第十八話 閉じた頁
「……誰、この人」
「色の仲間」と澪は言った。妙な答えだったけれど、それ以上に正しい言葉も見つからなかった。
トニオはしばらく値踏みするように男を見上げてからしぶしぶ、奥へ引っこんだ。マッテオが可笑しそうに口の端を曲げた。「番犬つきか」
灯りの下に革表紙の帳面を開くと、澪が修復士の目でじっと頁を覗き込んだ。マッテオはその横顔をちらと見た。色を見分けるときこの女の目は妙な静けさをたたえる。あの薬種商で群青の石を言い当てたときと同じ目だ。
悪い気はしなかった。師の帳面を、こんなふうに真剣に見てくれる人間はこれまでひとりもいなかった。街の連中はみな笑った。作れもしない色に憑かれた馬鹿な小僧、と。
「これを書いたのはおれの師じゃない」とマッテオは言った。「師のそのまた師だ。ジローラモ・トレヴィザンという男だと聞いた。パドヴァで医学をかじった錬金術師だったらしい」
「名は残っているのね」と女が呟いた。
何を当たり前のことを、とマッテオは思った。
「あの壁では絵師の名だけが削り取られていた。ここでは逆。名が残って、術のほうが閉ざされている」
言われてはじめてマッテオはその奇妙な対称に気づいた。名を消して技を残すか、名を残して技を閉ざすか。どちらも何かを守ろうとした痕のように見えた。この都では人は何かを守るために別の何かを消す。この女は色を見るのと同じ目つきで、ものごとの形も見るらしかった。
*
「読めるところもある」とマッテオは頁をめくった。指の動きに慣れがあった。
「ありふれた顔料の符牒だ。鉛白の作り方。朱の練り方。おれがこの一年半、試してきた配合はぜんぶこの読める部分から拾ったものだ」
澪はその頁を見つめた。
職人の目が文字の並びを追う。記号の形を傾きを筆の勢いを。修復の現場で幾度となく、古い手稿と向き合ってきた目だった。書き手の癖は文字に残る。急いで書いたのか、丁寧に書いたのか。ためらったのか、確信していたのか。手が語るのだ。声より正直に。
そして気づいた。
「……これ、おかしい」
「何が」
「読める部分は雑なの。走り書きみたいに勢いで書いてある。手が急いでいる。夢中で書きつけた、という手つき。なのに――暗号になっている部分だけ字がきれいすぎる。乱れがない。息が整っている。まるでそこだけ別の日に別の心持ちでわざと丁寧に閉じたみたい」
マッテオが眉を寄せた。灯を近づけ頁に顔を寄せる。言われてみれば、そのとおりだった。読めるところは無造作で肝心なところだけが整然と閉ざされている。それは水濡れや、虫食いのような、偶然の損傷ではなかった。書き手自身の明確な意志の跡だった。
澪は指で暗号の頁をなぞった。
「これを書いた人はたぶん二度、この頁に向き合っている。一度目は夢中で書いた。発見の喜びのままに。二度目は……冷静になっていちばん大事なところだけを選んで隠した。この青がどれほど、危ういものかを悟ってから」
マッテオはしばらくその頁を睨んでいた。それから低く唸った。
「……あんた、そんなことまで字から読むのか」
「昔、これが仕事だったの」澪はつい、そう言ってから口をつぐんだ。修復士、という言葉はこの時代にはない。この都では絵の修繕は絵師のはしくれがやる、下働きだ。彼女は慌てて言い足した。「古い絵や、書きつけを直す仕事。傷んだものをもとに戻す。……だから書いた人の手の癖が見えるの」
マッテオはそれ以上は訊かなかった。ただ感心したように鼻を鳴らした。「妙な女だ。だがその目は確かに本物らしい」
言ってからマッテオは、女の肩がわずかに強張ったのを見た。
どこでその術を身につけた。どこの生まれだ。――訊けばこの女はきっとまた別の話へそらす。これまでもそうだった。訊けば答える。よく答える。だが肝心なところだけは決まってするりと逃げる。
閉じた頁がここにひとつ。目の前にもうひとつ。マッテオはそう思ってやめた。詮索は好かなかった。この女が何を隠していようと、その目が本物ならおれには関わりない。
*
ノートの一部は解ける。けれど、いつも核心の手前で必ず欠落している。あと一歩で真実に届く、というその一歩だけが規則正しく塗り潰されている。
まるで誰かがひとりでは決して解けぬように、そこへ鍵をかけたかのように。同じ記号が頁によって違う意味で使われている節さえあった。鍵を持たぬ者には永遠にほどけない結び目だった。
「なんでこんなことを」とマッテオが呻いた。「作り方を遺したいならぜんぶ書けばいい。遺したくないなら燃やせばいい。なのに半分だけ遺して半分だけ隠す。……意味が分からん」
澪は答えられなかった。けれど、その奇妙な半端さに覚えがあった。あの壁画の削られた名と同じだ。青は遺し名は消す。ノートは遺し核心は閉ざす。壊すのでも守るのでもない、その中間の慎重な手つき。まるでいつか誰かが正しく、受け取ってくれることを待っているような。
書いた者はたいてい読まれたくて書く。
なのにこの男は――ジローラモ・トレヴィザンは――いちばん肝心な、青の作り方を読まれないように書いた。それでいて燃やしもしなかった。
何のために。誰からそれを守るために。そして誰にいつか渡すために。
ふたりは顔を見合わせた。その夜はそれ以上、分からなかった。けれど、ひとつ、新しい問いが生まれていた。この閉じた頁の向こうに書いた者の意志がある。三十年あまりの時を越えていまも固く、閉じている誰かの意志が。
やがてマッテオは帳面を包み直し、夜の街へ帰っていった。
*
ひとりになってから、澪はその黒ずんだ頁の記憶を灯りの下でなぞり直した。開かねばならない。この閉じた頁を。けれど、それはたぶん力ずくでは開かない。書いた者が望んだやり方でしか――いくつかの手が出会う、そのやり方でしか。
――そして彼女はふと背筋が寒くなった。
隠して未来に遺す。壊すのでも守るのでもなく、いつか正しく受け取られる日を待つ。その手つきに覚えがあったからだ。自分もまた、いちばん大事なことを誰にも言えぬまま、胸の底に閉じて生きている。この青がいつかはるか後の世でよみがえるものだと知っていながら。それを口にできぬまま。
閉じた頁と閉じた自分。三十年あまり前の錬金術師と五百年後から来た女。ふたりは時を隔てて同じことをしていた。誰にも言えぬ真実を抱えたまま、いつか届く日を待っている。だからこそ、この頁の沈黙が澪には他人事とは思えなかった。




