第八話 削られた名
誰がこれを作ったのか。
その問いを追ううちに、澪の目はピントを合わせ直すようにまたあの印へ戻っていった。
聖母の足もと。剥落しかけた漆喰の際。刃で削られた絵師の名。
彼女は修復の口実のもと、蝋燭を近づけその削り跡を間近で検めた。息を殺し顔を壁すれすれまで寄せて。蝋の匂いと古い漆喰のかびた匂いが鼻をつく。
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職人の目で見ると削り跡は語った。
まず、刃が細い。乱暴に潰したのではない。細い刃の先で名の一画、一画を根気よく、なぞるように削ってある。ひと文字を消すのにどれほどの時をかけたことか。憎しみにまかせて引っ掻いたのならこうはならない。爪を立て掻きむしり絵ごと傷つけるはずだ。これは――慎重な手だった。
そして澪は息を呑んだ。名だけが消されていた。
印の周りの絵は、聖母の衣も足もとの草の一葉も何ひとつ傷ついていない。削った者は絵を一筆たりとも損なわぬよう、名だけを外科医のような手つきで抜き取っていた。刃の運びに迷いはなく、けれどためらいの跡があった。ひと削りごとに手が止まったような。
なぜだ、と澪は思った。
憎い相手の作なら絵ごと潰せばいい。異端の青なら壁ごと塗り潰してしまえばいい。なのにこの者は青を――絵を――一切、傷つけなかった。名だけを丁寧に消した。
削り跡の溝の底には古い煤がうっすらとたまっていて、指でなぞれば黒い粉がわずかに指先についた。煤は時をかけてしか積もらない。つまりこの削りはつい先ごろのものではない。幾十年も昔の作為だった。壁が漆喰で塗りこめられる、その前後の。
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名を消し青を遺す。
その非対称が澪には読めなかった。
もしこの青が危険ならなぜ青を遺した。もしこの絵に価値があるならなぜ名を消した。消す者の手つきは慎重でほとんど――丁寧、としか言いようがなかった。まるで何かを壊すためではなく、何かを守るために削ったかのように。
名を消すことで絵を守った。
そんなことがありうるだろうか。名がなければ、この絵は「誰の作でもない、ただの古い宗教画」になる。誰の作でもないものは誰も裁けない。異端の絵師の作、と知れれば、壁ごと砕かれる。けれど、名なしなら――見過ごされる。生き延びる。
いや、と澪は首を振った。それは考えすぎだ。名を消された者の側に立ちすぎている。彼女自身が名を持てぬ者だからそう見える、だけだ。
澪は削り跡の謎を解けぬまま、胸にしまった。読めない謎として。いつか読めるようになる日まで。――それが遠い日のひとりの商人のいちばん優しい罪だったと彼女が知るのはまだずっと先のことだ。
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削られた名のその主を澪はさらに追おうとした。
あの青を描いた絵師の名。それさえ分かれば糸口が掴める。
けれど、ここで彼女は自分の立場の薄さを思い知った。
教会の古い記録はよそ者の女には開かれない。そもそも堂の奥へ入ることすら本来は許されていない。古い絵師の伝手をたどろうにも――彼女には伝手そのものがなかった。この都に身寄りも後ろ盾もない。
思いきって工房に出入りする、年老いた顔料商にそれとなく訊いてみた。
「ご老人。……昔、あの旧聖堂に変わった絵師がいませんでしたか。ずいぶん、古い話ですけれど」
顔料商の荷をまとめる手がぴたりと止まった。ちらりと澪の顔を見たその目に、一瞬、隠しきれぬ怯えのようなものが走るのを彼女は見逃さなかった。
「……知らんな」老人は目をそらした。急に耳が遠くなったふりをして。「わしは色を売るだけの男だ。絵師のことも古い話も知らん。何も知らん」
そしてそそくさと荷を担ぎ帰っていった。逃げるように。その問いに触れただけで火傷でもするかのように。
いちどだけ糸口らしきものに触れたことがある。
旧聖堂の堂の隅。埃をかぶった古い奉納の板の裏に澪は消えかけた墨書きを見つけた。堂に絵を納めた者たちの覚え書きらしかった。ほとんどは判読できない。けれど、いちばん古い一行にかすかに読めるものがあった。「……ファブリ」。姓の末尾だけ。あとは水に滲んで消えていた。
ファブリ。
澪はその名を口のなかで繰り返した。もしや、これが――あの削られた絵師の。確かめる術はなかった。堂守がこつ、こつ、と近づいてくる音に彼女はあわてて板を元に戻した。心の臓が鳴った。それでもその半分の名は、暗い胸の底に小さな灯のように点った。ひとつの糸口。けれど、それを手繰る手が彼女にはまだなかった。
*
あの削られた印を澪は夜、目を閉じても見た。
細い刃が名を一画ずつなぞっていく。その手つきの奇妙な優しさ。憎む者の手ではない。けれど、守る者の手だとしたら――なぜ名を消す。守るなら名を遺せばいい。分からなかった。分からないまま、その光景だけが瞼の裏に焼きついていた。
誰かに見られている気がした。
壁画を調べているあいだも街で絵師の名を訊いてまわるあいだも。振り返っても誰もいない。けれど、視線の名残だけがうなじに残る。この都の沈黙はただの沈黙ではない。沈黙を守らせている何かがある。澪はそれを肌で感じはじめていた。
いちど、堂守に呼び止められたことがある。腰の曲がった無口な老人だった。彼は澪が壁の前に長くいるのをじっと見ていた。そしてしわがれた声でひとことだけ言った。
「あの壁は見んほうがいい」
理由は言わなかった。ただその目の奥に恐れがあった。何かを恐れている者の目だった。
澪は頷いてその場を離れた。けれど、離れながら思った。恐れているのはこの老人だけではない。老親方も顔料商も堂守もみな同じ何かを恐れている。名を口にすれば、災いが降りかかる。そう信じ込まされた者の怯えだった。幾十年とこの都に沈殿してきた沈黙。
*
名を消された絵師は確かに実在した。そしてその名を消した者も確かに実在した。その二つだけは澪にも分かった。けれど、そこから先は壁だった。分厚い沈黙の壁。この都じゅうが申し合わせたように口をつぐむ。
沈黙は伝染する。ひとりが口をつぐめば隣もつぐむ。そうやって真実は幾重にも埋められていく。澪の知る世界にもそういう沈黙はあった。けれど、ここまで分厚いものは知らなかった。その沈黙の底にあの絵師は沈んでいる。名を削られ、青だけを遺して。そしてそれを恐れさせる何かはいまもこの都のどこかで生きている。
ひとりではこじ開けられない。
澪は初めてはっきりとそう思った。
この沈黙をこじ開けるには自分のほかにもう一つの手が要る。色を「見る」自分ではなく、色を「作る」側の――誰かの手が。火と炉を知る、誰かの。




