第十九話 技の果て
次の晩、マッテオはひとりで試してみた。澪の目を借りずに。
意地、だったのかもしれない。ゆうべの青がほんとうに自分の手柄でないなら――この長年の技があの女の目がなければ、何の役にも立たないなら認めるのがつらかった。橋の下から拾われて色に命を賭けてきた。そのたった一つの誇りが。よそ者の女の目がなければ、無に等しい、と言われたようなものだった。
帳面の読めるところを手順どおりに進める。砕き混ぜ、火にかける。何百回と繰り返してきた慣れた手つき。材料をひとつ変えてみる。火加減をひと呼吸、ずらしてみる。指は迷わない。この一年半で炉の火の色をひと目で読めるようになった。灼熱の白。橙。深い赤。火の機嫌が分かる。
坩堝のなかの色は――濁った。
いつもの失敗の青だった。
いや。今度は途中まであの女がやったように色を「見よう」としてみた。坩堝の底の青が生まれかけたその一瞬。マッテオは目を凝らした。もっと深くへ寄れ、とあの女なら言うのか。それとももう緑に寄りすぎているのか。――分からなかった。彼の目にはただ青いか、濁っているか、それだけしか映らなかった。生まれかけた色のその微妙な生き死にはどうしても見えなかった。手をどちらへ動かせばいいのか、指が迷った。迷ったその一拍のあいだに青は崩れた。
マッテオは舌打ちして坩堝を置いた。手のなかに残ったのはまたひと壺の灰だ。
炭を取って壺に日付と配合を書きつける。書きながら苦い笑いが漏れた。ゆうべからそれはあの女の役目になっていたのだ。ひとりの夜は書く手までひとりだった。
*
分かっていた、とも言える。
この数年、彼はありとあらゆる材料を試してきた。手に入るかぎりの石を砕き薬種商じゅうの粉を混ぜ、炉の温度を火の色で見分けられるまでになった。技だけならもう誰にも負けない。この都のどの絵師よりもどの錬金術師よりも火と色を知っている。
それでもできなかった。
ということは――材料ではないのだ。
あと一歩を阻んでいるものは、もう一種類の石でも二度目の火入れでもない。技をいくら磨いてもその「あと一歩」には届かない。
マッテオは棚いっぱいの失敗の青を見渡した。濁った青。緑に腐った青。灰に沈んだ青。ひとつ、ひとつが彼の一年半の夜だった。
これは技の山ではない。技だけで届こうとして届かなかったその証拠の山だ。
彼はずっと信じていた。配合さえ火加減さえ突きとめれば、青はできる、と。作るとはそういうことだ、と。数を撃てば、いつか当たる、と。けれど――その信じ方、そのものが間違っていたのかもしれない。
ゆうべ、何がちがったか。材料は同じだった。火も同じだった。ちがったのは隣にあの目があったことだ。
*
「もっと深く」「それは緑に寄りすぎ」「髪一本ぶん、戻して」
あの女の言葉が耳に残っている。
マッテオには坩堝の色はただの色だった。濁っているか、澄んでいるか。それくらいしか見分けられない。彼の知っているのは色の「作り方」だ。何と何をどれだけ。どの火でどれだけの時。その勘定だ。けれど、色そのものの微妙な生き死には見えていなかった。
けれど、澪には見えていた。
正しい青がどこにあるか。いまの色がその正しさからどれだけどちらへずれているか。髪一本ぶんのずれまで。彼女の目はそれをはっきりと捉えていた。生まれる前の青がすでに彼女には見えているかのように。
マッテオの手は青を作ろうとする。だが作るべき青が「どこにあるか」を教えてはくれない。澪の目は青が「どこにあるか」を知っている。だがそれを「作る」ことはできない。
「何も渡されていない」とおれはあの女に言った。あれは間違いだった。
彼女が渡してくれていたのは、おれの技が永遠に手に入れられないものだったのだ。作るべきものを見る、目。それがなければ、おれの技はただ暗闇のなかで手を振り回しているだけだった。的の見えぬまま矢を放ちつづけていただけだった。
*
マッテオは亡き師のことを思った。
師も生涯、ひとりで炉に向かった。誰の目も借りず。だから届かなかったのかもしれない。師は色を作る手を持っていた。けれど、色を見抜く目は持っていなかった。もし師の隣にあの女のような目があったなら――師はあの青を見られたかもしれない。
いくつかの手が出会えば、この青はひらく。師の最期の言葉が蘇った。あれはこういう、意味だったのか。ひとつの手では足りぬ。技と目とそしてたぶんもうひとつ。ばらばらの手が出会って初めて。
思えば、師はいちどだけこう言ったことがあった。炉の火がまた濁ったある夜のことだ。
「マッテオ」師は灰になった坩堝を見つめて言った。「わしには火が読める。何十年も焚いてきたからな。だが……色が読めんのだ」
「色が?」幼いマッテオは訊き返した。「火が読めれば、色だって読めるでしょう。師匠ほどの人が」
「いいや」師は力なく首を振った。「別のものだ。火を操る手と。色の生き死にを見抜く目は。……わしにはその目がない。だからいつもあと一歩で色に逃げられる。手が届いても目が追いつかん」
あのときマッテオにはその言葉の意味が分からなかった。火が読めれば、色も読めるはずだ、と思っていた。だがいまなら分かる。火を操る手と色を見抜く目はまったく別のものなのだ。師はその片方しか持たなかった。そして自分も。
マッテオは濁った坩堝を棚に戻さなかった。代わりにそれをぐいと脇へ押しやって卓の上を空けた。
欠けているのは材料ではない。火でもない。技でもない。別の種類の知だ。彼の手の中にはない知。あの女の目の中にしかない知。ひとりでは永遠に届かない。
それを認めるのはやはりすこしつらかった。長いことこれは自分ひとりの夢だった。師から託された自分ひとりの。誰かと分け合うことなど考えたこともなかった。
けれど――師はこうも言っていた。命をかけられるものがある人生はしあわせだ、と。
ひとりで抱えて死ぬことがその夢を全うすることだと、おれは思いこんでいなかったか。師のように。
マッテオは立ちあがった。戸口で棚の失敗の山をふり返る。一年半の夜たち。……無駄ではなかった、といまは思えた。あれはぜんぶ「ここではない」という答えだった。的の場所をひとつずつ潰してきた矢だった。
明日、あの工房へ行こうと思った。頭を下げるのは癪だが。ふたりで腰を据えてこの帳面に挑むのだ。おれの技とあいつの目で。半分と半分で。師の見られなかった青を今度こそこの世に。




