第二十話 ひと壺の青
「青がなぜ高いか。あんたほんとうのところを知らんだろう」
ある日、マッテオは澪にラピスラズリから群青を採る工程を見せた。挑むような口ぶりだった。素人の女に青の重さを身体で分からせてやろう、という顔だった。目は確かでもこの手間は知るまい、と。
彼が取り出したのは東の国から運ばれてきた青い石だった。金色の粒を散らした深い群青の原石。あの老主人が「一番取り」と呼んだ、上物だ。けれど、それを砕くとただの濁った灰青の粉になった。
「これでは絵に使えん。ここからだ」
彼はその粉を蝋と樹脂と油で練り固い塊にした。松脂の匂いが工房にこもる。手のなかでこねるうちに塊は黒っぽい団子のようになった。そしてその塊を灰汁を張った鉢のなかに沈め、根気よく揉みはじめた。指の腹で掌で押しては返し押しては返す。
*
「こうやって何度も揉み出す。するといちばん深い青だけが先に溶け出してくる。石のなかのいちばん上等なところだけがな」
長い時間がかかった。
澪はその手つきをじっと見ていた。灰汁のなかに少しずつ青が滲み出す。最初はほんのうっすらと。やがて鉢の水が深い群青に染まっていく。マッテオの太い腕に汗が浮いた。単調で終わりのない労働だった。腕が痺れるほど、揉んでようやく鉢の底にひとすじの青が沈んだ。
原石ひと山から採れる、まともな青はほんのひと匙。残りは二番、三番と揉むたびに質を落としていく。最後には灰色がかった絵にもならぬ粉が残るだけだ。
「これに東からの船賃が乗る」とマッテオは言った。手を休めずに。「山ひとつ越えるたびに値が乗る。砂漠の盗賊の取り分が乗る。関所の税が乗る。海が荒れれば船ごと消える。だからひと壺の青は――金より高くなる」
「やってみるか」マッテオが鉢を澪のほうへ押しやった。試すような目で。「口で言うのはたやすい。やってみりゃ、分かる」
澪は袖をまくってその黒い塊を灰汁のなかで揉みはじめた。数えるほども揉まぬうちに指が悲鳴をあげた。冷たい灰汁が爪の間に沁みる。塊は思いのほか、固く、重い。腕がすぐにだるくなった。それでも揉みつづけた。ほんのうっすらとしか青は出てこない。
あの白い光の世界で彼女は精製済みの群青を小瓶で買った。値札を見て顔をしかめたそれだけだった。その数字の裏側にこの腕の痺れがあったのだ。掌がいま、それを教わっていた。
「……気が遠くなる」澪は正直に言った。
「だろう」マッテオがふっと笑った。少しだけ得意げに。「これを日がな一日だ。何年もな。この一匙のために腕が変形するまで揉む。それが群青ってもんだ」
彼は右の袖をまくって見せた。前腕の筋がふた筋、妙な形に盛り上がっていた。揉み師の腕だ、と彼は言った。薬種商の見習いはみんなこうなる、と。澪は自分の細い腕を見た。
澪は鉢の底のひと匙の青を見つめた。
これほどの手間とこれほどの距離の果てにたったこれだけ。祭壇画の聖母の衣がなぜあれほど尊ばれるのか。その一枚の青のためにどれだけの石が砕かれ、どれだけの腕が痺れ、どれだけの命が砂漠と海で失われたのか。ようやく身体で分かった気がした。目で知っていたことが初めて掌に落ちてきた。
*
そしてふいに二人は同時に同じことを思った。
もし――この石も船賃も揉み出しもすべて要らない青があったなら。
ラピスに頼らず、安く、いくらでも作れる、褪せない青。それはこの鉢の底の一匙を無価値にする。いや、この一匙だけではない。この都の交易そのものを根こそぎ無価値にする。青で富を築いた商会も青を聖なる色として独占する、教会もひとつ、残らず、崩しうる。
「……だから消されたのか」とマッテオが低く呟いた。揉む手が止まっていた。
「この一匙が」と彼は鉢の底の青を指した。「金と同じ重さで取引される。ヴァリエルみたいな、大商会はそれで御殿を建てた。教会はこの青でしか聖母を塗らせん。青が高いからありがたいんだ。……もし誰でも作れる青が出回ったら」
「この一匙は」と澪が引き取った。「ただの粉になる」
「そういうことだ」マッテオは鉢をじっと見た。「奇跡の裏側はいつだって誰かの破滅だ」
褪せない青は奇跡であると同時に刃だった。
商会と教会と。この都を支える、二本の柱を一度に斬り倒しうる、刃。その重さに二人は初めてほんとうに気づいた。手のなかの欠片が急に火のように熱く感じられた。ただ美しい色を追っているつもりだった。その色が都のいちばん深い根に刃を当てるものだったとは。
自分たちはそういうものを追っている。命がけで隠された理由もきっとそこにあるのだと。
ふたりはしばらく黙っていた。鉢の底の青が灯りを吸って静かに沈んでいた。
「……怖じ気づいたか」やがてマッテオがぽつりと訊いた。挑むというよりたしかめるように。
「いいえ」澪は首を振った。それから自分でも意外なほど、静かな声で言った。「怖い。でもやめようとは思わない。……この青があの一匙のためだけにあってはいけないと思うから。それだけの理由で砂漠で人が死ぬなんて」
マッテオはその横顔をちらと見た。そして何も言わず、また鉢のなかの塊を揉みはじめた。ただその手つきがさっきより少しだけゆっくりになっていた。同じことを考えているのだ、と澪には分かった。
*
澪は鉢の底の群青を見ながらもうひとつのことを思っていた。
――あの白い光の世界ではと。
子どもが絵の具箱の青を惜しげもなく絞り出していた。ひと筆、ひと筆を数えたりはしなかった。誰もその青のために砂漠を渡らなかった。誰もその青を聖なる色と崇めなかった。青はただの青だった。
この鉢の底のひと匙があの世界ではどこにでもある、ありふれた色になる。それはいつか来る未来だった。彼女はそれを知っていた。
けれど、いまこの時代でそれを手繰り寄せることは――都の二本の柱に刃を突き立てることだった。未来では当たり前の優しさがこの時代では恐ろしい暴力になる。同じ青が。時ひとつで。
澪は身震いした。恐れからか、それとも別の熱からか、自分でも分からなかった。ただ灰汁のなかで深く、沈んでいく、群青があの壁の青と同じ方向を指しているように見えた。
この一匙のために人が死ぬ。その同じ青をたやすく、生む術を自分たちは追っている。
――もしそれを成し遂げてしまったら。
救いになるのか。それとも災いを呼ぶのか。答えの出ぬまま、二人の追う道はいよいよ、都のいちばん深い根へと下りはじめていた。




