第二十五話 解けた頁
その夜からマッテオはノートの暗号に挑みつづけた。
澪が看破したとおり暗号は核心の一点だけを閉ざしていた。ならばその外側の層から少しずつ崩せるはずだと、彼は読める部分の符牒を手がかりに記号の規則を探った。同じ形がどこに何度、現れるか。ある記号の前後にどんな数字が並ぶか。師が読みきれずに死んだその壁へ今度は自分が挑んでいるのだと思うと眠ることも惜しくて、彼は幾晩ぶんもの灯りの油を尽かしながら頁を睨みつづけた。
彼のやり方は力ずくで、それでいて誰にも教わっていないのに理にかなっていた。記号をひとつずつ数えるのだ。板に炭で刻みをつけ、どの記号が何度、現れるかを数え上げる。よく出る記号はよく使う音のはず。符牒の世界で育った男の勘だった。
「言葉ってのは偏るんだ」と彼は言った。「薬の名だってよく出る音とめったに出ない音がある。同じ人間が書いたものなら暗号にもどこかに癖が残る」
澪はひそかに舌を巻いた。あの白い光の世界で暗号を解く学問がまずやるのも、まさにそれだった。数えること。この男は誰に教わるでもなく同じ扉を叩いていた。
澪もその傍らで記号の形を目で追った。彼女には文字は読めない。けれど、書き手の手の運びは読めた。ここは急いでいる。ここはためらっている。ここは――何かを重々しく書きつけている。その呼吸の違いがマッテオの解読を助けた。二人の力は暗号の前でも噛み合った。
「待って」ある晩、澪がふいにある記号を指さした。「この印。……これ、さっきの頁の走り書きのなかにもあった。同じ形。でもそっちはふつうに読める並びのなかにあったでしょう」
マッテオがはっと頁を繰り戻した。二つの頁を灯りの下に並べる。同じ記号が片方では平文のなかに片方では暗号のなかにあった。
「……そうか」マッテオの声が上ずった。「同じ記号でも置き場所で読みが変わる。暗号のなかではひとつずれてる。これを鍵にすれば――」
彼は震える指で符牒を書き並べはじめた。ひとつ、またひとつと閉ざされた記号が意味へとほどけていく。澪が見つけた、たったひとつの綻びが固く結ばれた結び目の端を引き出した。
そしてある夜、外側の一層がついに解けた。
*
核心のレシピはなお、深く施錠されたままだった。けれど、その手前のひとつ外側の層が意味をなしはじめた。そこから書き手の肉声が立ち上がった。ジローラモ・トレヴィザンの言葉が。三十年あまりの時を越えて灯りのもとに蘇った。
マッテオは解けた文字をひとつずつ声に出して読んだ。澪がそれを書き留める。読みながら二人とも鳥肌が立った。死んだ男の声がいまこの部屋に満ちていた。
《この術は危うすぎる。》
暗号の解けた行にそうあった。
《一人の手に渡れば、富のために独り占めされ、あるいは恐れのために葬られる。わたしはその両方を見た。人がこの青をめぐってどれほど、醜くなるかを。だからわたしはこれを閉じる。一人では決して解けぬように。》
《いくつかの手が出会い、ひとつになったとき。そのときだけこの青はひらく。》
マッテオの読む声が震えた。読み終えてもしばらく彼は頁から手を離さなかった。
師が臨終で言った言葉と寸分たがわなかった。いくつかの手が出会えば、この青はひらく、と。師はこのノートのこの一行を読んでいたのだ。そして意味を悟らぬまま、それをマッテオに託した。言葉だけが代々、受け継がれてきた。理由も分からぬまま。
*
ノートが核心の手前で必ず欠ける理由がここにあった。
壊れていたのではない。ジローラモが悪用と独占を恐れて自らの手で一人では解けぬよう、設計したのだ。愛する術を守るためにあえて不完全にした。渡し方を間違えれば、この青は人を殺す。それを彼は知っていた。だからいくつもの手が揃わねば、開かぬ鍵をかけた。信じられる者が集まる、その日まで青が目覚めぬように。
「……厄介で優しい男だ」とマッテオは呟いた。声に畏敬があった。「作り方を遺しけれど、渡さず。誰かが正しく受け取る日を待った。三十年あまりも」
澪は頷いた。このジローラモという男の慎重さと祈りがいまや、痛いほど、分かった。
*
頁の隅に別の手による、小さな書き込みがあった。
ジローラモのものではない。もっと細い繊細な字。まるで女の手のような。何十年ものあいだ、誰の目にも留まらずにきた数行だった。マッテオはそれを別人の手だとは思いもしなかった。ただ澪の修復士の目だけがその微かな筆跡の違いを捉えた。筆先が紙を押す力が弱い。崩しのない教わったとおりの丁寧な文字。書くという行いそのものが祈りであるような字だった。
《この青は一部の者のものではない。》
誰の言葉だろう、と澪は思った。ジローラモの傍らにいた誰か。彼の術をこうして書き添えるほど、近くにいた誰か。その字には怒りでも恐れでもない、澄んだ、祈りのようなものがあった。
そしてその書き込みの下に。暗号のひとつに紛れてひとつの家名が記されていた。
マッテオがその名を解いて指を止めた。声が出なかった。
澪が書き留めたその一語を二人は灯りの下で見つめた。
――ヴァリエル。
青を握る、大商会の名。倉の前で古い帳簿に取り憑かれていたあの若者の家の名だった。敵のはずの家の名が、失われた青を追った錬金術師の記録のいちばん奥に記されていた。
二人はしばらく声もなく、その一語を見つめていた。
「どういう、ことだ」やがてマッテオが掠れた声で言った。「ヴァリエルは青で富を築いた家だ。褪せない青が世に出れば、いちばん損をする。……その家の名がなんでこの青を作った男のいちばん奥にあるんだ」
「敵の名じゃないのかもしれない」と澪はゆっくりと言った。胸の奥で何かが静かにざわめいていた。「この《この青は一部の者のものではない》という、書き込み。……富を独り占めする側の言葉じゃない。むしろ、逆。青をみんなに渡そうとした人の言葉よ」
マッテオが息を呑んだ。
「まさか」と彼は呟いた。「青を握る家の誰かが……青を解き放とうとしたっていうのか。自分の家の富を裏切ってまで」
彼は思わず窓の外へ目をやった。夜の運河の向こう。あの白い館のある方角へ。
澪はあの若者の取り憑かれた横顔を思い出していた。家のいちばん暗いところへひとりで降りていこうとしていたあの背中を。――あの帳簿のなかに。このヴァリエルという名のほんとうの意味が埋まっているのかもしれなかった。二つの断片だけではけっして照らせなかったあの三つめの闇が。いまひとつの家名となって灯りのもとに浮かびあがっていた。




