第二十四話 古い帳簿
起きたことを知る、誰か。それを探して二人は商会の街区へ足を運んだ。
青を握るのは大商会だ。ならば青が消えた経緯もまた、その富の記録のどこかに埋もれて眠っているはずだった。三十年あまり前、大金がどこかへ流れ、そしてひとりの絵師が消えた。もしそれが同じ一本の糸で繋がっているなら、糸の端は商会の帳簿のなかにある。マッテオがそう読んだ。数字の裏には人の動きが残る、と。
けれど、商会の門は固かった。
マッテオはまず正面から試した。薬種商の使いの顔で帳場に寄り、顔なじみの手代に世間話を持ちかける。昔の取引のことをそれとなく。
「三十年前?」手代は笑った。「うちの古帳簿を見たいなんて言ってみろ。番頭に叩き出されるぜ。よその家の帳簿は女房の肌より見せないもんだ」
「昔の青の相場を知りたいだけさ」
「相場ならいまの帳場で足りる。……よせよ、マッテオ。妙な詮索をするやつは出入り止めになる。おれまで疑われる」
それきり手代は口を閉ざした。冗談の形をした本気の警告だった。
白い石造りの館は運河に面して堂々と建っていた。荷を積んだ小舟がひっきりなしに水門を出入りする。水門の鎖が軋み、荷役の掛け声が飛び交う。男たちが汗みずくで香辛料の袋を、絹の反物を、色とりどりの顔料の壺を運び込んでいく。冬だというのに水際は湯気が立つようだった。富が目に見える形でそこに流れていた。けれど、その門はよそ者にも薬種商の見習いにも決して開かれなかった。二人は遠巻きにその白い壁を眺めるしかなかった。青の富が石になってそびえていた。
*
その日、二人が大商会の倉の前を通りかかったときだった。
ひとりの若者が倉の壁にもたれて古い帳簿を読んでいた。
身なりのよい跡取り風の青年だった。上等な外套。手入れされた靴。指には家紋の指輪。年のころはマッテオと変わらない。けれど、その顔つきは富裕な家の子のものではなかった。取り憑かれた顔だった。彼は黴の浮いた古い帳簿に食い入っていた。周りの喧騒も荷運びの声も耳に入っていないようだった。一行、一行を指でなぞり何かを確かめ、眉を寄せまた前の頁へ戻る。そして時おりはっと顔を上げ周囲をうかがう。誰かに見られてはならぬものを読んでいる、という顔だった。
指の腹に黒い染みがあるのを澪の目は拾った。インクだ。それも一日二日のものではない。夜ごと何かを書き写しつづけている者の染みだった。
澪はその横顔に見覚えのあるものを見た。
自分の顔だ、と思った。あの壁の青に取り憑かれた自分とマッテオの顔と同じ目を、その若者はしていた。何かを探している目。分かってはいけないものをそれでも分かろうとしている目。乾いた、けれど燃えている目。夜ごと欠片を灯にかざす、あの目だった。
「あの男」とマッテオが声を潜めた。「何を読んでいる。あの家の人間がなぜあんな、埃をかぶった古い帳簿を。しかも人目を避けて」
富も地位も何ひとつ、不自由のない若者がなぜあんな顔で何十年も前の古い帳簿をむさぼり読んでいるのか。まるでその古い数字の列のなかに、自分の何か大切なものが埋もれてでもいるかのように。
*
若者はふと視線を感じたように顔を上げた。
二人と目が合った。
若者の顔にはっと警戒が走った。見られてはならぬものを見られたかのように。彼は素早く、帳簿を閉じ脇に抱えると足早に倉の奥へ消えていった。逃げるように。上等な靴が石畳を鳴らして遠ざかっていく。抱えた帳簿を外套の内へ隠すそのしぐさは、まるで胸の傷を庇う者のそれだった。
澪はその後ろ姿を見送った。
青を握る商会のその跡取りらしき人間が、埃をかぶった古い帳簿に取り憑かれている。あの男は何をあんなに食い入るように読んでいたのか。そしてなぜあんなに怯えたのか。家の底を覗きこんでいる者の怯えだった。
*
「あれはヴァリエルの跡取りだ」とマッテオが声を潜めて言った。「顔を知ってる。薬種商にもたまに顔料を買いに来る。アンドレア・ヴァリエル。街いちばんの青の商会のひとり息子だ」
「ヴァリエル」と澪はその名を繰り返した。
「青で財を成した家だ。三十年あまり前のあの時代にもいちばん羽振りがよかった。……もしあの絵師を消した側にどこかの商会が絡んでるとすれば」マッテオの顔がこわばった。「まっさきに疑うのはあの家だ」
「気になるな」と彼は呟いた。「敵の家の人間だ。近づけば危うい。ひとこと口を滑らせりゃ、こっちの動きがあの商会に筒抜けになる」
「でも」と澪は返した。まだその消えた背中を見つめながら。「あの目は……わたしたちと同じ目だった」
「同じ目なら、なおさら危ない」とマッテオは言った。「取り憑かれた人間は自分の掘っている穴のためなら人を売る。……おれたちがそうならないと言い切れるか」
それは妙に重い言葉だった。澪は言い返せなかった。
青を握る商会の側は青を消した側でもあるはずだ。ならば、あの若者は敵だ。近づくのは危険だった。ひとこと口を滑らせれば、こちらの動きが商会に筒抜けになる。頭では分かっていた。
けれど――澪はあの目を忘れられなかった。何かを恐れながらそれでも掘り起こそうとする、あの目。家の隠された過去を内側から扉ごとこじ開けようとするかのように。
もしかしたらあの帳簿にこそ――自分たちの探しているものが。三つめの断片があの倉の奥に眠っているのかもしれなかった。起きたことを知る、誰か。それは遠い、どこかではなく、いま目の前を逃げていったあの若者かもしれなかった。青を握る家の奥深くに独りで降りていこうとしているあの男。
「近づくのはやめておけ」とマッテオが澪の袖を軽く引いた。「あの家にかかわっていいことはない。おれたちはおれたちで古老をあたる。そのほうがまだ安全だ」
澪は頷いた。頭ではそのとおりだと思った。けれど、足がすぐには動かなかった。あの逃げるように消えた背中が目に焼きついて離れなかった。家のいちばん暗いところへたったひとりで降りていこうとしているあの若者。恐れながらそれでもやめられずにいる、あの目。
――あれは味方になりうるかもしれない。ふとそんな考えがよぎった。敵の家に生まれながらその敵の家の秘密を暴こうとしている者。ならば、彼もまたこの都の沈黙とたたかっているのではないか。
二人はしばらく白い館の前に立っていた。高い白壁の奥は静まり返り、灯りひとつ見えなかった。けれど、あの取り憑かれた目だけが霧のなかでいつまでも消えなかった。




