第十四話 二度葬られた青
消えた男の輪郭が少しずつ立ち上がってきた。
ピエトロ・ファブリ。誰かが昔、この青を完成させた。そして消された。それだけが確からしかった。けれど、その周りにはまだいくつもの闇があった。なぜ、誰の手で消されたのか。青はどこから来たのか。
その夜、二人はマッテオの仕事場の炉のそばで向き合っていた。マッテオはいつになく静かに語りはじめた。亡き師のことを。それまで誰にも話したことのない話らしかった。
「おれの師は錬金術師だった。橋の下で飢えていた、おれを拾って色を教えてくれた人だ。名も身元もない捨て子だったおれに。……その師がずっと信じていた夢がある」
マッテオは炉の消えかけた残り火を見つめていて、その赤い光が彼の頑固そうな横顔を下から照らしていた。
「いにしえに完璧な青が在った、と。はるか昔の帝国がそれを作っていた。神殿に棺にその褪せない青を塗った。けれど、その帝国が滅びたとき青そのものは遺跡に残ったが――その作り方だけが人の世から消えた。誰も二度と作れなくなった。師はその失われた術をもう一度この手に取り戻すのが夢だと言っていた。おれには時間が足りん、といつもこぼしながら」
*
澪の心の臓が跳ねた。
それは彼女の知る話と寸分たがわなかった。
古代に在り帝国とともに失われ、作り方だけが断たれた青。マッテオの師が「夢」と呼んだものを、澪は「史実」として知っていた。それがいつ、生まれ、いつ、失われたか。そして――いつかはるか後の世に人がもう一度それを掘り当てることまで。彼女の生きた時代のそのすぐ手前で、人がようやくその正体を突き止めたそのことまで。
伝説ではない。実在したのだ。確かに在って確かに失われ、そして――いつかよみがえる青。
けれど、それを彼女は口にできなかった。「わたしはそれがほんとうだと知っている。なぜならわたしは五百年、先の世界から来たから――」のあとを続けられなかった。言えば、この心を開きかけた男が彼女を狂人と見るだろう。あるいは魔女と。だから澪はただこう言った。
「……それはたぶんほんとうよ。なぜか分かるの」
マッテオは奇妙な顔で彼女を見た。なぜ分かる、とその目は問うていた。けれど、彼は何も言わなかった。澪の目のなかに嘘の色がないことをたぶん彼も読んだのだ。
*
「つまり」と澪は声を落とした。「この青は二度、葬られたのね」
「二度?」
「一度はいにしえに。世が滅びて作り方が消えた。それは天災のようなもの。誰のせいでもない。……そして――三十年あまり前に。今度は世が滅びたからじゃない。誰かの意志で」
言葉にするとその重さが二人にのしかかった。
いにしえの青をこの時代によみがえらせた者がいた。ピエトロ・ファブリが。そしてその者を――絵師を工房を家財を人ごと――まるごとこの世から消した者がいた。奇跡を作る者を奇跡ごと消せるほどの意志が確かに在った。国家のような大きさの何かが。そしてその意志はまだ生きているかもしれない。古老のあの怯えがそれを告げていた。
澪のなかでもう一つのひそかな問いが疼いた。
自分の知る歴史では、この青がこの世によみがえるのはもっとずっと後のはずだった。何百年も先の。なのにそれは来るはずのなかった時に一度、よみがえり消された。歴史の目がここでひとつ狂っている。誰かが時を先んじてそれを成しそして別の誰かがそれをあるべき場所へ押し戻した――まるで狂った糸目をほどくように。
もし――もし自分がこれをまた世に出したら。
その狂いを今度こそ定着させることになる。自分の知る、あの白い光の世界へ続く道筋はどうなるのだろう。生まれるはずのものが生まれなくなるかもしれない。帰る場所そのものが書き換わるかもしれない。
怖い、と澪は思った。けれど、やめられない。
「怖い」と彼女は思わず声に出していた。
「おれもだ」とマッテオが応じた。それから炉の灰を棒で均しながら付け加えた。「だがやめられん。ここまで来ちまった」
*
マッテオは立ち上がって暗がりの奥の鍵のかかった抽斗を開けた。
取り出したのは一冊のノートだった。革の表紙は長い年月の手脂で黒ずんでいる。角は擦り切れ、幾人もの手を渡ってきた重みがその黒ずみに滲んでいた。マッテオはそれを大事そうに両手で抱えていた。
「これを人に見せるのは初めてだ」と彼は言った。「盗まれるのが怖かったんじゃない。……笑われるのが怖かった。気の触れた錬金術師の書き散らし、とな」
開くと記号と数字と図ばかりがびっしりと並んでいた。澪には一文字も読めなかった。けれど、そのびっしりと埋められた頁からは書いた者の執念のようなものが立ちのぼってきた。
「師が最期にこれだけを遺した」とマッテオは言った。「師のそのまた師から伝わったものだ。おれの手に渡るまでに何人もの手を経てきた」
彼はそれを澪の前にそっと置いた。
「半分ずつ、だからな」とマッテオは言った。澪の目をまっすぐ見て。「――おれには読めない。師も読みきれずに死んだ。だが断言できる。この中に失われた青の作り方がある」
澪はその黒ずんだ革表紙にそっと指を触れた。それから頁をそろそろと繰った。
読める文字はひとつもなかった。けれど、修復の現場で幾多の古文書を見てきた目がまず紙とインクを読んだ。ところどころ、墨が紙を茶色く灼き喰っている。安い没食子のインクだ。上等の墨を使えぬほどの貧しさのなかで書かれた頁でありながら、それでも文字はひとつも乱れていなかった。
その目がつくりをなぞっていく。図と記号と数字。ある頁には炉らしき絵。ある頁には砂時計のような印が幾度も。
「……これは手順書だわ」澪は思わず呟いた。「読めはしないけど、分かる。これはただの覚え書きじゃない。何かを順番どおりに作るための――設計図。工程が段階に分けて書いてある。ここが材料。ここが火入れ。たぶんここが……仕上げ」
マッテオがはっと身を乗り出した。「分かるのか」
「かたちが分かるだけ。中身はまだ読めない」澪は首を振った。それでも胸が高鳴っていた。読めぬ暗号のなかに確かに骨組みが透けて見える。「でも……ふたりでなら。あなたが記号をわたしが工程を。……いつか読み解けるかもしれない」
二度、葬られた青。その二度目の墓のなかから掘り出された一冊のノート。彼女の目とこの閉ざされた頁がいま出会った。半分と半分が。喉の奥であの届きそうで届かぬ答えがこれまでになく、強く疼いた。




