第二十一話 欠落
翌日からふたりの仕事がはじまった。
ゆうべの青は偶然ではいけなかった。ひと呼吸の奇跡をこんどは狙って生まれさせねばならず、そのためには行きあたりばったりのやり方ではとうてい足りなかった。
「順を追おう」とマッテオが言った。「おれが読める手順をひとつずつ進める。あんたはそのたびに色を見てずれを言ってくれ。言われたとおりおれが直す。それを紙に書きつけておく。次に活かせるように」
「いいでしょう」と澪は頷いた。
炉に炭が熾された。ふいごが鳴り、火の粉が舞い、狭い仕事場はじきに真夏になった。ふたりとも袖で額を拭いながらやった。
マッテオの手が動く。砕き混ぜ、火にかける。そのひと手ごとに澪の目が坩堝を覗き込む。
「いまの火、すこし強い。青が急ぎすぎています」
「これくらいか」
「もうほんの少し。……そう。そこで保って」
言葉と手が噛みあっていく。
ふしぎなものだった。ついこのあいだまでふたりは互いの急所を撃ちあっていた。見えるだけの女と作るだけの男。半分しか、持っていない、と罵りあった。
それがいまは。
澪の目が見たものがマッテオの手に伝わり、マッテオの手が直したものをまた澪の目が確かめる。ひとつの目とひとつの手がまるでひとりの絵師のように動いていた。半分と半分がぴたりと合わさっていく。言葉は半分しか通じない。彼女の言う「見える」を彼は完全には分からない。彼の言う「配合」を彼女は追えない。けれど、色を介すると二人は驚くほど、速く理解し合えた。まるで長年、組んできた職人のように。
言葉が足りないぶん、ふたりは言葉を作った。青が緑へ逃げかけることを「腐る」と呼んだ。火が強すぎて色が浅くなることを「急ぐ」と。深く定まりかけたその一瞬を「坐る」と。半日でふたりだけの符牒がいくつも生まれ、書きつけの紙にそのまま並んだ。ほかの誰が読んでも分からない。ふたりにだけ通じる、生まれたての言葉だった。
*
そして何度めかの試みで――また、それは立ちあがった。
坩堝の底に深く、澄んだ、紫を帯びた青。あの壁の青と寸分たがわぬ色。
今度は偶然ではなかった。澪の目に導かれ、マッテオの手が確かにそこへたどり着いた。ふたりは息を詰めてそれを見守った。炉の火が下から照らすその青は、生きているもののようにゆっくりと揺れていた。
「……保ってる」とマッテオが囁いた。「ゆうべより長い」
「ええ」
生まれた青はひと呼吸をふた呼吸を越えて坩堝の底に灯りつづけた。もう一歩。あとひと手。帳面の次の手順へ進めば――この青は定着する。褪せない青になる。いける、と二人は思った。今度こそ。
マッテオが頁をめくった。
次の一行は。あの記号の壁だった。
*
手が止まった。
読めない。マッテオにはその一行が進められない。何をどうすればいいのか、暗号が固く口を閉ざしている。
澪が坩堝を覗き込む。けれど、彼女の目にもここから先は見えなかった。正しい青がどこにあるかは分かる。だがその青をどうやってこの場に「留める」のか――それは目の領分ではなかった。青が老いていくのを止める術は目にはない。
ふたりがなすすべもなく見守るなか。
坩堝の底の青はやがて力を失った。澄んでいたものが濁り、深かったものが灰へ沈み――ゆうべと同じだった。あと一歩のところで生まれたばかりの青が老いて息絶えた。まるで暗号の壁に触れた瞬間に寿命が尽きるように。
仕事場がしんとした。炉の火だけが音もなく燃えていた。
マッテオは灰になった坩堝を拳でこつんと叩いた。悔しさを押し殺すように。
「……あとひと手だったんだ」低い声だった。「あんたも見えてただろう。あの青が生きてた。あそこで留められさえすれば」
「見えていた」澪も頷いた。指先がまだかすかに震えていた。掴めそうで掴めなかったその青の記憶に。「手を伸ばせば、届きそうだった。なのにその一歩だけが……ない」
「同じだ」とマッテオが応じた。「ここまでは来られる。あんたの目とおれの手で確かに来られる。だが」
「ここから先がない」と澪。
*
ふたりは書きためた紙を見おろした。
手順はびっしりと書きこまれていた。澪の目が見た無数のずれとその直し方。ふたりの半日の汗。けれど、その紙はいちばん肝心な一行の手前でぷつりと途切れていた。ちょうど、帳面が暗号で閉じる、その箇所で。読める部分を辿れるかぎりは青は保つ。けれど、読めない部分に入ると必ず死ぬ。暗号の壁がそのまま、青の寿命の壁になっていた。
皮肉なものだった。ふたりの紙にはふたりだけの符牒が育ちはじめている。その同じ夜に、三十年あまり前の男の符牒がふたりの前で扉を閉ざしている。作る側に回ってはじめて分かった。符牒とは通じ合うための言葉であると同時に――誰かを入れないための言葉でもあるのだ。
二つの断片を合わせた。目とノートを。半分と半分をぴたりと。それでも――像は結ばなかった。ふたりが揃ってなお、越えられない、ひとつの欠落がそこにぽっかりと口を開けていた。
マッテオが帳面の記号の頁を睨んだ。
「この中だ。答えはこの暗号の中にある」
澪は答えなかった。胸の奥であの予感がまた頭をもたげていた。
――ほんとうにそうだろうか。
この欠落は暗号を解けば埋まるのか。それとも暗号のもっと向こうにまだ何か、別のものが欠けているのではないか。作り方ではない何かが。あの削られた名のその意味のような。なぜこの青が消えたのか、という、その一片のような。
「何をぼんやり考えてる」とマッテオが澪の顔を覗きこんだ。
「……この暗号を解いても」澪はゆっくりと言った。「もしかしたらまだ足りないかもしれない。そんな気がするの。作り方のそのもっと奥に。……なぜこの青が消されたのか。あの絵師がなぜ名を削られたのか。その起きたことのほうが」
「起きたことが色の作り方に関わるってのか」マッテオは眉をひそめた。「そんな馬鹿な。それは別の話だろう」
「うまく、言えない」澪は首を振った。自分でもまだ輪郭のさだかでない予感だった。「でも……この帳面を閉じた人はただ術を隠したかっただけじゃない気がする。もっと深いところで何かを守ろうとしている」
うまくは言えなかった。ただその夜、ふたりが手にしたのはひと壺のまた新しい失敗の青だった。けれど、二人はもうばらばらではなかった。ひとつの灰を挟んで同じあと一片を探していた。
目と技。ふたつを合わせてもなお届かない。
――では足りない、その一片はいったいどこにあるのか。




