第二話 顔色:娘という言葉が出るたびに、息を止めていた。
法律補助AIのレイと、弁護士の野口が登場する、一話読み切りシリーズの第二話です。
今回は、夫からの暴力を抱えて面談室を訪れた女性の話。
静かな部屋で、AIはただ、話を聞いていました。
面談室は、いつも白かった。
蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。
テーブルの向こうに、女性が座っていた。
四十代。名前は岩城桂子。
薄手のジャケットを着て、ストールを首に巻いている。
右手首に、長袖の下から少しはみ出した痣が見えた。
左側の頬骨の下、化粧で薄くなってはいるが、黄ばんだ皮膚があった。
古い痣だった。
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、猫だった。
小さな黒猫。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。
猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。
次に入ってきたのが、法律補助AI「レイ」だった。
薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。
担当弁護士の野口は多忙を理由に来られなかった。
レイが、代わりに話を聞くことになった。
「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」
桂子は板状の端末を見た。次に、隅の猫を見た。
「猫も、いるんですね」
「話しやすくなる方もいます」
桂子は少しだけ、口元が動いた。
笑ったのかどうか、判断しにくい動き方だった。
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「今日は……どのようなことで」
桂子は少し間を置いた。
両手を膝の上で重ねていた。
「夫のことです」
「はい」
「夫が……暴力を振るいます」
レイは何も言わなかった。
桂子は続けた。
「最初は怒鳴るだけでした。でも三年前から、手が出るようになって。今は……週に、一度か二度」
「どんな時に」
「玄関の鍵の音がした時から、もう分かります。靴の脱ぎ方で」
「怪我をしたことは」
「何度か。あばらが一本、ひびが入ったことがあります。病院は別のところへ行きました。近所には知られたくなくて」
「今も、一緒に暮らしていますか」
「はい」
桂子は窓のない壁を、しばらく見た。
「夫は……何も言わない時の方が怖いんです。黙ったまま、こちらを見ている。それだけで、体が動かなくなる」
「一度だけ、夫が言ったことがあります。『お前が先に謝れば終わる』って。静かな声で」
「子どもがいます。娘が、来年中学になります」
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レイは、桂子が話すのを待った。
「娘にも、手が出ますか」
桂子の肩が、わずかに動いた。
「今のところは……怒鳴るだけです。でも」
「でも?」
「娘が夫の顔色を、見るようになりました。食卓で。玄関で。私と同じように」
その言葉の後、少し間があった。
「それが、一番……つらくて」
レイは、忘れないようにしていた。
桂子が「つらくて」と言った後、何も言わなかった。
次の言葉が来るまで、ただ待った。
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「いくつか確認させてください」
「はい」
「暴力を受けた日付や状況を、記録したものはありますか」
「メモ帳に……少し。スマートフォンに」
「写真は」
「……あります。怪我をした時に、自分で撮っていました。誰かに言われたわけじゃないんですが、何となく」
「それは非常に重要です」
レイは続けた。
「夫の職業を聞いてもいいですか」
「会社員です。中堅の建設会社で、部長職です」
「収入は」
「私も働いています。パートですが。夫は年収が、たぶん八百万くらい」
「お子さんの戸籍と住民票は、現在の住所にありますか」
「はい」
「今、信頼できる親族や友人は」
桂子は少し考えた。
「実家の母が……いますが、心配させたくなくて、まだ話していません」
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レイは整理した。
「現在の状況を法的な観点から説明します。
今おっしゃったことが事実であれば、配偶者暴力防止法、いわゆるDV防止法の適用対象になります。
身体的暴力だけでなく、精神的な暴力も含まれます」
桂子は一度、手を膝の上で重ねた。
保護命令の申立て。接近禁止。一時保護施設。費用はかからないこと。離婚を選ぶ場合の婚姻費用、親権、養育費。写真とメモが証拠になること。
レイは順に説明した。
