第十三話 沈黙のひび
三日後、マッテオのほうから澪を訪ねてきた。
ヴィオ工房の戸口で彼は気まずそうに立っていた。手には何も持っていない。ただ来た。
謝りはしなかった。代わりに彼はこう言った。
「あんたの言ったことは半分、当たってた。おれは青を勘定だと思ってた。見ていなかった」
「あなたの言ったことも半分、当たってた」と澪は返した。「わたしは見えるだけ。作れない」
二人はしばらく互いを見た。
「おれたちは半分ずつ、だな」とマッテオが言った。
それは和解ではなかった。謝罪でもなかった。ただ互いが半分しか持っていない、という、その一事を二人して認めただけだった。けれど、それで十分だった。半分と半分は。合わせれば、一つになりうる。
*
二人はまず、削られた名の主を追うことにした。
あの青を描きそして消された絵師の名。それを知らねば、何も始まらない。
ここでマッテオの値打ちが分かった。
澪ひとりではぴくりとも動かなかった沈黙の壁が、薬種商の街区で生まれ育ち、この街の裏も表も知り尽くしたこの男の伝手の前ではわずかに軋んだ。橋の下から拾われ、この街の裏も表も知り尽くしている。古い顔料商。引退した錬金術師。街区の古老たち。よそ者の女には決して口を開かぬ者たちがマッテオの顔を見るとしぶしぶ、口を開いた。
「あんたがいなけりゃ」と澪は正直に言った。「わたしはこの街の一歩も奥へ入れなかった」
「あんたがいなけりゃ」とマッテオも返した。「おれは何を探せばいいのかも分からなかった」
二人で進むしかない、ということがここで実地に証された。
それでも道は平坦ではなかった。探しはじめて幾日か。閉ざされた口がいくつもあった。ある老人は絵師の話と聞くなり席を立ち、ある女は名を口にしただけで災いが来るとでも言うように十字を切って澪たちを追い返した。戸が閉まる前に女は塩をひとつかみ、二人の立っていた敷石へ投げた。 いちどだけ、届きかけたこともあった。年老いた顔料商が酒場で杯を重ねるうちに昔語りをはじめたのだ。
「昔はもっと面白い色があった。いまじゃ、誰も作らん色がな」
「たとえば――消えた絵師の青とか」
澪がそっと差しこんだ、その一言で老人の顔から酔いが引いた。杯の底に蛇でも見つけたような顔だった。彼は銀貨を卓に叩きつけて立ち上がり、二度とこちらを見なかった。おごられた酒の代金まで置いていった。借りひとつ残すことすら恐れたのだ。
二人は幾度も行き詰まった。そのたびにマッテオがまた別の伝手をたぐり、澪がその口ぶりから嘘とほんとうを見分けた。彼女の目は色だけでなく、人の顔の微妙な陰りも読んだ。恐れて口をつぐむ者とほんとうに知らぬ者とを見分けた。二人の力はこんなところでも噛み合った。
誰もが何かを恐れていた。その恐れのいちばん奥にひとりの古老がいた。
*
薬種商街のいちばん奥に住む、その古老の口がついに――ひび割れた。
狭い部屋だった。薬草の束が天井から吊るされ、乾いた匂いがこもっていた。古老は盲いかけた目で火のほうを向いていた。もう長く、この世に用のない者の静けさがあった。だからこそ、彼は話す気になったのかもしれない。もう失うものが何もないから。
古老は暖炉の火を見つめたまま、低く言った。
「この世にない青を作ろうとした絵師がいた」
骨の軋むような声だった。
「三十年あまり前か。いや、もっと前か。ある日、ふっつりと消えた。工房も家財も人もまるごとだ。最初からそんな男など、いなかったみたいに」
「消えた? どこへ」とマッテオが訊いた。
「知らん。誰も知らん。だがみな分かっていた。口にすれば、まずいことになる、とな」
古老は語りながら膝の上で数珠をまさぐっていた。話が絵師に近づくたびにその指が止まった。
彼はしわがれた声をさらに落とした。
「だから誰も口にせんかった。今の今まで。……お前さんらも悪いことは言わん。掘り返すな。掘り返せば、あの男と同じ目に遭う」
その声には脅しではなく本物の恐れがあった。幾十年、この老人を縛ってきた恐れが。
「ひとつだけ教えてくれ」と澪は勇気を出して訊いた。「その絵師の名は。……ファブリ、ではなかったか」
古老の盲いた目がわずかに動いた。長い沈黙があった。それから彼はほとんど聞き取れぬ声で呟いた。
「……ピエトロ。ピエトロ・ファブリ。それきり二度とその名をわしの前で言うな」
膝の上で数珠が小さく鳴った。指が祈りの形に固く組まれていた。
古老はそこではじめて火から顔を上げた。盲いた目が澪のほうをまっすぐに向いた。見えているかのように。
「若い頃、一度だけあの男の青を見た」しわがれた声が震えた。「ひと目でな背筋が凍った。この世のものじゃ、なかった。あんなものを見た者はみな、口をつぐむしかなくなる。……見なかったことにするしかなくなるんだ。分かるか。あれは美しすぎて危ういのよ」
その言葉に澪は息を呑んだ。自分があの壁の前で感じたものと寸分たがわぬ震え。時代を隔てたこの老人もまた同じ青に射抜かれていたのだ。
*
澪は背筋が冷えた。
最初からいなかったみたいに。削られた名。記録の空白。語られぬ話。すべてが同じ形をしていた。何かを丸ごと無かったことにする、その手つき。この都はそうやって都合の悪いものを消してきた。
――名を消された絵師。名を持てない自分。澪は他人事とは思えなかった。ピエトロ・ファブリ。その男もこの都に確かに生きて確かに青を練り上げた。なのにいまや、その名を口にすることすら災いを呼ぶ。人ひとりの生涯がまるごと禁忌に変えられている。それを誰かが望んだのだ。ひとりの絵師をなかったことにしようと。
けれど、いまその沈黙に初めてひびが入った。半分の名がまるごとの名になった。ピエトロ・ファブリ。消された絵師にようやく名が戻った。ほんのひとりの口からひとつの名がこぼれただけ。それでも幾十年の沈黙にそれは確かな裂け目だった。
どこからか、風が吹き込むように。埋められた真実のいちばん上のひとすくいの土がいま払われた。
古老の家を出て運河ぞいを歩きながらマッテオが口を開いた。
「あんたの壁の青は」
彼は夜の運河を見つめた。黒い水面に月が割れて揺れていた。
「その消えた男が――ピエトロ・ファブリが作ったのかもしれん」
二人の吐く息が白く闇に溶けた。沈黙の壁に入ったひとすじのひび。そこから冷たい、けれど確かな風が吹いてくる気がした。もう後戻りはできない。二人ともそれを感じていた。




