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第十六話 薬と毒と色

《エジプシャンブルー――その製法が失われてよりおよそ千五百年。人類は同じ青を、二度、発明しなければならなかった。》

  ――十九世紀・色彩化学書より

 夜明け前の薬種商《スペツィアーレ》は、世界じゅうの匂いがひとつ屋根の下に閉じこめられたような場所だった。

 乾いた薬草の青くささ。樹脂の甘い匂い。酢と硫黄の鼻を刺す匂い。そのどれもが、棚にぎっしりと並んだ壺と布袋から絶えず滲み出してくる。マッテオは毎朝、その匂いの底で目を覚ます。寝床は店の奥、薬研《やげん》の脇に敷いた藁の上だった。

 彼の一日は棚を拭くことから始まる。

 薬種商の棚には世界のあらゆるものが並んでいた。熱を下げる粉。腹を下す根。傷を塞ぐ脂。咳をしずめる蜜。そしてそのすぐ隣に――ひと匙で人を眠らせたまま、二度と起こさぬ粉が何食わぬ顔で置かれている。

 命を救うものと命を奪うものが同じ木の棚に同じ重さで並んでいた。

 マッテオはその並びをもう何年も見てきた。だから知っている。薬と毒のあいだにはっきりした境などないことを。匙の加減ひとつ。それだけが人を生かすか殺すかを分ける。

 顔料もその棚の一員だった。

 彼にとって色とは薬であり毒でありそして何より――商品だった。客が来れば量って売る。それだけのものだ。表向きには。


「ぼんやりするな。手が止まっとるぞ」

 奥からしわがれた声が飛んできた。老主人だ。

 この店の主でマッテオを拾った男でもある。けちで口が悪く、銅貨一枚を出すのにも顔をしかめる。客に値を負けてやることなど、生涯に一度もないだろうと思わせる老人だった。

「いま拭いてます」

「口より手を動かせ。その乳鉢の鉛白、夕方までに挽いておけ。明日の朝、修道院の使いが取りに来る」

 マッテオは乳棒を握り直した。鉛白《えんぱく》。白粉にも絵具にもなる白い粉だ。そして長く肌に触れれば人を蝕む、毒でもある。やはり薬と毒と色はいつも同じ天秤の上にいる。

 彼は挽きはじめた。乳棒が鉢の底を擦る、単調な音だけが店に満ちる。一日じゅう、同じ動作の繰り返しだった。指の皮は厚く硬くなり、爪のあいだには色とりどりの粉が染みついてもう何をしても落ちない。

 退屈な労働だった。挽くたびに心がほんの少しずつすり減っていくのが分かる。


 マッテオは橋の下で拾われた孤児だった。

 親の顔も生まれた日も知らない。物心ついたときには運河のほとりで捨てられた魚のはらわたや、腐りかけた野菜くずを漁って生きていた。冬の運河は子どもを何人も呑んだ。隣で丸まって寝ていた子が、朝には冷たくなっていることもめずらしくはなかった。

 そんな彼をこの老主人が拾った。

 ある朝、店の裏口で行き倒れていたマッテオを老人は長いこと見下ろしていたという。そしてひとことだけ訊いた。「手は動くか」と。飢えているか、ではなく。マッテオが震える指を握ってみせると、老人は舌打ちして奥へ顎をしゃくった。それが拾われた、ということだった。

 情のかけらもないように見える老人が、なぜ飢えた子どもに屋根と仕事を与えたのか。マッテオにはいまも分からない。訊いたこともない。

 ただ一度、酔った老人がぽつりとこぼしたことがある。「店先で死なれると寝覚めが悪いからな」と。それだけだった。

 屋根がありパンがあり仕事がある。天国とは言わないが運河の底よりははるかにましな場所だった。

 いちど、乳棒を挽きながらマッテオは老主人に訊いたことがある。

「親方。……なんで青ってのはあんなに高いんだ」

 老主人は帳場から顔も上げずに答えた。「遠いからだ。世界の果てから運んでくる。海が荒れりゃ、船ごと消える。人が死ぬんだ。ひと壺の青のためにな」

「もし」マッテオは乳棒を止めた。「もし遠くから運ばなくても作れる青があったら?」

 老主人の手が一瞬止まった。それから彼は鋭い目でマッテオを見た。

「……つまらんことを考えるな」低い声だった。「そういうことを口にする奴は長生きせん。挽け。手を動かせ」

 それきりだった。けれど、マッテオはその老主人の束の間のこわばりを見逃さなかった。この抜け目ない老人も何かを知っている。あるいは恐れている。青のほんとうの秤《はかり》を。