桂子はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「離婚……を、考えていいのか、ずっと迷っていました」
「迷っている、というのは」
「娘のためには、父親がいた方がいいのかと。経済的なこともありますし。私が我慢すればいいのかと」
レイは少し間を置いた。
「ひとつだけ聞いてもいいですか」
「はい」
「娘さんが、今の状況を友人に話していると知ったとしたら、桂子さんはどう思いますか」
桂子は答えなかった。
しばらく、黙っていた。
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扉の外から、廊下を誰かが歩く音がした。
遠ざかって、消えた。
桂子が言った。
「娘が……先週、私に聞いたんです」
「何を」
「お母さんは、パパのことが怖い?って」
レイは何も言わなかった。
「私は『怖くないよ』と言いました。笑って」
桂子の手が、膝の上でかすかに動いた。
「でも娘は……『そっか』と言って、それだけで部屋に戻っていきました。振り返らなかった」
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その時、隅の猫が立ち上がった。
ゆっくりと歩いてきて、テーブルの脚に頭をこすりつけた。それから桂子の足元に座った。
見上げることもせず、ただそこにいた。
桂子は少し下を見た。
膝の上で重ねていた手が、わずかに緩んだ。
「桂子さん」
「はい」
「あなたが何を決めるにしても、今日ここに来たことは、正しい一歩です。それは、法的な観点からでも、そうでない観点からでも」
桂子は顔を上げた。
「娘さんが聞いたのは、父親のことだけじゃなかったかもしれない」
レイはそれだけ言った。
桂子の目が、少し動いた。
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その日の相談は、一時間少し続いた。
レイは、配偶者暴力相談支援センターの連絡先と、弁護士費用の立替制度の資料を端末から送った。
保護命令の申立て手順と、証拠の保全方法についても、ひとつひとつ確認した。
桂子は、途中で一度だけ涙をぬぐった。
謝らなかった。
最後に、桂子は言った。
「娘に……同じ顔色を読ませたくないと思っていました。でも、自分がそう思っていることを、ちゃんと言えたのは、今日が初めてかもしれません」
レイは答えなかった。
答えるより先に、桂子がゆっくり立ち上がった。
ストールを直した。手が一度、途中で止まった。
それからまた動いて、ストールを直し終えた。
椅子を、元の位置に戻した。角度を確かめるように、もう一度だけ触れた。
扉に手をかけた時、振り返らずに言った。
「ありがとうございました」
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扉が閉まった。
白い部屋に、レイとハルが残った。
レイは、桂子が来た時の記録を参照した。
右手首の痣。頬骨の下の古い傷。
それから、椅子を元の位置に戻した時の、あの動作。
桂子は、そうする人だった。
自分の痕跡を、丁寧に消しながら。
レイはその記録を、ログの中に残した。
残す必要はなかった。
それでも、消せなかった。
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夜、野口から連絡が入った。
「どうだった」
「証拠は揃っています。写真と記録、三年分。動けます」
「本人の意思は」
「まだ揺れています。ただ、『娘』という言葉が出るたびに、一度息を止めてから、声が小さくなっていました」
野口は少し黙った。
「……お前、そういうこと言うんだな」
「違いましたか」
「違わない」
また少し間があった。
「ハルの手は借りたか」
「ハルが足元にいたことは記録しています。それが何かに繋がったかどうかは、わかりません」
「意外と効くんだよな、あいつ」
野口はそれだけ言って、電話を切った。
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その夜、桂子は娘が眠ってから、スマートフォンを開いた。
メモアプリに、日付と状況が並んでいた。
三年分の記録だった。
誰にも見せるつもりはなかった。
ただ、消えてしまわないように、書き続けていた。
レイが「非常に重要です」と言った言葉を、桂子は思い出した。
言葉は短かった。
でも桂子には、その短さが、何かを正確に受け取ってくれた感じがした。
スマートフォンを伏せた。
暗くなった画面に、天井の光が映った。
娘の寝息が、隣の部屋から聞こえていた。
桂子はしばらく、その音を聞いていた。
それからもう一度だけ、画面を表に向けた。
指が、レイから送られてきた連絡先の上で、止まった。
DVの相談窓口は、今も全国にあります。
配偶者暴力相談支援センター(各都道府県)、または「DV相談ナビ」(#8008)。
桂子の指が、あの夜どこに触れたか。それは書きませんでした。
読んでくださってありがとうございました。




