第二十三話 炉の夜
それでも二人は青を作ろうとした。
三つめの断片が要ると頭では分かっていた。起きたことを知る誰かが要る。けれど、その誰かの当てはなく、手だけが止められなかった。目の前にあと一歩の手順があるのに、指をくわえて待っていることなどできなかった。届きかけた青をいちど、見てしまった者には。
夜ごとマッテオの炉に火が入った。
はじめの数夜でぶつかったのは、やり方だった。
マッテオは炉の前に立つと銅を増やし、同時に火も強め、ついでに冷ましも遅らせた。長年そうやって色を追ってきた男の手つきだった。勘のいい職人ほど一度にいくつも動かす。当たれば早い。
「待って」澪はその手を止めた。「一度に変えるのはひとつだけにして」
「なんだと」
「三つ変えて青が良くなっても、どれが効いたのか永久に分からない。悪くなったときも同じ。これでは何百回焼いても何ひとつ増えないの」
マッテオは眉をひそめた。「一晩に一坩堝か。炭がもたん。材料の払いも倍かかる」
「その代わり一坩堝でひとつずつ確かに分かる」
「分かってどうする。青ができりゃそれでいいんだ」
「できたときに、なぜできたのか分からなかったら――二度目が作れない」
その一言でマッテオの口が止まった。
彼の師が生涯をかけて追い一度だけ立てたという青。その一度きりを二度目に繋げられなかったから、この男はいまここで灰を積んでいる。
澪はもうひとつ言った。「それから、失敗した坩堝を捨てないで」
「灰をか」
「灰も、そのとき何をしたかの書きつけも。ぜんぶ残して」
マッテオは呆れた顔をした。だがその夜から彼は言われたとおりにした。
あの白い光の世界ではそれはやり方以前の作法だった。変えるのはひとつ。ぜんぶ書き留める。失敗も捨てない。誰も偉いとは言わない当たり前の手つき。澪が未来から持ってこられたものは青の作り方ではなく、たぶんこれだけだった。
夜ごと坩堝がひとつ焼かれた。銅を増やす。石灰を減らす。火を強める。冷ましを遅らせる。ひとつ変えるたびに坩堝ひとつを賭ける。灰の山がまた少しずつ高くなっていった。書きつけの紙はふたりの符牒で埋まっていった。腐った。急いだ。坐りかけて崩れた。
けれど遅いはずのその進みは、ひと月もするとマッテオ自身の見込みを裏切りはじめた。前の月なら三夜かけて捨てていた道が、書きつけを繰るだけで捨てられる。同じ失敗を二度と踏まなくなった。青は夜ごと少しずつ深くなっていった。
「妙なもんだな」ある夜、彼は紙の束を指で弾いて言った。「増えてるのは灰だけのはずだろう。……なのに前より近い」
炉の前は真冬だというのに汗が噴き出すほど、暑かった。ふいごを踏むたび火の粉が舞い、二人の顔は煤で黒くなった。眠る間も惜しんだ。澪は昼の下働きの疲れを抱えたまま、夜、炉のもとへ通った。マッテオは店の主人の目を盗んで火を焚いた。二人とも目の下に深い隈ができていた。それでもやめなかった。
ある夜、トニオがそっと炉のそばへやってきた。工房でいつも澪にくっついているあの少年だ。両手に欠けた椀を大事そうに抱えて。
「姉さん。……これ」椀のなかには薄い麦の粥が少しだけ入っていた。自分の夜食を分けてきたのだろう。「ちゃんと食べないと倒れちゃう」
澪は煤だらけの顔で笑った。胸が詰まった。「ありがとう。……でもこれはあなたのぶんでしょう」
結局、澪は粥を半分だけ啜って椀を返した。半分こ、と言うと少年はようやく笑った。
「ぼくは平気」トニオは首を振った。それから炉の底の赤い火をじっと覗きこんだ。「姉さんたち、この火できれいな青を作るんだよね。……ぼくもいつかその青で絵を描きたいな」
その無邪気な一言が澪の胸を刺した。この子にその青を持たせてやりたい。褪せない青でこの子が心ゆくまで描ける日を。その思いが疲れきった体にまた火を入れた。
*
いくつめかの夜だった。
これまででいちばん深い青が立った。澄んで燃えてこれまでのどれよりも長く保った。炉の火がその青を下から照らす。生きているように揺れていた。マッテオが息を呑む。澪も身を乗り出した。
届くか――と思ったその刹那。
青はまた崩れた。いつもの箇所で。ノートの読めない一点にさしかかったまさにその瞬間に。澄んだ色が濁り沈み灰へと還っていく。何度、見ても慣れなかった。生まれたものが目の前で死ぬのを見るのは。
