第二十二話 意志の壁
何が足りないのか。二人はそれを詰めていった。
澪はノートの暗号の頁を何度も何度も眺めた。損傷した壁画を前にしたときと同じやり方で、修復士の目が文字の形を、配置を、余白を、繰り返し繰り返し追いつづけた。壊れたものには壊れ方に意味がある。どこが失われ、どこが残ったか。その分布そのものがしばしば真実を語る。
夜ごと灯りの下で彼女はその頁を睨んだ。マッテオが読める符牒を書き出し澪がその配置を目で追う。二人の作業は探究というより祈りに近かった。
あるとき彼女は灯りを頁の真上からではなく、脇からすれすれに当ててみた。壁画の浮きを探すときのやり方だ。光を寝かせると紙の面のわずかな凹凸が影になって立ちあがる。筆圧の谷。ためらいの震え。表からは見えないものが斜めの光のなかにだけ浮かぶ。
「何をしてる」とマッテオが訝しんだ。
「光を寝かせているの。……まっすぐ見ても出てこないものが斜めからなら見えることがある」
あの白い部屋でなら紫外線の灯りを当てるところだ。ここにあるのは寝かせた蝋燭がひとつ。それでも原理は同じだった。道具は五百年ぶん、貧しくなっても目の使い方までは貧しくならない。
浮かんだものがひとつあった。この書き手は暗号の部分でいちばん強く筆を握っている。急いでもいない。乱れてもいない。時をかけて力をこめ、そうと決めた手つきでわざと閉じている。
そして澪は確信した。
「これは壊れているんじゃない。隠されているの」
「隠されている?」
「見て」と澪は頁を指でなぞった。「暗号になっているのはいつもいちばん肝心な一点だけ。手前まではちゃんと読める。誰でも辿れる。その先の――決定的な一手だけが必ず閉ざされている。もしこれが水濡れや、虫食いならこんなに都合よく、急所ばかりを欠くはずがない。損傷はそんなに賢くない」
マッテオが頁に顔を寄せた。灯を近づけ欠落の位置をひとつずつ確かめていく。言われてみれば、そのとおりだった。欠落はいつも核心のただ一点に集中していた。まるでそこだけを狙って精密に鍵をかけたように。
*
「わざとだ」とマッテオが低く言った。「誰かがわざとそこだけ閉じた」
「ひとりでは解けないように」と澪が続けた。
誰かの意志がそこにあった。書き手の――ジローラモの意志が。この術が一人の手に渡って悪用されぬように。富のために独占されぬように。恐れのために葬られぬように。だから彼は核心をわざと欠いた。いくつかの手が出会って初めて解けるように。
マッテオの師が臨終で言った言葉が澪の胸に蘇った。いくつかの手が出会えば、この青はひらく、と。あれはこのことだったのだ。ジローラモは悪用と独占を恐れて自らの手で一人では解けぬよう、設計した。愛する術を守るためにあえて不完全にした。
「厄介な、御仁だ」とマッテオは苦く笑った。「作り方を遺しておきながら簡単には渡さん。……だが分かる気もする。これは渡し方を間違えれば、人を殺す色だ」
彼は灯りに帳面をかざした。整然と閉ざされたその一点を指でなぞって。
「おれの師もそのまた師もここで止まった。何十年もな。……いま思えば、あの人たちは止められてたんだ。この御仁に。まだ早い、まだ渡せん、とな。ひとりで解いてひとりで抱えこむような奴には渡さん、と。……そういう、仕掛けなのかもしれん」
その言葉に澪ははっとした。閉じた頁はただの障害ではない。試練なのだ。この青を託すにふさわしい者かどうかを問う、関門。ひとりではけっして通れない。
澪は頷いた。ジローラモという、顔も知らぬ男の慎重さがいまや、少し分かるようになっていた。あの壁の削られた名。このノートの閉じた頁。どちらも同じ慎重な手つき。壊すのでも独り占めするのでもなく、いつか正しく、受け取られる日を待つための。
*
けれど、と澪はもうひとつのことに気づいた。もっと根の深い欠落がある。
「ねえ。このノートにもあの壁画にも書いていないことがある」
「何だ」
「なぜこの青が消えたのか。何が起きたのか。それがどこにもない」
マッテオが息を止めた。
どう作るか――その手順はノートと壁画と澪の目を集めれば、いつか辿れるかもしれない。技術の問題だからだ。閉じた頁もいつかいくつかの手が揃えば、ひらくかもしれない。けれど、なぜ消えたか、という、起きたことそのものは色のなかにも記号のなかにもなかった。それは技術ではない。記憶だ。それを見た誰かの記憶のなかにしか残っていない。
三つめの断片が要る。
どう作るかを知る者ではなく、何が起きたかを知る者が。あの日、あの場所でいったい何があったのかをその目で見た誰か。ピエトロ・ファブリが消えたあの夜を知る、誰かが。
澪は自分のことを思った。
自分もまたこの青について、誰にも言えぬ「起きたこと」を抱えている。この青がいつ生まれ、いつ失われ、そしてはるか後の世でどうよみがえるか。その顛末を彼女だけが知っている。けれど、それを口にできない。――三つめの断片を握る者もきっとそうなのだ。知っていて言えずにいる。恐れのために。あるいは罪のために。真実はいつもいちばん言えぬ者の胸に埋まっている。
「見た者が生きていたとしても」と澪は声に出した。「その人はたぶん口を開かない。……いちばん語れない立場の誰かなのよ。きっと」
*
「だが」とマッテオが呻いた。「そんな者がどこにいる。三十年あまりも前の話だぞ。知る者はみな、死んだか、口をつぐんでいる。あの古老でさえ名を告げるのが精いっぱいだった」
澪は答えられなかった。
それでも彼女には分かっていた。技術の壁のその向こうにもうひとつ真相の壁がある。そしてその壁はノートをいくら睨んでも、坩堝をいくら焚いても越えられない。それは人の記憶のなかにしか開かない扉だった。
二人はその夜、また灰の壺を見つめた。あと一片。決定的な、あと一片がどうしても足りなかった。作り方のその先。閉ざされた一点のその向こう。そこに何があるのかを、この二つの断片だけではどうしても照らせなかった。
なぜ青は消えたのか。
「明日も古老をあたってみる」とマッテオが灰を見つめたまま言った。「ほかにもあの時代を知る者がいるかもしれん。ひとりくらいは」
「ええ」と澪は頷いた。けれど、その声には力がなかった。恐れて口をつぐむ者ばかりのこの都で。三十年あまりの沈黙をこじ開けてくれる誰かがはたしているのか。
その決定的な一片がどこにもなかった。まだ二人は知らなかった。その一片を握る者が、いまこの都の大商会の蔵の奥で古い帳簿を取り憑かれたようにめくっていることを。名をヴァリエル。その若い跡取りが、二人のもとへ歩み寄ってくる日がもうすぐそこまで来ていることを。




