第二十六話 味方
ヴァリエル。
その名をマッテオは知っていた。澪もすぐに思い当たった。この都でその名を知らぬ者はいない。
ウルトラマリン交易を握る、最大の商会のひとつ。東の国から運ばれる、青い石のその最も太い流れを押さえている家。青を独占しその希少さで代々、富を築いてきた。宮殿のような白い館。運河に居並ぶ、倉の群れ。この都の青の値は半ば、あの家が決めていると言ってもよかった。つまり――褪せない青が世に出れば、まっさきに滅ぶ側の人間だ。安い青が現れれば、その富は一夜で砂になる。
なのにその名がなぜジローラモのノートに記されているのか。
二人は解けた断片を丹念に辿った。すると奇妙な事実が浮かび上がってきた。
第一世代が青を追っていたとき――ヴァリエルの誰かが彼らに手を貸していた。それもただ黙認していたのではない。資金を出し、人目につかぬ隠れ家を用意し、手に入りにくい原料を密かに流していた。青を消す側にいるはずの家の人間が青を生む側を支えていたのだ。ノートのあちこちにその商人の影が差していた。《かの御仁の蔵には東方の石がふんだんにある》《かの御仁は言った。この青は一部の者のものではない、と》。
「御仁、ときたか」とマッテオが鼻を鳴らした。「錬金術師が人をこんなに敬うのは金主だけだ。……いや」彼は頁を目で追い直した。「金主なら《旦那》と書く。御仁ってのは妙だ。距離がある。名を書くのを避けてる」
「名を知っていて書かなかった」と澪は言った。「守っているのよ。この書き方でも」
ジローラモは仲間の名を暗号のなかにすら残すまいとしていた。それほど慎重だった男の帳面に、たった一箇所だけ家名がこぼれていた。たったひとつの綻び。あるいは――どうしても消せなかったひとつの感謝。
*
「おかしいだろう」とマッテオが眉を寄せた。「商会ってのは青を独占して富を築く側だ。ラピスを命がけで運んで金より高く売って。なのに――その商会の人間がなぜラピスの要らない安い青を作る連中に肩入れする。自分の家の首を自分で絞めるようなものだぞ」
「自分の首を絞める、か」と澪は繰り返した。「……それでもそうした、ということよね」
澪は書き留めた断片を見つめた。あの細い字の一行を。
《この青は一部の者のものではない。》
その言葉が彼女の胸に妙に引っかかった。祈りのようなその字。
「お金のためじゃ、なかったんでしょう」と彼女は言った。「この御仁は。……損だと分かっていてなお青を作る側についた。それは勘定じゃない。何か、べつの理由があったんです。お金よりも強い理由が」
マッテオは黙った。それから欠けた杯に安酒を注ぎ、半分を澪の前へ押しやった。考えごとをするときの彼の癖だった。
金よりも強い理由。それが何なのかは断片からは分からなかった。損得で動くはずの商人が損しかない方へ進んだ。その逆説の前で二人はしばらく口をつぐんだ。けれど、その一点が澪の胸に小さな灯をともした。青を独占する家の人間ですら。その富に守られて生きてきた者ですら。それを皆のものにしようとした者が確かにいた。ならば、青を追うことは必ずしもたった二人の孤独な戦いではないのかもしれない。血の繋がりや、生まれた家より強い何かで人はこちら側に来ることがある。
*
分かってきたことがひとつあった。
二人が探している三つめの断片。「なぜ青は消えたのか」を知る、誰か。それは――このヴァリエルという商会のなかにあるかもしれない。
「商人ってのは筆まめだ」とマッテオが言った。「うちの店の親父なんぞ、猫が塩を舐めたことまで帳面につける。もめごとならなおさらだ。金が動けば、痕が残る」
「なら三十年あまり前の冬にも」と澪。「痕はある」
「あるはずだ。……消されていなければな」
取引も貸し借りももめごとも。三十年あまり前、その商会の人間が青に関わっていたのなら。事件のこともきっとどこかに、帳簿の数字のあいだに記録として眠っているはずだ。
けれど――そこでマッテオは行き詰まった。
「だがどうやって入る」
大商会だ。富の倉が立ち並ぶ、あの一帯。下働きの女と薬種商の見習いが、そう簡単に足を踏み入れられる場所ではない。まして何十年も前の揉み消された事件の記録を見せてくれと言って、見せてくれる相手では絶対にない。門は固く閉ざされている。
しかもだ。
その商会がかつて青の味方だったとしても――今もそうとは限らない。
三十年あまり前、絵師は消された。名を削られ、壁を塗りこめられ、語ることさえ禁じられた。それだけの力を持つ「誰かの意志」がこの街にあった。もしその意志がいまもこのヴァリエル商会とつながっているのなら。近づくことは、あの削られた名のあとに自分から首を差し出すことになりかねない。
*
「敵のはずの商会が」とマッテオは低く言った。「かつては味方だった」
「そしていまは」と澪が後を引き取った。「敵か味方か、分からない」
蝋燭の火が心もとなく揺れた。
「……ひとつ、思うんだ」マッテオが灯りを見つめて言った。「おれはずっとこれはおれと師匠だけの孤独な戦いだと思ってた。誰にも分かってもらえん、馬鹿げた夢だ、とな。だが……その昔にもこんなふうに青のために家を富を賭けた奴がいた。しかもいちばん青で儲けてる、家の人間が」
「ひとりじゃ、なかったのね」と澪は言った。
「ああ」マッテオは頷いた。「時代は違う。顔も名も知らん。だが……同じ火を抱えた奴が確かにいた。それがなんでか、少し心強い」
澪も同じことを感じていた。血や、生まれた家より強い何かで人はこちら側に来ることがある。損だと分かっていてなお。ならば、この孤独な火もいつか誰かに燃えうつるのかもしれない。その遠い日の商人のように。
三つめの断片はすぐ近くにあるように思えた。手を伸ばせば届きそうな。けれど、その手前に富と沈黙と得体の知れぬ「意志」のぶ厚い壁が立ちはだかっていた。
澪はふと倉の前で逃げていったあの若者を思った。ヴァリエルの跡取りらしきあの男。取り憑かれた目で古い帳簿をめくっていた、指をインクに染めていたあの男。もしあの若者が――ヴァリエルの血を引きながら家の隠された過去を掘り起こそうとしているのなら。
敵の家の内側から扉をこじ開けようとしている者がいる。
その名の意味を二人はまだ正しくは掴めずにいた。けれど、糸は確かにそこへ伸びていた。かつて味方だった家。いまは敵の家。そしてその家の奥でひとり真実を掘る若者へと。