マッテオが灰の壺を壁に叩きつけそうになってこらえた。拳が震えていた。
「なぜだ。方向は合っている。あんたの目は正しい。手順もここまでは間違っていない。なのになぜ届かない。あとひと手なんだ。ひと手!」
彼は灰にまみれた手で髪を掻きむしった。一年半のいや、それ以上のあがきがその掠れた声に滲んでいた。
澪は答えられなかった。
*
彼女は知っていた。この青の大筋が――銅と石灰を焼く、その方向が――正しいことを。けれど、正確な比も焼く火の加減も冷ますときの呼吸もほんとうのところは知らなかった。
あの白い光の世界でも――澪が生きてきたあの未来の世界でも――この青をもう一度掘り当てるのに人はどれほどの時を費やしたか。何人もの学者が何十年もかけてようやく辿り着いたのだ。焼く温度のわずかな違い。冷ます速さの微妙な差。そのひとつ、ひとつを無数の失敗の果てに突き止めた。澪はそのいちばん最後の一行だけを覚えていた。過程を知らない。答えを暗記した子どもが途中の式を書けないように。
たとえ過程を知っていたとしても、この時代の炉でこの純度の石でそれを成せるとは限らなかった。知識とそれを実現する手とは別のものだ。地図があっても道がなければ進めない。
未来の知は目的地の手前まで道を照らす。けれど、最後の一里は照らせない。そこはこの時代の技と――なぜ第一世代がそれを成せたのか、という、真相の領分だった。未来から来た自分ですらそこへは届かない。彼女の奥の手さえこの最後の一里の前では無力だった。
*
「わたしの知っていることだけでは」と澪はようやく言った。声が掠れていた。「ここまでしか、来られない」
マッテオが顔を上げた。あんたの知っていることとは何だ、とその目は問うていた。けれど、彼は訊かなかった。この幾夜もの炉の前で彼はもう澪の言葉を疑わなくなっていた。この女は何かを知っている。ただそれを言えずにいる。そのことだけは感じていた。
灰のなかで青の名残がかすかに光って消えた。
あと一歩。けれど、その一歩がどうしても踏めなかった。未来から来た娘の知恵をもってしても、もうここまでしか来られないのだ。技術の壁と真相の壁。二つの壁があと一歩のその先で固く閉じていた。
二人は冷えていく炉の前に並んで座りこんだ。窓の外がしらじらと明けはじめていた。どこかで朝の鐘が鳴った。潟のほうから魚売りの呼び声。都が目を覚ましていく。徹夜の目にその日常の音はやけに遠かった。
「なあ」しばらくしてマッテオがぽつりと言った。灰を見つめたまま。「あんたいつか言ってたな。なぜか作れると分かる、と。……あの『なぜか』をいつか教えてくれるか。おれにはまだ言えんのだろうが。……いつかでいい」
澪は答えなかった。答えられなかった。ただ膝を抱えた。いつかこの男にすべてを話せる日が来るだろうか。五百年後の世界から来た、と。この青の行く末を知っている、と。――言えば、狂人と思われる。信じてもらえたとしても今度はもっと恐ろしいことになる。
「……いつか」やっと彼女はそれだけ言った。
冷えた灰の山を澪は見渡した。
ひと月半ぶんの灰。ひと晩にひとつずつ焼いた、その数だけの敗け。けれどそれは敗けの山ではなかった。ここは通れないと分かった道がこれだけ在るということだった。行き止まりばかりを書きこんだ地図。それでも地図には違いなかった。
今夜のはこれまででいちばん深い青だった。いちばん長く保った。だがそれが答えでもあった。
「……もうやめましょう」彼女は低く言った。
マッテオが顔を上げた。
「数を撃つのは。何百回、火を入れても同じところで死ぬ。これ以上、灰を積んでもあの一点は越えられない。……足りないのは火でも比でもないの。あの壁の向こう。あの昔、いったい何が起きたのか。それを知る、誰かの手が要る」
マッテオはしばらく灰を見つめていた。それからゆっくりと頷いた。彼にも分かっていた。この炉の前でできることはもうやり尽くした。二人だけではここが天井なのだ。
「探すか」と彼は掠れた声で言った。「その三人めを」
「ええ」
――届きかけた青の記憶が二人を放さない。だがもう闇雲に火を焚く夜は終わりだった。二人は次の一片を探しにこの炉の前から立ちあがった。




