第七話 今は作れない青
澪は青の作り方を知る者を探した。
まず、老親方にそれとなく訊いてみた。絵具を挽く手を止めずに。
「親方。……褪せない青、というものはないのでしょうか。何年たっても緑にならない青は」
老親方はじろりと澪を見た。
「妙なことを訊く女だな」しわがれた声で彼は言った。「褪せん青、だと? そんなものはない。青は群青もアズライトもいつかは裏切る。緑に濁る。それが色の定めだ。永遠の青が欲しけりゃ、天国へでも行くんだな」
それきり老親方は興味を失った。澪はそれ以上は訊かなかった。深追いすれば怪しまれる。
工房に出入りする職人からも古い絵師の口伝を拾い集めた。市場の顔料商にも薬種商にも同じことを訊いて回った。褪せない青の手がかりを求めて。
けれど、誰も知らなかった。
褪せぬ青を作る術など、この都の絵師のただの一人も知らなかった。アズライトを溶く者はいる。ラピスを砕き群青を採る者もいる。けれど、年月に逆らう青を一から練り上げる者はどこにもいなかった。そんな色があること自体、皆、信じていなかった。
今、この都にあの青を作れる者はいない。
澪はそう結論した。
そしてその結論のいちばん底で。ずっと押さえつけていた何かがついに身を起こした。
*
――わたしは知っている。
あの欠片を見た夜から、ずっと喉の奥に閊えていたものがゆっくりと像を結んでいく。
あれはラピスではない。あんな高価な石を砕いた色ではない。あれは――焼いて作る、青だ。
澪の指が知らず、宙をなぞった。あの白い光の世界で彼女はそれを学んでいた。講義で。図録で。師の言葉で。銅と石灰と砂のようなもの。それを正しい配合で正しい火にかけ焼き上げると生まれる青。気の遠くなるほど昔に人が作りそして失われた色。
人の国がいくつも興っては滅び誰もその作り方を思い出せなくなり――彼女のいた、はるか後の世になってようやく人がもう一度その作り方を掘り当てた青。
これは奇跡ではない。秘術でもない。神の御業でもない。
人が作れる色だ。いつか必ず人がもう一度たどり着く色だ。
それをこの世でただ一人。彼女だけが知っていた。
澪は震える息を吐いた。誇らしさはなかった。あったのは底のない孤独だった。
知っていても言えない。「いつか人がこれを作る」などと口にすれば――ではお前は誰だ、どこから来た、と問われる。そして彼女はその問いにほんとうのことでは答えられない。ほんとうのことを言えば、狂っていると思われるだけだ。あるいは魔女と。この白い光の世界の記憶ひとつが、彼女をいつでも火あぶりの薪の上に立たせうる。
*
いちど、勇気を出して街のいちばん年老いた絵師に訊いてみたことがある。半世紀、筆を握ってきたという、白髭の老人だった。
「ご老人。……褪せない青をご存じですか。何百年たっても生まれたときのままの青を」
老絵師は澪の顔をじろりと見て鼻で笑った。
「褪せぬ色など、ない」老人は断言した。「若いの。色は必ず裏切る。塗った、そばから老いていく。それを受け入れるのが絵師というものだ。……永遠の色を欲しがるのは色を知らぬ者だけよ。わしは五十年、それを思い知ってきた」
「でももし」澪は食い下がった。「もしほんとうに褪せない青があったとしたら」
「ないものはない」老絵師はうるさそうに手を振った。「夢を見るな。色に夢を見た絵師はみな不幸になる。……もう行きなさい」
正しい、と澪は思った。この時代の絵師としてはまったく正しかった。褪せぬ青など狂人の見る夢だ。ただ一人、澪をのぞいて。彼女だけがそれが夢ではないと知っていた。この老絵師が生涯、見ることのない色を彼女は掌のなかに抱えていた。それでも言えなかった。あなたが夢と呼ぶものはいまわたしの懐にある、とは。
知っているのに何の役にも立たない。
それどころか――彼女はふいに寒気を覚えた。
*
おかしい。
彼女の知る限り、あの青がこの世にまたよみがえるのはずっとずっと後の世のはずだった。何百年も先の。彼女の生きた時代のそのすぐ手前まで、この青は失われたままのはずだった。
なのにそれがいまこの壁にある。
誰かが来るはずのなかった時にその作り方にたどり着いていた。歴史のはるか先にあるはずの一点を、この時代へ手繰り寄せた者がいた。そして消された。
何かが彼女の知る筋道と食い違っていた。まるで糸が一本、あるべきでない場所で結ばれてしまったように。歴史という織物のその目がここでひとつ狂っている。
その食い違いが澪をいっそう深く、この謎へ引きずり込んだ。
もしこの時代にあの青を作った者がいるのなら。その者は彼女と同じ地平に立っている。同じ「作れるはず」を知りそして実際に作ってのけた。会って話してみたかった。どうやったのか、と訊いてみたかった。あなたもどこか、遠いところから来たのか、と。
けれど、その者はもういない。工房ごと名ごと消された。残されたのは壁の青と削られた印と――沈黙だけだった。
*
とはいえ確信があっても彼女の手は青を生めなかった。
焼いて作る――その大筋は分かる。けれど、どの石をどれだけ。どれほどの火でどれだけの時。そこまでは彼女も知らなかった。学生だった彼女が覚えていたのは「そういう青がある」という、その一事だけで細かな手順ではない。答えのいちばん最後の一行だけを暗記して、途中の式を書けない子どものように。たとえ知っていたとしても、この時代の炉でこの時代の道具でそれを成せるとは思えなかった。
いちど、澪はこっそり試したことがある。
誰も見ていない夜。工房の隅の小さな火鉢で。銅の錆と砕いた石灰と川砂を見よう見まねで混ぜ、火にかけた。もし方向が正しいなら何かの兆しくらいは出るかもしれない。そう思った。指先が期待で震えた。
けれど、坩堝がわりの欠けた壺のなかに生まれたのはただの黒く焦げた塊だった。青のかけらもなかった。火が足りないのか。比が違うのか。冷まし方か。分からなかった。何ひとつ分からなかった。彼女が覚えているのは「そういう青がある」という、方向だけ。そこから先の無数の枝分かれは闇のなかだった。
焦げた塊を澪は長いこと見つめた。
方向を知る者が手を持たない。それがどれほど、無力なことか。地図はあるのに足がない。北は分かるのにそこへ歩けない。彼女は自分の持ってきた知識というものが思いのほかに薄く、そして掴みどころのないものであることをこのとき思い知った。
目は見分ける。記憶は方向を指す。けれど、どちらも青を一から作ることはできない。
答えは色を使う者の側にはなかった。色を作る者――薬種商の錬金術師の側にある。火と炉を知る者の手に。
そしてそれを作り名を削られた絵師とはいったい誰なのか。
二つの問いが同時に彼女の前で口を開けた。
今は作れない青。けれど、いつか誰かが作る青。それを私だけが知っている。
――ならば、いったい誰がこの時代にこれを作ったのか。




