第三話 色の名前
「使えん餓鬼だ。どけ」
年かさの弟子がトニオの肩を肘で突き飛ばした。
運んでいた膠の壺がぐらりと傾ぐ。少年はたたらを踏んで床に膝をついた。けれど、壺は割れなかった。それを庇ってトニオが体ごと抱え込んだからだ。膠が跳ねて少年の頬に飛んだ。
澪は乳棒を置いて立ち上がった。
「壺は無事よ。あなたが押さなければ、膝もすりむかなかった」
拙い言葉だった。単語をひとつずつ並べただけの。けれど、声の固さは言葉が拙くても伝わる。年かさの弟子は鼻を鳴らし聞き取れない悪態を吐いて出ていった。ふん、という顔だけを残して。
澪はトニオの膝を見た。薄く血がにじんでいる。桶の水で布を湿らせそっと押さえてやると、少年はくすぐったそうに身をよじって笑った。
「姉さん、おれのこと庇うとまた陰で言われるよ。よそ者の女が餓鬼の肩を持つって」
「言わせておけばいい」
澪は短く答えた。
この子だけはと思っていた。この都へ落とされてから、言葉も身元もない自分にいちばん先に口をきいてくれた子だ。ほかの誰もが澪を薄気味悪いものでも見るように扱うなかで、トニオだけは平気で袖を引き平気で話しかけてきた。庇うのに理由などいらなかった。
*
トニオは色の名前を覚えるのが誰よりも早かった。
筆はまだ満足に握れない。線一本、まっすぐに引けない。面を塗らせればむらになる。それでも澪が絵具を並べると、少年はそのひとつひとつを指さして名を言い当てていった。
その日、澪は似たような赤を三つ、すり鉢に並べていた。素人目にはどれも同じ赤土の色だ。
「トニオ。この三つ、名前を言ってごらん」
少年は身を乗り出しひとつずつ覗き込んだ。
「これは……シノピア。こっちは焼いた土の赤。いちばん右のは――ちょっと黄色が混ざってる。赤土を火にかけすぎたやつ」
ぜんぶ当たっていた。
筆は握れずともこの子は色の名を誰よりも早く、正しく覚える。一度聞いた色を二度と忘れない。だからこそ、老親方もこの子を置いているのだ。
「たいしたものよ」と澪は言った。
トニオの頬がぱっと赤くなった。シノピアよりずっといい赤だった。
澪はこの子を見るたびに思う。もしこの子が色をありのままに見て、その名を惜しみなく学べる場所に生まれていたら。どれほどの絵師になっただろう、と。けれど、この都では貧しい橋の下の子どもに筆は回ってこない。せいぜい絵具の番か、使い走り。才は生まれた場所ひとつでそのまま埋もれていく。あの白い光の世界では子どもは誰でも絵の具箱を持っていた。その落差を思うたび澪の胸は鈍く痛んだ。
*
澪のこの土地の言葉はいまも片言だ。市場で値を訊くのもひと苦労する。けれど、色の名を言うときだけは二人は対等に話せた。赤、と澪が指させば、トニオがこの土地の名を返す。トニオが土の色を指させば澪が頷く。
色には国境がなかった。女もよそ者もなかった。
絵具の名を交わすあいだだけ、澪は自分がひとりではないと感じられた。色だけがこの見知らぬ都で彼女と誰かをまっすぐに繋ぐ言葉だった。それは遠い世界から落とされた彼女に残された、たったひとつのささやかな救いだった。
いちど、トニオが訊いたことがある。姉さんはどこの生まれなのと。海の向こう? もっと遠く? と色の名を並べる合間になんの気なしに。
澪は答えられなかった。答えを持たないのではない。答えを口にすれば、この子まで危うくしてしまう気がした。狂った女だ、と言われるのが落ちだった。だから遠いところ、とだけ言った。うんと遠いところ。
トニオはそれ以上は訊かなかった。ただ遠いんだねと呟いてまた絵具のほうへ向き直っただけで、その屈託のなさが澪にはかえっていっそ痛かった。ほんとうの答えはこの子にもこの都の誰にも永遠に言えない。五百年、という言葉が喉の奥で行き場をなくしていた。
*
その日、すりつぶしていたのは灰がかった淡い青だった。
アズライトに白を混ぜ、ほんの少し赤を落とした色。空のいちばん高いところの色。どの名にも当てはまらない。
「これ、なんて名前?」とトニオが絵具の皿を覗きこんで訊いた。
「名前はない。混ぜて作った色だから。決まった名前のある色じゃないの」
少年は不思議そうに鉢のなかの青を覗き込んだ。
「じゃあ、姉さんが付けたら? 名前」
子どものなんでもない一言だった。けれど、澪はその言葉にふいに胸を突かれた。手が止まった。
名前を付ける。誰かが見つけ呼び書き留めてはじめて色は名を持つ。
ふいにあの壁画の聖母の足もとが目に浮かんだ。刃で削られた絵師の印。あの青には名前を付けた者がいたはずだ。あれほどの青を練り上げ壁に遺した者が。世界にない色を作り壁に置いた名を付ける資格のある、ただひとりの誰か。けれど、その名は誰かの手で消された。色は残り名を付けた者だけが消えた。
名を付ける者を失った色。
「……付ける者を失った色もあるのよ」
澪はそう呟いた。
トニオは意味が分からない、という顔で首をかしげた。それでいい、と澪は思った。この子は意味が分からないほうがいい。この都の消すことでできた仕組みをまだ知らないほうがいい。
*
その夜も澪は石板を拭った。
乾いた絵具の粉が布に色を残す。赤、黄、緑、青。どれもいずれは死ぬ色だ。塗られたそばからゆっくりと褪せ濁りべつの色へ化けていく。彼女が二十年あまり当たり前だと思ってきた理。色は裏切る。人がどれだけ心を込めて塗っても年月のなかで勝手に老いていく。
名を消された絵師。名を持てない自分。名を与えられぬ色。
この都ではいくつもの名が消えたり、奪われたり、はじめから無かったことにされたりしていた。そうやって誰かの上に誰かが立っている。
なのにと澪は思う。
あの壁の青だけは何ひとつ裏切らずにいまもそこに在る。名を削られてなお色だけは残っている。まるで名前など、いらない、とでも言うように。どれほどの歳月を経ているのか見当もつかぬのに、その色にはひとかけらの老いもなかった。
――どうしてあの青だけは。
その問いがその夜も澪を眠らせなかった。膠の匂いのなかで彼女は天井を見上げたまま、あの青のことばかりを考えていた。喉のすぐ奥までその答えが出かかっている。なのに掴めない。まるで忘れた夢の名残のように。
だが掴まねばならなかった。あの青が何なのか。誰があれを作ったのか。
――そしてなぜその名は削られていたのか。
知らずにいればよかったのだ。だがもう遅かった。危うい橋を渡っていると知りながら、それでも明日になれば彼女はまたあの壁の前に立っているだろう。




