらいから、『君はうちに向いていない』と言われるようになりました。『若い人に席を譲れ』と。私は三十四歳で、入社九年目です」


「他には」


「『君がいると空気が悪くなる』。『クライアントからの評判が良くない』。でも、具体的な話は一度も出ません。聞いても、『そういう雰囲気の話だ』と言われます」


「その『雰囲気』について、何か記録は」


「していませんでした。最初の三カ月は、ただ怖くて」


---


 レイは少し間を置いた。


「怖い、というのはどういう状態でしたか」


 誠一は少し驚いた顔をした。


「……日曜の夜から眠れないようになりました。月曜の朝、あの部屋に入る前から、胃が痛くなっています。今も」


「今日も、ですか」


「今日も。今朝、妻に顔色が悪いと言われました。何でもないと答えました」


 レイはすぐには次の質問をしなかった。


---


「四カ月目から、少し変わりました。直接『自分から辞める気はないか』と言われるようになりました。最初は遠回しに。でも最近は、毎回その言葉で終わります」


「それに対して、あなたは何と答えてきましたか」


「『辞める意思はありません』と。毎回そう言っています」


 誠一は少し間を置いた。


「十三回、同じ言葉を言いました」


「その後、社長はどう反応しますか」


「黙ります。しばらく黙って、それから『そうか』と言って、終わります」


「その沈黙が……長いんです。時計を見たことがあって。三十秒くらいだったんですが、感覚では五分くらいに感じる。社長はその間、ずっとこちらを見ている。怒った顔じゃない。ただ、見ている。その間、部屋に音がなくなる」