 昼を過ぎ客がぽつぽつと現れた。

 咳の止まらぬ老婆。腫れ物の膏薬を求める石工。そして黒い頭巾を目深にかぶった女がひとり。女は声をひそめてある粉を求めた。老主人は無言で量り無言で銀貨を受け取った。

 マッテオはその粉が何かを知っていた。ひと匙で眠りふた匙で目覚めぬあの粉だ。けれど、何も言わなかった。この店では買う者の事情を訊かない。それが掟だった。薬になるか毒になるかは売った先で決まる。店はただ天秤の釣り合いだけを見ている。

 女が去ったあとマッテオはふと手を止めた。

 ――色も同じだ。

 美しい青も塗る者の手のなかで奇跡にも呪いにもなる。そう思うと棚の顔料たちが急に得体の知れないものに見えた。


 薬と毒と色。三つは同じ天秤の上にある。そして褪せない青もたぶん同じだった。

 安く、いくらでも作れる、褪せない青。それはこの都の貧しい絵師たちにとっては薬だ。生涯、手の届かなかった色が手に入る。けれど、青で富を築いた商人たちにとっては毒だ。その富を一夜で砂に変える。同じひとつの青が誰かを救い、誰かを殺す。匙の加減ひとつで薬にも毒にもなる、あの粉と同じように。

 だから消されたのだ。マッテオはいまなら少しだけ分かる気がした。あの消えた絵師は毒を作ってしまった。富める者たちにとっての。だから天秤の重い側がその男を握り潰した。薬になるはずだったものが権力の前では毒に数えられた。

 この店の天秤は正直だ。重さだけを量る。けれど、都の天秤はそうではない。誰が得をし誰が損をするか。それで薬か毒かが決まる。マッテオはそのゆがんだ天秤の重さを初めて意識した。


 そしてその「青」のことを思うと、いつもの退屈すらすっと遠ざかった。

 はじめてのあの夕べのことだ。

 この店の暗がりにひとりの女が立った。東方から流れ着いたという、奇妙な目をした女。汚れた身なりのただの下働き。なのにその目だけは――色を見る者の目をしていた。彼が一年以上追いつづけついに掴めなかったもの。それをあの女はすでに「見た」という顔をしていた。

 彼女の唇が声もなく動いた。褪せない、青、と。

 その四文字がいまも耳の奥で鳴りやまない。あの女は何を見たのか。あの色にたどり着く目をほんとうに持っているのか、それとも。それともただの思い上がった夢想家なのか。――だがと彼は思う。一年半、自分ひとりではひと呼吸もあの青を立たせられなかった。なのにあの女と組んだ、たった一度で。灰になったとはいえ確かに青は立った。認めたくはない。だがあの目は本物かもしれない。

 マッテオは乳棒を置き粉で汚れた指で目もとを擦った。

 マッテオをほんとうに縛りつけているのは、この店の仕事ではなかった。鉛白でも毒の粉でも老主人の小言でもない。指で薬種を挽きながら、彼の心はいつもたった一つの色の上を――あの褪せない青の上をさまよっていた。

 だがその青は一年半、彼の手を拒みつづけている。ひとりでは届かない。それはもう骨身に沁みていた。

 ――なのにあの女は。あの汚れた下働きの女は。はじめから「見た」という顔をしていた。

 マッテオは乳棒を握りしめた。あの目をもう一度確かめねばならない。あれが本物なら。おれのこの一年半は。……いや、おれの生涯は変わる。

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