第六話 裏切る青
その日から澪は街の聖母たちを見て歩いた。
仕事の使いに出るたび道をわざと遠回りして歩いてみると、この都には驚くほど多くの聖母がいるのだった。小さな祠の祭壇画。橋のたもとの聖龕。教会の壁に掛かった古い板絵。市場の露店にすら粗末な聖母の刷り物が並んでいた。街角のいたるところで青い衣の女が赤子を抱いて静かに佇んでいた。
澪は新しい目でそれを見て回った。顔でも構図でもない。ただ青だけを。
すると見えてきた。どの聖母の衣も淀んでいた。
買われたばかりのころはさぞ、深く、澄んだ青だっただろう。空を写したようなまぶしい群青。けれど、幾年も壁にあるうちに青はゆっくりと緑へ傾いていた。聖母の衣が苔のような、淀んだ水のような色に沈んでいる。名のある絵師の値の張る一枚でさえ例外ではなかった。
アズライトだ。
澪にはひと目で分かった。この都じゅうの聖母がアズライトの青をまとい、そしてそのアズライトが静かに裏切りつづけていた。描いた絵師たちが下手だったのではない。心を込めなかったのでもない。祈りが足りなかったわけでもない。ただ色のほうが人より先に老いていくのだ。
色は裏切る。
澪はその言葉を街じゅうの聖母の前で何度も噛みしめた。
*
街角のひときわ古い聖龕の前で澪は足を止めた。
花を供える老婆がいた。毎朝、そうしているのだろう。萎れた花を替え色の褪せた聖母に長いこと手を合わせている。皺だらけの指を固く、組んで。
澪がその緑がかった聖母をじっと見ているのに、老婆は気づいたらしい。
「きれいだろう」老婆は祈りを終えてしわがれた声で言った。「わたしの婆さまのそのまた婆さまの代からここにおいでだ。ずっとこの街を見守ってくださってる」
「……はい」澪は頷いた。青はもう苔のように濁っている、とは言えなかった。
「昔はな」老婆は目を細めた。「もっと青かった。空みたいに。わたしが娘のころは。……いまはずいぶん、くすんじまった。年をとられたのさ。聖母さまもわたしといっしょに」
そう言って老婆はまた手を合わせた。老婆にはその青が緑へ濁っていくことなど、どうでもいいのかもしれない。祈りは褪せない。褪せるのは色のほうだった。
けれど、と澪は思う。もしこの聖母があの壁の青で描かれていたら。百年経っても二百年経ってもこの深い青のまま、この老婆の孫のそのまた孫の祈りまで受けとめつづけるだろう。色が人の一生より長く生きる。それがどれほどのことか。
あの博物館の欠片を思い出す。幾千年を越えて褪せなかった小さな青。師は言った。これは人が作ったものだ、と。人の手が永遠を作れる。その事実に澪は震えたのだった。そしていま目の前の壁に同じ奇跡がもう一度在る。
――あの白い光の世界ではと澪は思う。この老婆の祈る聖母も褪せない青をまとえただろう。あそこではそれが当たり前だった。安い絵の具でさえ百年やそこらでは緑にならなかった。人の祈りが色に裏切られることはなかった。同じ人間の同じ祈りが、生まれた時代ひとつで報われたり褪せたりする。そのむごさ。
*
そして――その裏切りの海のただなかにいるからこそ。あの壁の青の異常が決定的に際立った。
街じゅうの青が緑へ淀んでいくなかで、あの一枚だけが何ひとつ譲っていなかった。
澪は旧聖堂へ戻り聖母の衣の前に立った。蝋燭をかざす。青が火を吸って燃える。淀みもしない。緑へも傾かない。年月という年月をその青はことごとく撥ねのけていた。まるで周りのすべてが古びていくなかで、そこだけ時間が止まっているかのように。
ありえない。それだけは確かだった。彼女の目はそれを断言できた。この都のどの絵師よりも確かに彼女の目はそれを知っていた。
*
だが――澪は唇を噛んだ。
目は見分けられる。裏切る青と裏切らない青を。けれど、目はそれ以上のことを教えてくれなかった。
この青が何でできているのか。どうやって作られたのか。そこへは目では届かなかった。
絵師は色を使う者だ。与えられた色を選び混ぜ、置く。その良し悪しを見分ける。けれど、色そのものを一から作る者ではない。彼女は世界がひっくり返っても絵師だった。目だけは誰より確かなのに――その目がいちばん知りたいことのすぐ手前でぴたりと止まってしまう。
喉のすぐ奥まで答えが出かかっている。なのに言葉にならない。掴めない。焼いて作る、という感覚だけがある。銅の匂いのようなものが。けれど、その先が霧だ。あの白い光の世界で確かに聞いたはずの答えがもう思い出せない。
確かなのは「ありえない」、それだけだった。
澪はあの欠片を持ち歩くようになっていた。胸の内側、心臓のすぐそばに。ときおり人目のないところで取り出しては光にかざした。何度、見ても答えは出ない。粒の細かさ。緑へ傾かぬ深さ。この時代のどの青とも違うその質。目はそのすべてを見て取る。見て取るのに――それがどこから来たのか、どうすれば、生まれるのか、そこへは指一本ぶんも近づけなかった。
絵師の目は色の「顔」を読む。けれど、色の「中身」は読めない。骨や、臓腑のことは分からない。それを知るには色を切り開く者――薬種商か、錬金術師の手が要る。火と炉を知る者の手が。澪にはその手がなかった。
*
その頃から澪は薬種商の店をのぞくようになった。
顔料はたいてい薬種商が扱う。乾いた薬草や、鉱石の粉に混じって青も赤も黄も量り売りされていた。澪は絵具の買い出しにかこつけて店の奥をうかがった。誰か、色を「作る」ことを知る者はいないか。粉を売るだけでなく、その粉が何からできているかを知る者は。
店先でそんな話をそれとなく振ると、たいていの主人はけげんな顔をした。
「色を作る?」ある店主は鼻で笑った。「色は買うものだ、娘さん。石を挽く。草を煮る。それだけのこと。何からできてるかなんぞ、知ってどうする。妙なことを訊く女だ」
どこでも同じだった。よそ者の女が妙なことを訊く、と。
ただいちど。奥の老いた薬種商が澪を手招きして声を潜めた。
「あんた色を生む者を探してるのか」
「……ええ」澪の胸が鳴った。「ご存じですか」
「知っとる、とは言わん」老人は周りをうかがった。「だがそういう手合いはいるにはいる。金を作ろうとして家を溶かす。石からこの世にない色を絞ろうとして身を焼く。……錬金術師、とか呼ばれる変わり者だ。悪いことは言わん。近づかんことだ。あれに関わるとろくな、最期を迎えん」
錬金術師。
その言葉が澪の胸に小さく引っかかった。色を買うのではなく生む者。目ではなく火と炉で色に触れる者。もしそんな手がこの都のどこかにあるのなら――。
目だけでは届かない。
その「なぜ」は――彼女の目では決して掴めなかった。誰か、色を「作る」者の手を借りぬかぎり。まだ澪は、その相手がこの都のどこで夜ごと炉を焚いているのかを知らなかった。




