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第十五話 届きかけた青

 ノートは半分は読めた。

 記号のいくつかはありふれた顔料の符牒だった。鉛白の作り方。朱の練り方。手順の断片も拾い読みできた。マッテオがこれまで試してきた配合の出どころがここにあった。彼の一年半の失敗はこのノートを半分だけ辿った跡だったのだ。読める部分から拾えるだけ拾い、それでも届かなかったあがきの跡が。

「……道理で途中までは立つはずだ」とマッテオは呻いた。おのれの一年半が誰かの半分の写しにすぎなかったと知るのは救いでもあり屈辱でもあるらしかった。

 けれど――肝心なところへ来ると必ず文字が暗号に変わった。褪せぬ青の核心に近づくたびに頁は読めない記号の壁になった。まるでそこだけ誰かが鍵をかけたように。

 澪はノートの図を欠片を壁画の青の記憶をひとつずつ並べた。そして目を閉じた。

 闇のなかでいくつもの青が浮かんだ。

 伝説の青。消えた絵師の青。このノートの青。そして――彼女があの白い光の世界で知っていた、いつかよみがえる青。ばらばらだった四つが彼女のなかでひとつの点へ集まっていく。ゆっくりとけれど、確かに重なっていく。

「同じひとつの青よ」と澪は言った。目を開けて。「ぜんぶ、同じ一つの青を別々の場所から見ているだけ」

 マッテオが息を呑んだ。彼の顔に初めて澪の「見る目」を信じる色が差した。


     *


 さっそく二人は試した。

 澪が目で方向を指しマッテオが手で配合を組む。彼女の目が彼の手を髪一本ぶん、導いた。

「もう少しだけ白を退いて」

「火をもっと」

「そこ。そこで止めて」

 感覚知と技術と口に出せぬ未来の記憶が、初めて一つの坩堝の上で交わった。二人の半分と半分が火の上でひとつになろうとしていた。炉の熱で二人の顔が汗ばむ。誰も口をきかない。ただ坩堝の底の色の生まれる気配だけを二人して見つめていた。

「……来る」とマッテオが囁いた。目より先に手が何かの気配を知っていた。

 すると。

 坩堝のなかに一瞬本物の青が立った。

 澪は息を止めた。それはまぎれもなくあの壁の青だった。深く、澄んで燃えるような。この時代のどの青とも違うあの青。確かに生まれた。人の手の下で。二人の手の下で。

 その一瞬澪の脳裏にあの白い光の世界が閃いた。棚に整然と並んだ、絵の具の小さな管。そのひとつを無造作に押し出せば、いくらでも出てきた褪せない青。誰も貴いとも思わなかったありふれた色。――それと寸分たがわぬ青がいまこの粗末な坩堝の底に確かに生まれていた。喉の奥が締めつけられた。この色はこんなにも遠い。こんなにも掴めない。

 けれど――ひと呼吸のあいだだった。

 青は立った瞬間に老いはじめた。澄んだ色が見る間に濁り沈み灰へと崩れていった。まるで生まれたそばから、何百年分もの年月をひと息に駆け抜けるように。二人の目の前で奇跡が生まれ、そして老いて死んだ。

 澪は思わず坩堝へ手を伸ばした。掴もうとするように。けれど、その指が届くより先に青は灰になっていた。手のひらに残ったのはただの冷たい粉だった。


     *


 二人は灰になった坩堝を呆然と見つめた。

「届いた」とマッテオが掠れた声で言った。両手がまだ坩堝の形に開いたままだった。「一瞬届いた。……見たか。あれは本物だった」

「ええ」と澪は頷いた。頬が熱かった。「でも掴めなかった」

 青が崩れたのはちょうど、手順がノートの暗号にさしかかったその箇所だった。読める部分を辿れるかぎりは青は保った。けれど、読めない部分に入った途端、死んだ。核心はまだ読めない記号の向こうにある。

 マッテオが灰を指で擦りながら低く唸った。

「これは……窯の加減と材の純度の問題だ。おれの炉では火が足りん。石もこんなに濁ったものでは。もっと清い材ともっと強い火が要る。この時代のこの炉では……」

 澪はそれを聞いて胸の奥がしんと冷えた。

 そうだ。たとえ方向を知っていても自分にはそれを成す手がない。正しい配合の比も、焼く火の加減も、冷ますときの呼吸もほんとうのところは知らない。彼女の知識は目的地の手前まで道を照らすが、最後の一里はこの時代の技がなければ踏めない。未来から来た自分の知恵さえここでは半分の地図にすぎなかった。


     *


 けれど、と澪は思った。崩れた灰を見つめながら。

 足りないのは手順だけだろうか。技術だけ目だけだろうか。

 なぜ誰かはこの青を完成させておきながらそれを葬ったのか。あれほどの奇跡を成した者をなぜ名ごと消したのか。足りないものの正体はもっと根の深いところにある気がした。「どう作るか」ではなく、「なぜ消えたか」という――その一片が。起きたことの記憶が。

 技術の壁の向こうにもうひとつ真相の壁がある。澪はそれを予感した。

「腰を据えてやるしかない」とマッテオが言った。灰を払い、顔を上げて。「一年半、おれはひとりであがいてた。だがひとりじゃ、あの色はひと呼吸も立たなかった。……あんたと組んではじめて立った。ほんの一瞬でもな」

 その声にはあの初対面のときの刺々しさはもうなかった。認めたくないものを認めた者の静かな響きがあった。

「ええ」と澪は答えた。「逃げ道はもうない」

 二人は灰になった坩堝を挟んで頷き合った。

 その夜から二人の夜がはじまった。

 澪は昼はヴィオ工房で下働きの絵師として働き、日が落ちるとマッテオの炉のもとへ通った。老親方には修復の残りがある、とだけ告げて。マッテオは店の主人の目を盗んで夜ごと炉に火を入れた。銅の錆。石灰。砂。比を変え火を変え二人は幾度も坩堝を賭けた。

 ほとんどは失敗だった。濁る。沈む。崩れる。壺の墓場がまた少しずつ高くなった。ある夜、坩堝の底で色が緑に腐ったときマッテオは悪態をつくかわりに黙って炭を差し出した。澪が壺に日付と配合を書きつける。それがいつのまにか彼女の役目になっていて、失敗の墓場にはふたりぶんの筆跡が並びはじめていた。

 夜が明ける前に澪は工房へ戻る。眠りは浅く、短い。それでも朝の乳棒は止めなかった。止めれば、居場所がなくなる。それはいまも変わらなかった。それでもいちど、ひと呼吸のあいだ、あの青を見てしまった二人にはもうやめる、という道がなかった。届きかけたその一瞬の青が闇のなかで二人を手招きしていた。

 あれほど、罵り合った二人だった。けれど、いまはひとつの灰を挟んで同じ方向を見ていた。届きかけた青は二人を決して放してはくれなかった。ひと呼吸のあいだ、確かにそこに在ったその青の記憶が。二人の指をもう離さなかった。

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