第十一話 取り憑かれた男
澪が店を出て薄暗い路地を歩きだしてすぐ背後で足音がした。
振り返るとあの若い見習いだった。乳鉢を置いてきたのか、手は空だった。息を切らしている。走って追ってきたのだ。挨拶も名乗りもなかった。彼はいきなりこう言った。
「あの青をどこで見た」
澪は身構えた。
危うい問いだった。あの青のことは誰にも明かしていない。老親方にすらはぐらかしてきたものを、見知らぬ男に軽々しく話せるはずがなかった。沈黙が人を消す、この都では口の軽さは命取りになる。
「……何のこと」
「とぼけるな」
若者の声は低く、けれど切迫していた。
「あんた店で言った。声には出さなかったが唇がそう動いた。褪せない、青、と。おれはそれを――ずっと探している」
彼の目がぎらついていた。
澪は答えなかった。けれど、その目から目を離せなかった。
それは見覚えのある目だった。毎朝、水面や、磨いた銀の裏で彼女自身が見てきた目。何かに取り憑かれ、それを手に入れるまで決して放さぬ者の目。色に魂を奪われた者の目。こんな目をこの都で初めて見た。自分と同じ目を。
*
若者――彼はマッテオと名乗った――は澪を自分の仕事場の隅へ連れていった。
店のいちばん奥。老主人の目も届かぬ暗い一角。そこで澪が見たのは失敗の山だった。
壺がいくつもいくつも並んでいた。棚に床に無造作に。そのどれにも青が入っていた。けれど、まともな青はひとつもなかった。
濁った青。緑へ腐った青。灰に沈んだ青。ひび割れて器の底で剥がれた青。生まれてすぐ死んだ、青たちの墓場だった。
近づいてみて澪は気づいた。壺のひとつひとつに炭の走り書きがある。日付。材料の覚え。銅の緑塩。灰と砂。焼いた骨。読めない略号も混じっていた。失敗の山はでたらめに積まれているのではなく、帳面のように日付の順へきちんと並べられていて、この男は一度として同じ失敗をしていなかった。毎回、違うやり方で敗けている。それは狂気ではなく執念の几帳面さだった。
澪は思わずそのひとつを手に取った。中の青はまだ湿っていて指で触れるとぼろりと崩れ、粉になった。触れただけで死ぬ青だ。彼女の知る、どの絵具よりもはかない。
「そいつはいい。とうに死んでる」と背後で若者が言った。「だが右の棚は触らんでくれ。あれはまだ……諦めてない失敗だ」
諦めていない失敗。妙な言い草だった。けれど、澪にはその区別が痛いほど分かった。これほど、作っては失い、それでもこの男はやめなかった。一年、いや、それ以上。誰にも認められず、金にもならず、ただひとつの色のために彼はこの墓場を築いてきたのだ。
澪はその壺の列を声もなく見つめた。
ここにもいた。取り憑かれた者が。自分のほかにも。
色を「作る」側で同じ青に人生を削られている男が。彼女が色を「見る」側で同じ青に囚われているように。
*
「一年半だ」とマッテオは言った。澪の視線を追うように壺の山を見て。「師がこれを遺して死んでから。おれは一年半、これをやってる。……一度もまともな青が立ったことはない」
彼は笑おうとして失敗したような、顔をした。
「まわりはみんな言う。気が触れた、と。作れもしない色になけなしの銭を燃やして。……そうかもしれん。おれにも分からん。だがやめられん。やめたらおれには何も残らない」
その言葉が澪の胸にまっすぐ刺さった。やめたら何も残らない。それは彼女自身の言葉でもあった。青を手放したら自分がこの世界に繋がっている糸が切れてしまう。
マッテオは澪を奇妙な目で見ていた。
女だからと侮る目ではなかった。よそ者だからと警戒する目でもなかった。下働きの分際でと見下す目でもなかった。彼は澪をただ「同じ青に取り憑かれた人間」として見ていた。
この都へ落とされてから初めてだった。素性でも性別でもなく、ただ彼女が見ているものだけで彼女を見る人間に出会ったのは。
澪はふっと息がしやすくなるのを感じた。ずっと喉を締めつけていた何かが少しだけゆるんだ。
危うい男のはずだった。秘密を見透かされた。それなのに警戒より先に奇妙な安堵が胸に広がる。ここにもいた。このばかげた青に人生を賭ける者が。自分だけではなかった。この都に来て初めて澪はひとりではないと感じた。
*
「あんたはその青を見たんだな」
マッテオは絞り出すように言った。「もうこの世に在るんだな」
「ええ。在る」と澪は答えた。「壁の上に。褪せもせず、濁りもせず、いまも燃えている」
マッテオは両手で顔を覆った。
それは救われた者の仕草であり、同時に打ちのめされた者の仕草でもあった。彼が一年以上かけても作れなかったものがもうこの世に在る。それは不可能ではない、という救いだった。そして同時に――彼のすべての失敗を嘲笑う事実でもあった。
「……どこだ」
彼は指の隙間から言った。声が震えていた。「その青はどこにある」
澪はすぐには答えなかった。
答えれば、もう二人は同じ道を歩くことになる。引き返せぬ道を。あの絵師を消した何かへ二人して近づく道を。けれど――ひとりではこじ開けられない、と彼女は知っていた。あの沈黙を破るにはもうひとつの手が要る、と。色を「見る」自分に足りないもの。色を「作る」手が。
目の前のこの男の手がその手かもしれなかった。
*
「……なぜあんたはその青を探してる」と澪は逆に訊いた。相手の底を見ておきたかった。
マッテオはしばらく黙っていた。それから暗がりの奥の鍵のかかった抽斗にちらと目をやって言った。
「師の夢だ。おれを橋の下から拾ってくれた錬金術師の。あの人はいにしえに褪せない青が在った、と信じてた。それをもう一度この手に取り戻すのが夢だと。……果たせずに死んだ。おれにあるものを遺して」
あるもの。マッテオはそれ以上は言わなかった。けれど、その言い方に澪は引っかかりを覚えた。ただの夢ではない。何か、手がかりがこの男にはあるのだ。彼女の「見る目」に対する、何かが。
二人はしばらく向き合っていた。片や、色を見る目を持つ、名なしの女。片や、色を作ろうとして失敗しつづける、橋の下の男。欠けたものがちょうど裏表だった。それを二人ともまだはっきりとは言葉にできずにいた。ただたがいの目のなかに同じ渇きが映っているのだけは分かった。
澪は彼の煤に汚れた手を見た。火傷の跡のいくつも走った無骨な手。一年半、炉に賭けてきた手。この手ならあるいは。彼女の目とこの男の手が合わされば――喉の奥でまたあの届きそうで届かぬ答えが疼いた。
まだ二人はたがいを信じてはいなかった。けれど、この夜、確かに何かが動きはじめた。長く止まっていた二つの歯車が初めて触れた音がした。




