第五話 欠片
修復の仕事は澪に口実を与えた。
欠けを埋め、剥がれをとめる。その名目があれば、誰も怪しまずに彼女はあの壁の前に立てた。下働きの女が古い壁の面倒を見ている。ただそれだけのこと。誰も気に留めない。
けれど、澪がほんとうにしていることは修復ではなかった。調べていたのだ。あの青を。
それがどれほど危ういことか、彼女にも分かりはじめていた。組合に知れれば、ただではすまない。女がしかもよそ者が聖堂の壁画を勝手に調べていると知れたら――破門どころか、もっと悪いことになるかもしれなかった。この都が青を消した者と消された者でできているなら。自分がどちらに数えられるかは考えるまでもなかった。
*
人の絶えた旧聖堂は昼でも薄暗い。
高い窓から落ちる光は細く、埃の粒だけがその筋のなかでゆっくりと舞っていた。堂のなかはしんと冷えていて澪が身じろぎするたびに足音が思いのほか、大きく反響した。天井の高い闇にその音が吸われていく。祭壇の金はとうに剥がれ、聖人たちの顔は煤に沈んでいた。ただ奥の壁のあの青だけが闇のなかでひとり息づいていた。
奥の堂で作業をしていると、ときおり堂守の杖が石床を打つ音が近づいてくる。こつ、こつ、と。そのたびに澪は手を止め、何食わぬ顔で剥がれの補修に戻った。息を殺し鏝を動かすふりをする。うなじにじっとりと汗が滲む。
杖の音がいちど、すぐ背後まで来たことがあった。
「精が出るな、娘」老いた堂守が彼女の手元を覗きこんで言った。「そんな、崩れかけの古堂の壁を後生大事に。……誰も拝みに来やせんのに」
「もったいない、ですから」澪はうつむいたまま、答えた。声が上ずらぬよう、腹に力をこめて。「古いものにも直せば、まだ値打ちが」
「ふん。物好きな」堂守は興味を失ったように鼻を鳴らした。それから奥の青い衣を顎で示した。「……その聖母だけは妙にな。何百年も褪せん。気味が悪いくらいだ。あんまり深く、関わらんことだ」
そう言い残して老人はこつ、こつ、と去っていった。澪は詰めていた息をそっと吐いた。心の臓が喉のあたりで鳴っていた。見つかれば終わりだと分かっていて、それでもやめられなかった。
なぜ自分はこんな危ない橋を渡っているのか。澪は思う。この都に味方などいない。老親方さえ関わるな、と言った。それでも――あの青の前では恐れがうまく働かなかった。知りたい、という渇きのほうがいつも恐れより先に立つ。前世でもきっとそうだった。だから彼女は色に関わる道を選んだのだ。移ろうものと移ろわぬもののその境目をこの手で確かめたくて。
*
澪は聖母の衣そのものには決して刃を入れなかった。
あれは誰かが命がけで遺したものだ。触れるのが畏れ多かった。
代わりに彼女は、壁の縁でいまにも落ちそうになっていた漆喰のひと欠片をそっと掌に受けた。爪の先ほどの青を含んだ欠片。壁がみずから手放そうとしていたその一片。これなら壁を傷つけない。彼女はそれを湿らせた布でくるみ、胸の内側に隠して工房へ持ち帰った。まるで心臓をもうひとつ抱えて歩くように。歩くあいだじゅう、その一片が胸で脈打っている気がした。
*
夜、皆が寝静まってから澪は道具を並べた。
小刀。乳棒と小さな磁器の皿。澄んだ水を張った椀。蝋燭を一本。
支度をしていると隅の寝床から寝ぼけたトニオの声がした。
「姉さん……まだ起きてるの」
「うん。ちょっとね」澪は小さく笑った。「起こしちゃった? ごめん。もう寝なさい」
「なにか、作ってるの?」
「……秘密。いい子は寝る時間」
トニオはふにゃりと笑ってまた寝息を立てはじめた。澪はその寝顔をしばらく見てからそっと蝋燭のほうへ向き直った。この子にはまだ言えない。この一片がどれほど、危ういものか。
あの白い光の部屋で身につけた手つきがこの古びた道具のなかでふしぎなほど、自然に動いた。顕微鏡も薬品も何ひとつない。それでも色を見る目とそれを確かめる手順は、世界が変わっても変わらなかった。彼女の指が覚えていた。五百年の隔たりもこの手つきだけは越えてきた。
まず、彼女は欠片を蝋燭の光にかざした。粒の立ち方を見る。
アズライトならこうはならない。アズライトの青は砕けば、粒が粗く、やがて緑へ淀んでいく。空気と時がその青を蝕む。けれど、この青には緑へ傾く兆しのかけらもなかった。粒は細かく均一で、意図して作られたかのようだった。人の手が狙って生み出した青。
水に一片を落とす。沈み方を見る。
インディゴなら――これは草木から採る色だ。性質がまるで違う。陽に灼かれれば、消え水のなかでの振る舞いも別物になる。けれど、この粒はそうではなかった。鉱のように水の底で静かに座っていた。溶けもせず、浮きもせず。
ならばスマルトか。砕いた青いガラスの色。だがスマルトはもろく、指で潰せば簡単に崩れ、光の下で表情をくるくると変えてしまう。これほど深く、これほど安定して燃える青にはなりようがなかった。
澪は乳棒を置いた。
アズライトでもインディゴでもスマルトでもない。ラピスの群青とも明らかに違う。彼女がこの都で見知った青のどれでもなかった。この時代の絵師が手にできる青のことごとくがひとつ、また、ひとつとふるい落とされていく。消去の果てに残ったのは名のない、ただ一片の青だけだった。
*
念のため、彼女はもうひとつ確かめた。欠片をごく細かく、砕いて乳鉢のなかで練ってみる。もしこれが砕くほどに色を失うなら天然の石だ。けれど、この青は細かく砕いても色を失わなかった。むしろ、粉になってもその深さを保ちつづけた。天然の石の青はこうはならない。砕けば必ず痩せる。
人が火で作った色。しかも砕いても褪せても死なない色。
澪の指がかすかに震えた。自分がいま確かめているものがこの時代にあってはならないものだ、という予感が背筋を這いのぼってきた。
磁器の皿の上でその欠片は蝋燭の火を吸って小さく、けれど確かに燃えていた。
何百年の時を経てもなお――いや、ほんとうに何百年なのかさえ彼女には分からなかった。ただ気の遠くなるほど昔に作られたとしか思えぬのにそれはまるで昨日、生まれたばかりのように澄んでいた。
その澄み方に澪は覚えがあった。
あの博物館の掌の上。師が置いた古代の青の欠片。あれと同じ澄み方だった。時の外に立つ、あの色。喉のすぐ奥までその名が出かかっている。焼いて作る、失われた青。いつかずっと後の世で人がもう一度掘り当てる青。その正体を自分は知っているはずなのに――名を掴もうとするとするりと逃げる。忘れた夢のように。
知らない青。名のない青。作り方の知れない青。
澪はその青をひとすじ指の先に取った。指先に残ったわずかな青。それがいやに重く感じられた。
もう引き返せない。そう思った。いや――引き返す道など、はじめから無かったのかもしれなかった。この欠片が指に触れる、ずっと前から。




