第二十八話 漆喰の下へ
数日後、修復の中止命令が下りた。
教会の名のもとに旧聖堂の壁画は封じられることになった。理由は告げられなかった。ただある朝、見知らぬ職人たちが鏝と漆喰の桶を担いで現れ、足場を組み直しはじめた。手慣れた事務的な動きだった。誰も壁画を見ようとはしなかった。命じられた仕事をこなすだけという顔で。
澪はなすすべもなくそれを見ていた。
彼らがしようとしているのは修復ではなかった。塗り潰しだ。
あの青の上にふたたび漆喰を重ね闇のなかへ封じ込める。澪の目の前で聖母の衣が白い漆喰の下へ沈んでいく。鏝がひと撫でするたびに深く、澄んで燃えていた青が少しずつ見えなくなっていく。数百年、生き延びてきた色がほんの半日で消されていく。数百年の時を撥ねのけた青が人のひと塗りの前には無力だった。
止めたかった。けれど、下働きの娘にできることは何もなかった。声をあげれば次に消されるのは自分だ。あの削られた絵師とまったく同じように。だから澪は拳を握りしめ、ただ見ていることしかできなかった。奇跡が白く、塗り込められていくのを。
せめてと彼女は思った。せめてこの色を忘れまい。
澪はまだ漆喰の届いていない聖母の衣のひとところを目に焼きつけた。深く、澄んで燃えるような青。その微妙な翳りまで。何百年も先の世でよみがえる、あの色と寸分たがわぬ青を。まぶたの裏に刻みつけるように。この目だけは誰にも塗り潰せない。教会にも時にも。
焼きつけながら彼女は心のなかで壁の寸法を測っていた。衣の裾は床から肘四つぶん、削られた印の位置はそこから右下へ指三本ぶん。頭のなかに壁の地図を描いた。いつかこの漆喰を剥がしに戻る、その日のために。
職人のひとりが桶の縁で鏝をぬぐった。落ちた漆喰のかけらにほんのひとかすめ、青が移っていた。澪はそれを拾い上げたい衝動を必死にこらえた。いま手を伸ばせば見咎められる。ただその青いかけらが、白い漆喰に呑まれていくのを目で追うことしかできなかった。
昼どき、職人たちは壁を背に腰を下ろしてパンをかじった。いちばん若いのがちらと壁を見上げて呟いた。
「……きれいなもんだな。塗っちまうのか」
「見るな」と年かさの男が短く言った。「仕事だ。見れば、手が鈍る」
若いのはそれきり黙ってパンを噛んだ。悪人はどこにもいなかった。ただ命じられた仕事を手早く終えたい者たちがいるだけだった。それがいちばん恐ろしかった。奇跡は悪意にではなく、日当と沈黙とに塗り込められていくのだった。
*
これは繰り返しだ。
澪は悟った。三十年あまり前、誰かが同じこの青を同じように漆喰で塗りこめた。だからこそ、この青はいままで隠されて残っていたのだ。皮肉なことにあの封印が青を時から守った。そしていままた同じことが起きている。同じ青が同じやり方で同じ闇へ還されていく。時が巻き戻ったかのように。
誰かの意志は死んでいなかった。
あのとき青を消した意志がいまも生きて動いている。長い歳月を越えてまったく同じ手つきで同じ青を葬ろうとしている。人は代替わりしても意志は受け継がれる。守るべき秩序として。恐れるべき禁忌として。名も知らぬ誰かから誰かへと。
――そしてたぶん今も。
あの最初の朝、壁の前で澪が思わず呟いた言葉がいま目の前で現実になっていた。あの予感は正しかった。青を消す手は過去の遺物ではない。生きてこの都のどこかにある。黒衣をまとって。あるいは白い館の奥に。
*
幸い、青そのものが破壊されたわけではなかった。
漆喰の下に封じられただけだ。壁画はまだそこにある。塗り潰されてもいつか剥がせばまた現れる。長いあいだ、そうして待っていたように。そして澪の手元にはあの爪の先ほどの欠片があり、マッテオの手元にはノートがある。物証は消えていない。証人は――ピエトロ・ファブリの名を告げたあの古老は――まだ生きている。真実はまだ埋めきられてはいない。
けれど、青に近づく道はひとつ塞がれた。
あの壁をもう間近で調べることはできない。三つの断片のうち、いちばん大きなものがまた闇に沈んだ。
澪は白く、塗り潰されていく壁をじっと見つめた。漆喰の生乾きの匂いが鼻をつく。聖母の最後の青い衣の裾が白の下へ消えた。それきり壁はただの白い面になった。何もなかったかのように。
夕刻、職人たちは道具を洗い、何ごともなかったように帰っていった。石畳に白い足跡だけが点々と残った。
*
その夜、澪はマッテオにそれを告げた。声がうまく出なかった。
「塗りこめられた。……もうあの壁は見られない」
マッテオはしばらく絶句していた。目が卓の上の灰の壺へ落ちた。今夜も失敗したその灰へ。生まれる前の青と葬られた青。ふたつのあいだに自分たちは立っていた。それから彼は絞り出すように言った。
「……教会はなぜだ。なぜただの古い壁の絵をそこまでして隠す。ひとつ、塗り潰したところで青が消えるわけでもないのに」
澪は答えなかった。答えはもうふたりとも薄々、分かっていたからだ。
「……ひとつ、分かったことがある」やがてマッテオが低く言った。「三十年あまり前もこうやって塗りこめたんだ。だからあの青はいままで残ってた。皮肉な話だ。……葬った手が結局、青を守っちまった」
「そう」澪は頷いた。「壁はまだあそこにある。漆喰の下に。いつかまた剥がせば……もう一度会える。三十年あまりそうして待っていたように」
その言葉は自分に言い聞かせる、ためでもあった。奪われたのではない。隠されただけだ。そう思わなければ、この胸の痛みに耐えられなかった。
ただの古い壁画ではないからだ。あの青は作れるだけで罪になる。富を脅かし信仰を脅かす。だからかつて絵師は消され、壁は封じられた。そしていまふたたび誰かが嗅ぎつけふたたび封じにかかった。
教会が恐れているのは絵ではない。青のほうだ。その青が何をひっくり返しうるかを教会は知っている。だからこそ、これほど手早く、容赦なく闇へ押し戻す。
壁は奪われた。けれど、青を追う者はまだここにいる。そして――同じ青を恐れ、葬ろうとする者もまた、いまもこの都に確かにいるのだった。二つの意志が長い歳月を越えて同じ青の上でまた、ぶつかろうとしていた。
なぜ教会はただの古い壁画をここまで恐れるのか。その問いの底にまだ知らぬ大きな何かが沈んでいる気がした。壁は白く塗り込められ、道はひとつ塞がれた。けれどそれは終わりではなく、もっと深い闇への入り口だった。




