第九話 薬種商の街
色を作る者を探して、澪は薬種商の街区へ足を向けた。
色を「見る」自分に足りないもの。それを持つ者がいるとすれば、ここだ、という勘だけが彼女を導いていた。
初めて踏み入れた薬種商の街区は澪の知る、どの市場とも違っていた。
顔料を扱う者たちは確かにここにいた。けれど、ここで売られているのは顔料だけではなかった。
澪はその街の天秤を見て立ちすくんだ。
同じ一つの天秤の上で薬と毒と色とが量られていた。熱を下げる粉のすぐとなりに人を眠らせたまま、起こさぬ粉がありそのまた、となりに絵師の青が置かれている。乾いた薬草の束。瓶のなかの琥珀色の液。水銀の重たい銀色。そして東の果てから運ばれてきたという、見たこともない鉱石の数々。
この街では、命を救うものと命を奪うものと美を生むものがすべて同じ商いだった。同じ棚に並び同じ天秤で量られ、同じ銀貨と引き換えられていく。
色が急によそよそしく見えた。
工房では色は澪の手のなかの仲間だった。指で溶き、筆に含ませ、絵に置く。そうやって生きているものを相手にするように長いこと付き合ってきたのだ。けれど、ここでは色はただの品物だった。秤にかけられ、値をつけられ、冷たく、量られていく。色のもうひとつの顔を澪は初めて見た気がした。
ある店先では東方の香が焚かれ、めまいがするほど甘い煙が路地に流れていた。別の店では干した蛇や、乾いた虫が薬として吊るされている。世界の果てからあらゆるものがこの街に集まり値をつけられ、売られていく。澪の知らない世界の匂いと色と毒が。彼女はその豊かさと無慈悲さに圧倒された。
*
ここでも澪はよそ者だった。旧聖堂の沈黙が「語らぬ壁」だとすれば、この街の壁は「無関心」だった。
澪はいちばん間口の広い顔料商の店先で勇気を出して訊いてみた。
「あの……青は作れるのでしょうか。掘ってくるのではなく、こしらえる、というような」
でっぷりと肥えた店主は澪をちらと見て鼻で笑った。
「作る? 娘さん」店主は周りに聞こえるように声を張った。「青は東の山から掘って運んでくるものだ。神様が地の底に埋めなすった宝だ。人がこしらえられるもんかね。……そんなことも知らんのか、田舎者が」
下働きの男たちがげらげらと笑った。よそ者の無知な女。澪はうつむいてその場を離れた。頬が熱かった。
別の店でも同じだった。ある店主は値だけ告げるともう目もくれなかった。ある男は「うちはまっとうな商いだ。妙なことを訊きに来るな」と追い払った。語ってくれぬのと、はじめから相手にされぬのとは別の種類の壁だった。けれど、どちらも彼女を中へは入れなかった。
澪は街区の奥へ奥へと進んだ。看板の文字はしだいに掠れて埃をかぶり、路地は進むほど狭く、暗く、両側から迫るように低くなっていった。日の光は屋根と屋根のあいだの細い隙間からしか落ちてこない。
いちど、痩せた老いた薬種商に思いきって訊いた。
「このあたりに……色を作ろうとしている人はいませんか。売るのではなく、火でこしらえようと」
老人はしばらく澪を見ていた。それから面倒くさそうに路地のいちばん奥を顎で示した。
「作る、ねえ。……まあ、いるにはいるさ。あのどんづまりに。火ばかり焚いて金にもならん、青を追いかけてる、変わり者がひとり。だがまともに相手をせんことだ。あれは取り憑かれとる」
その一言に澪の心の臓が跳ねた。青を追いかけている変わり者。
「……ありがとうございます」
澪は路地の奥へと足を速めた。それでも足は止まらなかった。作る者がいるとすれば、こういう、世界の隅だ。表通りの明るい店ではない。人目を避け、火を焚き、失敗を重ね、それでも何かを作ろうとする者はいつだって暗がりにいる。澪自身がそうだった。暗がりの者どうしは匂いで分かる。
*
いちばん奥のいちばん薄暗い店の前で足が止まった。
その店の奥からはほかの店とは違う匂いがした。硫黄。灰。焼けた金属の匂い。覗き込むと暗がりに炉があった。坩堝。細いガラスの管。煤けた書物。それは顔料を「売る」店ではなかった。澪の知る言葉で言えば――錬金術師の部屋に近かった。色を売るのではなく、色を「作ろう」とする者の場所。
澪はその炉を見て胸が高鳴った。工房にはない火の匂い。何かを溶かし混ぜ、別のものに変える気配。ここでは色は「使われる」のではなく、「生まれよう」としていた。使う者の自分には決して覗けなかった色のはじまりの場所。
もしかしたらここに――あの青の答えの切れ端くらいはあるかもしれない。そう思うと鼓動が速くなった。同時に怖くもあった。答えに近づくことは、あの絵師を消した「何か」に近づくことでもあるのだから。
その炉の火を見つめながら、澪は自分がどこにも属さないことを思った。工房でも下働き。この街でもよそ者。前世の世界にはもう帰れない。この時代にも根を張れない。宙ぶらりんの根なし草。それでも青のことだけは手放せなかった。それだけが彼女をこの見知らぬ世界に繋ぎとめていた。
澪は吸い寄せられるようにその暗がりを見つめた。ここだ、と直感が告げていた。作る者がいるとすれば、ここだ、と。
炉のそばの壁には無数の壺が並んでいた。近づいて見るとそのどれもが失敗の跡だった。濁った青。緑に傾いた青。灰へ崩れた青。ひとつ、ひとつが誰かの幾夜ものあがきの残骸だった。澪の胸が鈍く疼いた。この壺の山を彼女は知っている。工房の隅で自分が焦がしたあの塊と同じ匂いがした。
誰かがここで青を作ろうとして失敗しつづけている。
しかもと澪は思った。よりにもよって――青を。ラピスの群青でもアズライトでもない、何か、別の青を。この時代の誰も作れないはずの青を。彼女と同じものを追っているかのように。まさか、と思う。けれど、この壺の山がそのまさか、を裏づけていた。
胸の欠片が脈打つのを感じた。ここへ来るべくして来たのだ。
*
すると暗がりのなかで何かが動いた。
乳鉢を抱えた若い見習いだった。年のころは澪と変わらない。すり潰す手を止めて彼はこちらを見ていた――いや、見ていたのは澪ではなかった。澪のその先。あるいは澪が背負ってきた何かを。
煤に汚れた頑固そうな顔。けれど、その目だけは暗がりのなかで妙に明るく燃えていた。取り憑かれた者の目。澪が鏡のなかに幾度も見た目だった。
澪の唇が声もなく動いていた。自分でも気づかぬうちに。このところ夜ごと胸のなかで唱えていた、たった一つの言葉が。
褪せない青。
若者の目が見開かれた。その形を読んだのだ。
乳棒がゆっくりと止まった。
それは――ずっと待っていた言葉をようやく誰かの口から聞いた者の目だった。長いあいだ、たったひとりで暗がりに火を焚いてきた者が。初めて同じ渇きを持つ、誰かに出会ったその目だった。




