第十話 夜空を閉じこめた石
その店の老主人はよそ者の女が青を尋ねたと知ると、初めて少しだけ目に色を浮かべた。
乳鉢を抱えた若い見習いはすり潰す手を止めたまま、店の隅からじっとこちらを見ている。けれど、老主人は彼には目もくれず、澪を値踏みするように眺めた。
「青を見る目があるのか。女に?」
嘲るような口ぶりだった。澪は黙って頷いた。この街の言葉がいまも拙い彼女にとっては、言葉で言い返すよりも手を見せてしまうほうがよほど早かった。
老主人はふん、と鼻を鳴らし奥から布に包んだ、三つの石を出してきた。
「ならば当ててみろ。どれが上物だ」
澪は三つの石に向き合った。若い見習いの視線を背中に感じながら。
最初の石を光にかざす。
息を呑むほどの青だった。深い藍のなかに金の粒がちらばり、白い筋が霜のように走っていて、まるで夜空をひとかけらそのまま石に閉じこめてきたかのような色だった。澪はそれがラピスラズリだと知っていた。金の粒は黄鉄鉱。白い筋は方解石。その混じり物のなかに本物の群青が眠っている。砕き練り幾度も晒してようやくあの群青は取り出される。
「これは一番取り。いちばん紫を帯びた、いちばん濃い青が採れる石」
澪は穏やかに言った。次の石を取る。
「これは二番取り。青は採れる。けれど、さっきの石ほどは深くならない」
三つめを彼女は手のひらで少し転がしただけで置いた。掌のなかでその石はわずかに軽くそして温かすぎた。本物の石は冬の水のように冷たさを溜めこんでいるものだ。
「これは紛い物。よく似せてあるけれど、青はほとんど採れない。染めた、ただの石」
老主人の眉がぴくりと動いた。三つとも当たっていた。
「だから言ったんだ」と店の隅から声が飛んだ。あの見習いだった。「その三つめは碧玉を藍で煮ただけの紛いだと。仕入れのときおれが撥ねた石を親方がわざわざ」
「口を閉じて手を動かせ」と老主人が唸った。
見習いは首をすくめて乳鉢に戻った。けれど、こちらへ寄こしたその目は笑っていた。同じ答えだ、とでも言うように。
老主人は口では嘲りながらその目は澪の手つきを追っていた。よそ者の女の目。それが東方の谷を渡ってきた石の値打ちを正しく言い当てたのだ。青の前では身分も素性も二の次だった。ものを言うのは目だけだ。
「……ふん。東の果てから来た女がよく言う」
彼は満更でもなさそうに鼻を鳴らした。
*
それから老主人はいちばん濃い青の石を指ではじいた。
「いいか。この一番取りの石はな。世界でただ一つの谷からしか出ん。はるか東の山の奥のただ一つの谷だ。そこから船と駱駝で何月もかけて運ばれてくる。盗賊に遭い、船は沈み関所のたびに値が跳ねる。だからこの青は――金より高い」
金より高い青。澪はその重さを掌で量った。石ころひとつが人ひとりの一年の暮らしよりなお高い。青がそこまで貴いのはただ遠く稀だからだ。
老主人は語りだすと止まらなかった。節くれだった指が石の面を何度も撫でた。撫でるうちにその声から嘲りが抜けていった。商いものを語る声ではなく、行ったこともない遠い谷を語る声になっていた。東の谷からどれほどの隊商がこの石のために砂漠で果てたか。どれほどの船がこの石を積んだまま、海の底へ沈んだか。青ひとつのために人が死ぬ。青ひとつが家を建て家を潰す。この都の富の少なからぬ部分がこの夜空の色の上に築かれていた。
澪はそれを聞きながらふと背筋が冷えた。もしこの石をいらなくする青があったら。谷も船も隊商もいらなくする青が。それはどれほどのものを崩すだろう。
*
商会はこの石の道を握っている。谷からこの都までの長い長い道を。その道の上がりでいくつもの大商家が宮殿のような館を建てた。教会もまたこの青を聖母の色と定め、その神聖さで需要を支えている。青が高いことは彼らにとって都合がいい。いや、高くなければ困るのだ。
だとすれば、と澪は思う。安い青、誰でも作れる、褪せない青は彼らにとってただの新商品ではない。秩序への刃だ。それを世に出そうとした者がいたなら消される理由もそこにある。
澪はぞっとした。自分が追っているものの大きさに。ただ美しい色を知りたかっただけなのに。その色はこの都の根そのものに触れていた。触れれば灼かれる根に。
あの白い光の世界ではと澪は思う。色の作り方を知っている、というだけで人が消されることなどなかった。顔料の生まれる理は書物に堂々と記されていた。誰でも学べた。学んだところで誰も咎めなかった。知は隠すものではなく分け合うものだった。
なのにこの都では。青の作り方を知ることそのものが罪になる。知ってしまった者は名ごと消される。同じ「知る」という行いが、時代ひとつで当たり前にも死の理由にもなる。彼女はいまその恐ろしい側の時代に立っていた。
*
名を持てなくてもと澪は思った。この目だけは誰にも盗めなかった。
あの白い光の世界からただ一つ、彼女がそのまま、持ってこられたもの。それがこの色を見分ける目だった。よそ者で女でほんとうの名さえ失った彼女のたった一つの財産。この目があるかぎり彼女はまだ絵師でいられる。まだ自分でいられる。
けれど、この目にも限界があった。目は見分ける。けれど、作れない。あの壁の青が何でできているかをこの目は教えてくれない。だから彼女はここへ来たのだ。目を持つ者ではなく手を持つ者を探して。色を作る、その手を。
けれど、と澪は掌のなかの夜空の石を見つめた。
この世でいちばん高いこの群青ですら。
彼女はあの壁の青を思い浮かべた。年月のすべてを撥ねのけて緑へも淀みへも傾かず、ただ燃えているあの青を。
届かない。
褪せない青。声には出さず、唇だけがその名をなぞっていた。
金より高いこの石を最高の腕で溶いてもあの壁の青には届かない。澪にはそれが分かった。目がそう告げていた。この夜空の石のどこにもあの深さはない。あの青は――この石から来たのではない。石を砕いた青ではない。焼いて生まれた青だ。
ならば――あれはいったい何で出来ているのか。
澪はその一番取りの石をそっと老主人に返した。金より高い夜空の石を。惜しくはなかった。彼女が探しているのはこの石ではない。この石を超える青。この石を無用にする青。ラピスの谷も船も隊商も、この老主人の商いさえ要らなくする青だった。それがどれほど、恐ろしいものかを澪はいまや、はっきりと悟りつつあった。美しさのいちばん奥に刃が隠れている。
店の隅で若い見習いの手のなかの乳棒がいつのまにか、完全に止まっていた。彼はもう澪から目を離せずにいた。その渇いた目がじっと彼女を見つめていた。まるで長く探していた地図の片われを見つけた者のように。




