第十二話 半分ずつ
澪は欠片を持っていった。
あの夜、漆喰の縁から救った爪の先ほどの青。それを布に包んでマッテオの仕事場の机に置いた。これがあの青だ。これは作れる色だ、と。
マッテオは欠片を光にかざし、水に落とし、眉間に皺を寄せて長いことあらゆる角度から舐めるように睨みつけた。指の腹で粒の立ちを確かめ、鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。一年半、色と格闘してきた男の手つきだった。
それから彼は針の先で欠片の縁から粒をひとつ剥がし、銅の匙に載せて炉の残り火にかざした。青は焦げもせず、黒へも緑へも傾かなかった。酢を一滴、落とす。泡も立たない。石灰の水にも黙っている。
「……焼けん。酢にも黙る」彼はひとりごとのように呟いた。「おれの知ってる、どの負け方とも違う」
そして首を振った。
「……分からん。何でできているのか、まるで分からん。銅の匂いがする気もするが……いや、確信は持てん」
「でも作れる」と澪は応じた。「これは人が作った色。だからもう一度作れる」
「なぜそう言いきれる」
マッテオの声が鋭くなった。彼は欠片を澪の目の前に突きつけた。
「じゃあ、言ってみろ。これに何が入ってる。鉛か、銅か、鉄か。焼いたのか、練ったのか。何度の火でどれだけの時をかけた。……ひとつでも言えるか」
澪は答えられなかった。喉まで出かかった言葉はどれも確信のない推量にすぎなかった。銅と砂と灰。その組み合わせだと頭では知っている。けれど、割合も火加減も順序も――何ひとつ言葉にできなかった。
マッテオはその沈黙を見てふっと鼻で笑った。
「何でできているか、分からなければ、作れるはずがない。あんたはそれを見ただけだ。見えるだけで――いや、作れると信じてるだけで何が分かる。それは何も渡されていないのと同じだ」
その言葉は澪のいちばん柔らかいところを正確に貫いた。
目だけが彼女の誇りだった。よそ者で女でほんとうの名さえ失った彼女にただ一つ、残された財産。その目を――「見えるだけ」と切り捨てられた。
*
澪のなかで何かが熱くなった。
「あなたは」と澪は言い返した。声が震えた。「あなたは青を見ていない。これをただの配合だと思っている。何と何をどれだけ混ぜれば、という、勘定だと。だから――」
彼女は壺の山を指した。あの失敗の墓場を。
「だからあれだけの失敗の山ができる。あなたは青が何なのかを見ていないからよ。答えを数字のなかにばかり探して色そのものを見ていない」
マッテオの顔がこわばった。
しばらく二人とも黙っていた。炉の残り火だけがぱちりと音を立てた。互いの言葉が互いのいちばん柔らかいところを確かに刺したのだ。マッテオは何か言いかけてやめた。澪もこれ以上の言葉を持たなかった。
一年以上の彼の労苦を彼女は一息に否定した。互いの触れられたくない急所を二人は撃ち合った。
その日、話は物別れに終わった。澪は欠片をまた布に包み仕事場を出た。背中にマッテオの刺すような視線を感じながら。
戸口で一瞬だけ足が止まった。あの壺の山が目の端に映った。毎回、違うやり方で敗けつづけてきた男に彼女はいま「数字しか見ていない」と言い放ったのだ。言葉の堪える場所を彼女もまた正確に知っていて、そこを狙って撃った。その自覚が靴の底の石畳より冷たかった。
*
工房に帰ってからも澪の胸はざわついていた。
乳棒を握っても手がいつものように動かない。すりつぶす音が耳障りに響く。隣で絵具を量っていたトニオがふと手を止めて彼女を見た。
「姉さん、また遠くにいる」
子どもの目はごまかせない。澪は苦く笑った。
「……喧嘩したの姉さん」
「喧嘩じゃない」と澪は返した。「ほんとうのことを言われただけ」
「ほんとうのことって、いちばん痛いやつだ」とトニオは妙に大人びたことを言った。
ほんとうのこと。それがいちばんこたえた。憎らしいのはあの男の言葉が当たっていたことだ。見えるだけ。作れない。半分だけの絵師。トニオは意味が分からないという顔でまた絵具のほうへ向き直った。澪はその小さな背中を見ながら思った。この子にあの壁の青を持たせてやりたい。褪せない青でこの子が絵を描ける、そんな日が来たら。けれど、そのためには――あの憎らしい男の手が要る。認めたくないのに。
*
工房を出て運河ぞいを歩きながら澪は水面を睨んでいた。
言いすぎた、とは思わなかった。あの男も言いすぎた。互いさまだ。
けれど――胸の底で認めたくない声がした。彼の言うことは半分、当たっている。
わたしは見える。けれど、作れない。それはほんとうのことだった。
いちばん言いたいことを彼女は彼に言えなかった。
これは未来で再発見される青だ。いつか人類がもう一度たどり着く色だ――そう言えれば、どれほど楽だったか。けれど、それを口にすれば、ではお前は何者だ、と問われる。どこから来た、と。そして彼女はその問いにほんとうのことでは答えられない。だから「なぜか作れると分かる」としか言えない。
そんな言葉を誰が信じるだろう。
わたしは知っている。けれど、それを証す術がない。真実を抱えたまま、それを証せない。このもどかしさ。この孤独。
あの白い光の世界ではこんな思いはしなかった。分からないことがあれば、書物を開けばよかった。師に問えばよかった。証したければ、機械が答えを出してくれた。けれど、ここにはそれがない。彼女の知識を裏づけてくれるものはこの世界に何ひとつなく、ただ彼女の言葉を信じてくれる誰かがいるかどうか、その一点だけが頼りだった。そしてこの都には彼女の言葉を信じる者などひとりもいなかった。
*
見えるだけの女。作ろうとするだけの男。
澪は苦く笑った。二人とも半分しか持っていない。彼女は方向を知り彼は手を持つ。けれど、片方だけではあの青には永遠に届かない。北を知る者に足がなく、足を持つ者に地図がない。
あの男なしでは進めない。
認めたくはなかった。あれほど、罵り合った相手だ。けれど、認めるしかなかった。彼女の目がいくら確かでもそれを色に変える手がなければ、ただの夢想にすぎない。そして彼の手がいくら器用でも向かうべき先を指す目がなければ、あの壺の墓場を増やすだけだ。
二つでひとつ。ばらばらの半分と半分。
そしてたぶん――澪は運河の向こう薬種商の街区のほうを見やった。夕闇が屋根の稜線を青く染めていた。
あの男のほうもいまごろ、同じことに気づきはじめている。撃ち合った傷のその底で。認めたくない、けれど認めるしかないその事実に。




