第十七話 未完の青
師のことをマッテオはめったに人に話さない。金を作ろうとして家屋敷を溶かした変人だと街じゅうが笑ったあんな男のことを、話したところで誰に分かってもらえるはずもなかった。
はじめて会ったのは十かそこらのころだった。薬種商の使い走りをしていたマッテオが、客のひとりに注文の品を届けた。運河ぞいの傾いた家。中はガラスの管と炉と本と薬品の匂いで足の踏み場もなかった。
その客が師だった。
老いた痩せた貧しい男。錬金術師だ、と街の連中は半ば馬鹿にして呼んでいた。金を作ろうとして家屋敷を溶かしてしまった変人だ、と誰もが笑いながら。
けれど、その男は届け物を受け取りながらふとマッテオの手を見て言った。
「いい手をしている。それにいい目だ。……お前、色が好きか」
マッテオは答えに詰まった。好きとか、嫌いとか、考えたこともなかった。色はただすりつぶす品だった。腹の足しにもならぬもの。
「来い」と男は言った。「面白いものを見せてやる」
*
師が見せてくれたのは金ではなかった。青だった。
古い書物の挿絵。はるか古代、いにしえの世の神殿や棺に塗られていたという、青。何千年も褪せなかったという青。
「これを人は作れたんだ」と師は言った。その目は子どものように輝いていた。「大昔に。人の手で。永遠を練り上げた。だが世が滅びて――作り方は失われた。誰ももう作れない」
「なんでそんなものを」と幼いマッテオは訊いた。「金にもならないのに」
師は声を立てて笑った。
「金にならんからいいのさ」と彼は言った。「金は誰かのものだ。奪えば、取り合いになる。だが永遠は誰のものでもない。奪えん。……いいか、マッテオ。命をかけられるものがある人生はしあわせなんだ。たとえそれが報われなくてもな」
その言葉の意味は当時のマッテオには分からなかった。腹が満ちることのほうがよほど大事だった。
ただその日から橋の下で育った子どもの胸にひとつの火が灯った。失われたいにしえの青。それをもう一度この手で。
師は薬種商の主人には内緒で夜ごとマッテオに教えた。炉の扱い。配合の理。書物の読み方。ひと文字ずつ読み書きも教えた。橋の下の子どもに字を教える者など、この都にほかにいなかった。
いちばん最初に教わった字は自分の名だった。マッテオ。炭で板に何度もなぞった。橋の下では名を呼ばれたことなどほとんどなかった。おい、とか、小僧、とか。その名がはじめて字の形になったとき、彼はしばらく板から目を離せなかった。名がある。ここに。誰にも消せない形で。
「名を書けるやつは」と師は言った。「もう橋の下の子じゃない」昼は店で薬研を引く、見習い。夜は傾いた家のただひとりの弟子。マッテオのほんとうの暮らしは夜のほうにあった。炉の火のそばで色の名を覚え失敗の匂いを覚えたあの夜々に。
ある夜のことをマッテオはいまも覚えている。
はじめて自分の手でまともな緑青を練り上げた夜だ。師はその色を灯りにかざして長いこと見ていた。それから皺だらけの顔をくしゃりと崩して笑った。
「見ろ。お前が生んだ色だ」と師は言った。「いいか、マッテオ。人は色を作れる。無から色を生み出せるんだ。石ころと火とこの手だけでな。……これがどれほど、途方もないことか、分かるか」
幼いマッテオにはまだその途方もなさは分からなかった。ただ師のその笑顔がうれしかった。橋の下では誰も自分にそんな顔を向けてはくれなかった。色を生むことはいつのまにか、師に喜んでもらうこととひとつになっていた。
*
けれど、師はついに青には届かなかった。
何十年も追いつづけて。家屋敷を溶かし身を削りそれでも届かなかった。窯を焚くたびに坩堝は濁り灰に崩れた。マッテオが弟子になってからの数年も失敗の連続だった。それでも師は諦めなかった。坩堝が崩れるたび「おれには時間が足りん」とこぼしながら、また火を入れた。その火だけが彼を生かしているかのように。
そしてある冬、師は床についた。
貧しさと老いと長年の薬品がその身を内側から蝕んでいた。指は震え目はかすんでいた。マッテオはつきっきりで看病したができることは何もなかった。薬を煎じる金もまともな医者を呼ぶ金もなかった。
最期の夜、師は痩せた手でマッテオの腕を掴んだ。枯れ枝のような、けれどまだ熱のある手だった。
「すまんな」と師は言った。「お前に何も遺してやれん。金も家も答えも」
「いりません」とマッテオは返した。涙をこらえていた。枕もとの棚には薬瓶がずらりと並んでいた。そのどれにも、もう師を治せるものは入っていなかった。人の病を癒す薬を量りつづけてきたその部屋で。
「ひとつだけある」
師は枕の下から革表紙の帳面を取り出した。手脂で黒ずんだ、あの帳面だ。
「これはわしの師が書き遺したものだ。……わしには読みきれなかった。この中にあるはずなんだ。いにしえの青の作り方が。だが肝心なところが暗号で閉じられている。おれはそこでいつも止まった」
彼はそれをマッテオの手に握らせた。
「託す。……完成させてくれ。わしの見られなかった青を。いくつかの手が出会えばいつかひらく。お前がその手の一つになれ」
マッテオは頷いた。声が出なかった。かわりに帳面を両手で握り返した。強く。それが答えだった。師はそれを見届けると安堵したように、ゆっくりと目を閉じた。それが師と交わした最後の言葉になった。
*
師が遺したものはほんとうにその帳面、ただ一冊きりだった。
金も家財も何ひとつ。葬る金にすら事欠いた。マッテオはわずかな駄賃をはたいて、師を貧者の墓地の名もない土に埋めた。墓標も立てられなかった。代わりに彼は緑青をひと欠片、土に埋めた。はじめて師に褒められたあの色を。墓標のかわりに。
あれから何年が経ったか。マッテオは昼は薬研を引き、夜はひとり炉の前で失敗の青を積みあげてきた。師の夢を借りものではない、ただひとつの自分のものとして。この青がなければ、おれには何も残らない、と。
帳面はあいかわらず、肝心なところで口を閉ざしている。読めない暗号の壁。師もその師も越えられなかった壁。
――けれど。
いまマッテオの手のなかにはもう一枚、新しい札があった。あの女の目だ。
ゆうべ、ふたりでひと呼吸だけ青を生まれさせた。師が生涯かけて届かなかったところへふたり合わせて指先が触れた。あの灰になった坩堝の底に確かに一瞬師の見たかった青が灯った。
マッテオは帳面をぎゅっと握った。師の見られなかった青を。今度こそ。あの女の目とこのおれの手で。




