第二十七話 黒衣
その朝、旧聖堂の修復現場に黒衣の男が現れた。
足場の下に立ったその姿を見て堂守が震える声で告げた。ドナート神父。教会の聖性を司る側の人間だと。異端を嗅ぎ分け信仰の潔白を裁く側の人間だと。
澪は下働きの顔で隅に控えていた。心の臓が早鐘を打つのをこらえながら。
神父はゆっくりと足場をのぼった。細い身体だった。けれど、その足取りには迷いがなかった。長年、人の心の罪を見定めてきた者の確かさがあった。彼は聖母の衣の青の前に立ち、長いあいだ、それを見つめた。細く、白い指を伸ばしその青に触れそうで触れずに止めた。まるで聖遺物を検分する司祭のように。あるいは病巣を見定める、医者のように。
「美しすぎる」
彼は低く言った。賛美ではなかった。その声は氷のように冷たかった。
「これほどの青をただの古い壁画が宿しているはずがない。数百年、褪せぬ青などこの世のものではない。神のものか――さもなくば悪しきものだ。誰がこれに触れている」
神父の視線が職人たちを、道具を、壁の隅々をゆっくりと舐めていき、やがてうつむいた澪の上を通り過ぎた。うつむいた、うなじに氷を当てられたような、心地がした。見抜かれる、と思った。この下働きの女が夜ごとあの青を調べていることを。
「女」ふいに神父が言った。澪の心の臓が止まりかけた。「この足場を洗ったのはお前か」
「……はい」目を伏せたまま答えた。喉の奥が乾いて声が掠れた。
「この壁に触れたか」
「汚れを拭いただけでございます。仰せのとおりに直すのがわたしどもの仕事ですので」
仰せのとおりに。その一言が効いたのか、神父の目から興味が引いていった。自分の考えを持たぬただの道具。そう見なされることがいまだけは鎧だった。やがて彼は踵を返し去っていった。堂に冷たい沈黙だけを残して。
*
なぜいま神父が来たのか。
後で分かった。グレゴリオ親方が教会に届け出ていたのだ。
あの赤ら顔のけちで口の悪い親方。澪をこの修復の現場に送り込んだ、当の本人。
悪意からではなかった。むしろ、恐れからだった。グレゴリオはあの異様な青に怯えていた。褪せぬはずのない青が褪せずにそこにあるという、そのことを彼は生涯を色に捧げてきた職人として本能的に恐れた。あってはならないものだ、と。六十年、色を見てきた目がそう告げた。
そのうえ女が――よそ者の女が聖堂の壁画に勝手に手を入れている。それも彼には我慢ならなかった。だから彼は自衛のために告げた。厄介ごとの咎を自分が負わされる前にと。妙な壁画が出てきた念のため、検めていただきたい、と。火の粉が自分に降りかかる前に。
その日の夕方、澪は工房でグレゴリオと顔を合わせた。親方は澪と目が合うとばつが悪そうに顔をそむけた。
「……余計なことをしやがってと思ってるんだろう」グレゴリオは乳鉢を乱暴に置いた。「言っとくがな。おれはこの店を守っただけだ。あんな、得体の知れん青に関わって教会に目をつけられちゃ、たまらん。女のお前が勝手に掘り起こしたことだ。おれの知ったこっちゃ、ない」
言い訳めいたその口ぶりが、かえってこの親方の怯えの深さを物語っていた。澪は何も言い返さなかった。責めたところでどうにもならない。
「親方は」澪は訊いた。「あの青をこわいですか」
グレゴリオは一瞬口をつぐんだ。それから低く呟いた。「……六十年、色を見てきた。だがあんな青は見たことがない。ああいうものはな。……人を狂わせる。関わるな」
それから彼は思い出したように付け加えた。「明日から壁はいい。祭壇画の下塗りに回れ」
おれなりの守り方だ、とは言わなかった。言わないのがこの男だった。
澪は唇を噛んだ。けれど、グレゴリオを責める気にはなれなかった。あの男はいつもそうだ。臆病なほどに身を守る。その怯えがいま最悪のものを呼び寄せてしまった。それでもその怯えの底に、色を知る者の本物のおののきがあることも澪には分かっていた。
*
澪はこの都に流れる、空気を思った。
教会は近ごろ、異端にひどく神経を尖らせている。北の国々で新しい教えが起こり古い信仰が各地で揺らいでいる。ローマの権威が脅かされている。だからこそ、こちらの教会はいよいよ、聖なるものと異端の境に厳しくなっていた。聖画の描き方ひとつ、聖人の祀り方ひとつにも目を光らせる。少しでも教えに外れた匂いがすれば、容赦なく調べあげる。そういう、時代になっていた。
そんな時代に。
聖母の青を俗人が勝手に作る。それはただの商売敵ではなかった。神の領分を人が侵すこと。冒涜であり異端だった。金より高い聖なる青だからこそ聖母にふさわしい。もしその青が誰にでも作れる、安い色になったら――聖なるものと俗なるものの境が崩れる。信仰そのものが揺らぐ。
褪せない青は商会の富への刃であるだけでなく、信仰そのものへの刃でもあったのだ。金と神。この都を支える、二本の柱の両方に。
*
その夜、澪はマッテオに神父のことを告げた。
「教会が動きはじめた」と彼女は言った。「あの壁の青に目をつけた。……三十年あまり前と同じよ。あのとき絵師を消したのもたぶんこういう手が」
マッテオの顔がこわばった。
「どんな、男だった」
「痩せた黒衣の神父。ドナート、という名の」澪はあの氷のような声を思い出して身震いした。「壁の青をひと目見てこう言ったの。『美しすぎる』って。……賛めているんじゃ、なかった。値踏みしていた。これは神のものか、悪しきものか、って。あの目は……人を裁くことに慣れた目だった」
「じゃあ、あの壁も」
「危ない」澪は膝の上で拳を固めた。「いつ漆喰で塗り潰されてもおかしくない」
「急がなきゃ」と澪は声を落とした。「あの壁の青をいちばん確かな証を教会が先に押さえてしまう前に。……せめて記録だけでもこの目に焼きつけておかないと」
「だが下手に動けば」とマッテオが遮った。「神父の目をこっちに引き寄せる。あんたはあの現場の下働きだ。目をつけられたら逃げ場がない」
二人はしばらく黙りこんだ。聖性の管理が動き出していた。三十年あまり前と同じように。あの削られた名を生んだ手が、いままた同じ青の上に伸びようとしていた。二人の追う青はいつのまにか、都のいちばん危ういところに触れていた。富の柱と信仰の柱。その両方を敵に回す色に。
窓の外で鐘が鳴った。夕べの祈りの鐘だった。その荘厳な音がいまは澪には警告のように聞こえた。ひと突きごとに追手の足音が近づいてくるような気がした。