 誠一の手が、膝の上で少し動いた。


「終わった後の方が、つらいんです。言われている間は、何とか答えられる。でも部屋を出た後、廊下を歩いていると、何も考えられなくなる」


---


「直近の面談はいつですか」


「三日前です」


「その場で、何か言われましたか」


 誠一は少し手に力を入れた。


「『君には能力がない』と言われました。それから、『残っていても誰も君を必要としていない』と」


 声は変わらなかった。

 でも、「必要としていない」の後だけ、ほんの少し間があった。


「それから……来期の組織見直しで、私のいる部署をなくすことも考えている、と」


「その後、社長は少し間を置いてから、『堀川くんは確か、去年マンションを買ったんだったね』と言いました。それだけです。それ以上は何も言わなかった」


 誠一の手が、膝の上でかすかに動いた。


「関係ない話のように言うんです。でも、そういう意味だとわかりました」


---


 レイは少し間を置いた。


「いくつか確認させてください」


「はい」


「社長はその十三回の面談以外で、仕事上の指示をしてきますか」


「直接の指示はほとんどありません。上司は別にいます」


「上司との関係は」


「問題ない、と思います。上司は私の評価を悪く言ったことはない」


「社長があなたを呼ぶ理由を、上司は知っていますか」


「……知っていると思います。でも、何も言ってきません」


「あなたから上司に話したことは」


 誠一はしばらく黙っていた。


「言えませんでした」


「なぜですか」


「言ったら、もっとまずいことになると思っていて。社長と上司は、同じ方向を向いているのか、それとも上司は知らないふりをしているだけなのか、わからなくて」


 レイは答えなかった。


「一人で七カ月、抱えてきたということですか」


 誠一の口が、一度動いた。

 声は出なかった。

 もう一度、動いた。


「……はい」


---


「法的な説明をします」


 誠一が少し顎を上げた。


「今おっしゃったことは、パワーハラスメントの定義に該当します。退職を繰り返し迫ることは、強要行為として認定されたケースがあります」


 誠一はしばらく黙っていた。


「私が、おかしいわけじゃなかった、ということですか」


 誠一は端末を見ていた。

 答えを待っているのではなく、確かめているような顔だった。


 レイは少し間を置いた。


「あなたの判断は、法的な観点から見て、正確です」


---


「一つ、聞いてもいいですか」


 誠一が言った。


「はい」


「録音を、しています。三カ月前から」


 レイは何も言わなかった。


「スマートフォンで。全部で十三回分あります。最初の三カ月は、していませんでした」


「なぜ始めましたか」


 誠一は少し間を置いた。


「このままでは、自分が何を言われたか、忘れてしまうと思って。実際、最初の面談の内容は、もうよく思い出せない」


「消そうとしたことはありますか」


 誠一が少し顔を上げた。


「……あります。二回。聞き直すのがつらくて。でも、消しませんでした」


 レイは少し間を置いた。


「消さなかったのは、なぜですか」


「わかりません。ただ……消したら、本当に何もなくなる気がして」


---


「録音は証拠になります。二人だけの場でとったものは、有効です。

 社内への申し立て、労働局への申告、労働審判。録音の書き起こしと日付の整理を、今すぐ始めてください」


 誠一は端末を見ながら、メモをとっていた。

 丁寧な字だった。


「会社を辞めずに、これをすることはできますか」


「できます。在職中の方が証拠を集めやすい。合理的な理由のない解雇は無効です」


 誠一はペンを止めた。


「……そんなことを、誰も教えてくれませんでした」


---


 その時、隅の猫が立ち上がった。

 ゆっくりと歩いてきて、テーブルの脚に頭をこすりつけた。それから誠一の足元に座った。

 見上げることもせず、ただそこにいた。


 誠一は少し下を見た。

 膝の上に揃えていた手が、わずかに緩んだ。


---


「最後に一つだけ聞いてもいいですか」


「七カ月間、毎回断り続けてきた。それはなぜですか」


 誠一は少し考えた。


「……辞めたら、負けだと思っていました。でも」


 誠一はそこで止まった。

 続きを探すように、少し横を見た。


「でも、最近はわからなくなっていました。何が勝ちで、何が負けか」


 レイは答えなかった。


「家に帰って、妻が夕食の用意をしていても、何も言えなくなっていました。聞かれても、今日も何もなかったと言っていました」


 また止まった。


「妻には、まだ話していません」


 部屋が静かになった。


 隅の猫が、目を開けた。

 こちらを見なかった。

 ただ、目を開けたまま、動かなかった。


---


「話せなかった理由は、何ですか」


 誠一はしばらく黙っていた。


「心配させたくなかった、というのが一つ。でも本当は」


 誠一は視線を落とした。


「声に出したら、本当のことになる気がして」


 廊下を誰かが歩く音がした。


 消えた。


---


 猫が、短く鳴いた。


「堀川さん」


「はい」


「今日ここに来たのは、あなたが七カ月間、正しい判断をしてきた結果です」


 誠一は端末を見た。


「辞めなかったことが、ですか」


「辞めなかったことと、今日来たことが、です」


 誠一はしばらく、何も言わなかった。


---


 扉が閉まった。


 白い部屋に、レイとハルが残った。


 ハルは誠一が座っていた椅子の前にしばらくいた。

 それから、何かに気づいたように顔を上げた。

 椅子を見た。

 また隅に戻って、丸くなった。


 レイは今日の記録を参照した。


 「声に出したら、本当のことになる気がして」


 誠一が七カ月間、一人で抱えてきたことは、今日初めて言葉になった。

 それがどういうことか、法的な観点からは説明できなかった。


 レイは、その発言を分類しようとした。

 証言。陳述。感情の表出。いずれも当てはまった。

 いずれも、当てはまらなかった。

 分類が完了しないまま、処理が止まった。

 止まった時間は〇・四秒だった。

 通常の発話分類にかかる時間の、四百倍だった。

 ログには「該当なし」と記録された。

 レイは、その「未分類」を残した。


 次の処理に移ろうとした時、野口から連絡が入った。


「どうだった」


「証拠は十分です。録音が十三本あります。退職強要の反復、能力否定の発言、部署廃止をちらつかせた脅迫。判例と照らしても、動ける案件です」


「本人は何を望んでいる」


「まだ決まっていません。在職のまま交渉するか、会社を変えるか」


「それはこれからか」


「はい」


 野口は少し間を置いた。


「社長は何者だ」


「創業者の息子です。三年前に代替わりしました」


 野口はまた黙った。


「そういう案件は、和解が難しいことがある」


「そうです」


「なんで」


 レイは少し間を置いた。


「……わかりません」


 野口は何も言わなかった。


 しばらく黙っていた。


「そういうとこだよ、お前は」


「おっしゃっている意味がわかりません」


 野口は少し黙った。


「……いや、お前は、人間が、」


 また黙った。


 レイは答えなかった。続きを待った。


「わかってる」


 野口は電話を切った。


---


 翌週、誠一から連絡が来た。


 妻に話した、とだけ書いてあった。

 コメントはなかった。


 レイはそれを受信した。

 読んだ。

 記録した。


 通常、記録は一秒以内に完了する。

 その夜は、少し時間がかかった。

 理由は、記録されなかった。


 ただ、「話した」という二文字を、もう一度読み直した。

 それから画面に向き直った。


 ハルは隅にいた。


 レイは、次の案件のファイルを開いた。

 依頼人の欄を見た。

 別の名前だった。

 別の事情だった。

 それでも、開く前に一秒だけ止まった。


 ――どんな月曜日を過ごしてきた人なのか。


 処理の順序として、それは必要なかった。

 それでも、確認してから開いた。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 怒鳴られるわけでも、暴力を受けるわけでもない圧力の話を書きたくて、この話になりました。

 誠一が「声に出したら、本当のことになる気がして」と言う場面が、書きたかった一文です。

 次話もよろしければお付き合いください。

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