第四話 下塗り
ヴィオ工房はゆっくりと傾いていた。
老親方は冬の初めに腰を痛めてから高い足場にのぼれなくなった。祭壇画の大仕事は足場の上でこそできる。それができなくなれば、大きな注文はもう来ない。来るのは剥がれの補修や、下塗りや、誰もやりたがらない裏方の手仕事ばかりだった。名のある親方が受けた仕事のそのまた下請けのさらに下。
冬の朝、澪は炭を惜しみながら膠を温めた。
獣の皮を煮詰めた膠は温まると独特の匂いを立てる。甘いような獣くさいような鼻の奥に残る匂い。工房で寝起きするうちに髪にも服にも染みついてもう取れない。澪は小指の先を鍋に浸して粘りと熱を確かめた。人肌より少し熱いくらい。熱しすぎれば膠は死に、冷めれば塗れない。あの白い光の世界には目盛りひとつで熱を測る道具があった。ここで頼れるのは自分の皮膚の記憶だけだった。
火を強くすれば、膠は早く溶ける。けれど、炭は金だ。ひとかけら燃やすたびに財布の底が薄くなる。顔料商への払いももう何月も滞っていた。とりわけ青は高い。青を一壺買えば、ひと月の炭が買える。ろくな青も買えぬ絵師など絵師のうちに入らない。それでも澪は安いアズライトの量をそっと減らし足りないぶんを腕でごまかしてなんとか、日々をつないでいた。
色に取り憑かれた者がその色を惜しんで暮らしている。
澪はときどきそのことをひどく可笑しく思った。笑うしかなかったからだ。
「ミオ」
老親方だけはときおり彼女を結びそこねたその音で呼んだ。レナータと呼ぶのに飽きたときだ。
「炭はもう足すな。手がかじかむくらいがちょうどいい。手がぬくいと線が甘くなる」
強がりだった。ほんとうは炭を惜しんでいるだけだと承知のうえで、澪はかじかんだ指を息で温めながら黙って頷いた。
*
なぜ自分がこんなにも色に取り憑かれたのか。
澪ははっきりとは思い出せなかった。あの白い光の世界の記憶は霧のなかの灯のように滲んで遠い。日ごとに輪郭が薄れていく。母の顔も友の声も少しずつ遠ざかる。
ただひとつだけ鮮明に覚えていることがあった。
いつだったか、薄暗い部屋でごく小さな青の欠片を手のひらに載せたことがある。博物館の収蔵庫の奥だった。師が白い手袋をした指でそれを彼女の掌に置いた。
「これはね気の遠くなるほど昔に作られた色だよ」
師はそう言った。幾千年もの時を越えてまったく褪せていない青。人の国がいくつも興っては滅びたあいだ、その色だけがただ在りつづけた。埃をかぶった小さな欠片が、それでも生まれたばかりのように澄んでいた。
「これを作る術はとうの昔に失われてね」と師は続けた。「長いこと誰にも作れなかった。……人はいちど手にした奇跡をこんなにも簡単になくしてしまう」
それを聞いたとき澪は胸の奥が震えた。
そのあと師はその青がどうやって生まれたのかも話してくれたはずだった。焼いて作る色だ、と。何をどれだけ、どの火で、と。けれど掌の上のその青があまりに美しくて、彼女の耳は先をほとんど拾っていなかった。あとで調べればいい。そう思っていた。調べたいことを調べたいときに調べられる世界に、彼女はいたのだから。
――その「あとで」がこんな形で来るとは、そのとき誰が思っただろう。
移ろわぬものがこの世にひとつだけある。永遠が色のなかに練り込まれている。すべてが古び崩れ、忘れられていく、この世界でその青だけは時間の外に立っていた。
あの震えがたぶんいまも彼女を動かしている。色は裏切る、とうそぶきながらその裏切らない色を彼女はずっと探していたのだ。けれど――そんな色がいつ、どこで作られたものなのか。そしていつ、失われ、いつ、よみがえるものなのか。それをこの時代の誰に言えばいいのか。澪には分からなかった。言えば、狂人と思われるだけだ。
*
老親方は、跡を継ぐはずだった息子を何年も前に流行り病で亡くしていた。
だから彼は流れ者の女に筆を教えた。
誰にも言わぬがそれは哀れみではなかった。澪にはそれが分かる。腕のある者に絵を渡さねば、自分の半生が無駄になる。職人の業だけは誰かの手に渡さねば、その者とともに消えてしまう。老親方はそれを恐れていた。だから女でもよそ者でも確かな手を持つ者に賭けた。
ある夜、澪が薄い麦の粥を彼のもとへ運んだとき。老親方は匙を受け取りながらふと目をそらした。
「……すまんな」
謝ることじゃありません、と澪は言った。彼が何を恥じているのか、彼女には分かっていた。飯をよそ者の女に頼ることではない。その女にまっとうな名のひとつも与えてやれぬことのほうを、彼は恥じていた。
「お前の手は惜しい」
彼は炭火を見つめたまま、ぼそりと言った。
「女でなければな。よそ者でなければな」
それはこの都で澪が聞いた、いちばん優しい言葉のひとつだった。惜しい、と言われること。それは認められる、ということにいちばん近かった。
いつだったか、老親方は亡くした息子のことをぽつりと語ったことがある。よく笑う子だった、と。手はまだ荒かったが色を見る目は悪くなかった、と。それきり彼は口をつぐんだ。炭火がその皺深い顔に赤い影を落としていた。澪は何も言わなかった。ただこの偏屈な老人が失ったものの大きさを少しだけ分かった気がした。彼もまたこの都で名も跡継ぎも静かに奪われた者のひとりだった。
その優しさに応えたくて澪はよく働いた。夜明け前から絵具をすり、日が落ちるまで下塗りを重ね、それでも仕上げた絵はいつも他人の名で世に出ていくのだから、報われる仕事ではなかった。それでも手を動かしているあいだだけは、余計なことを考えずにすんだ。ここがどこで自分が何者でなぜここにいるのか。考えはじめると足もとが崩れる。だから彼女は手を止めなかった。
下塗りは表には出ない。誰の目にも触れないいちばん下の層。それでもその一層がなければ、上のどんな色も壁に喰いつかない。名の残らない、その仕事はいまの澪自身にどこか、似ていた。
*
その夜、澪がふと壁画の話を口にすると老親方の手が止まった。
旧聖堂。褪せない青。彼女がそう言いかけたとき老人の顔からすっと表情が抜けた。触れてはならぬものに触れられたかのように。
「……あの聖堂か」
彼は炭火を見つめたまま、低い声で言った。
「昔、妙な絵師がいた。色の作り方で人が手を出してはならんことに手を出した。ある日、ふっつりと消えた。工房も家財も人もまるごとだ。誰もその話はしたがらん」
「消えた? どこへ」
「知らん。みな、知らんふりをするのが利口だと知っている」
老親方は炭を一片火に足した。惜しまずに。それが話を打ち切る合図だった。しばらく炭のはぜる音だけが狭い部屋に響いた。
「関わるな、ミオ」
彼はそれだけ言って目を閉じた。皺深いまぶたが震えていた。
「あの青には関わるな。あれに近づいた者はみな、いなくなる」
澪は頷かなかった。
頷けなかった。もう遅すぎたからだ。あの青はとうに彼女の奥深くに棲みついて離れようとしなかった。博物館の掌の上で震えたあの日から。いや――五百年を隔てたその日からずっと。




