第二話 借りものの名
最後に覚えているのは白い光だった。
昼でも夜でもない、まっすぐで影のない光。天井の白い管から降ってくる、あの光だ。鼻を刺す薬剤の匂い。目の前の台には、剥落をとめるために薄い膠を含ませた古い板絵があった。十六世紀のヴェネツィア派の小品。ゼミの課題で彼女がひと月かけて向き合っていた絵だった。
青い衣の聖母。作者は分からない。名も残っていない絵師の小さな一枚。
その衣の青が濁っていた。
アズライトが年月のなかで緑へ傾いたあのよくある濁りだ。剥落は止められる。汚れも落とせる。変色したニスも払える。けれど色そのものが老いてしまったものだけは、どんな手を尽くしても戻らない。ひと月かけて澪が手を焼いていたのはそこだった。この聖母は五百年かけて裏切られたのだ。塗った絵師の心とは関わりなく。
筆の先に神経を集めて、欠けた絵具層のきわを息を殺してなぞっていた――たしかそうだ。
それから指の腹がじかにその濁った青に触れた。
ひどい眩暈がした。床がぐらりと傾いだ。倒れる、と思った。
次に目を開けたとき頬の下にあったのは冷たい石畳だった。
白い光はどこにもなかった。代わりに湿った石の匂いと潮とどこかで燃える獣脂の匂いがした。頭の上で知らない言葉が飛び交っていた。誰かが彼女を覗き込み何かを問うている。けれど、澪にはその一言も解せなかった。ただ恐ろしかった。
なぜ。どうやって。ここがどこなのか。
その問いにこの三月のあいだ、誰ひとり答えてくれなかった。答えられる者などいなかった。問うても言葉が通じないのだから意味がないと悟って、やがて澪は問うことそのものをやめた。
*
最初の数日を彼女がどう生き延びたのか、よく覚えていない。
物乞いのように橋の下にうずくまり、差し出された黒いパンのかけらを犬のように貪った。金の価値もこの街の作法も何ひとつ分からぬまま、市場で果物に手を伸ばして棒で打たれ、夜は船着き場の陰で膝を抱えて震えるよりほかにできることがなかった。運河の水は彼女の知るどの川とも違う匂いがした。汚物と藻と遠い海の匂い。
夜ごと澪はあの白い光の世界を思った。蛇口をひねれば澄んだ水が出た。夜は電灯が昼を追い払った。倒れれば、白い服の人が駆け寄ってきた。あそこでは当たり前だったすべてがここではひとつもない。落差の痛みが飢えよりも深く胸を抉った。
自分はまちがった場所へ来てしまった。それだけが確かだった。
*
行き倒れかけていた彼女を拾ったのはヴィオ工房の老親方だった。
飢えて壁にもたれていた澪が、剥がれかけた壁の漆喰を見るともなしに指でなぞっていた。浮きの境目を無意識に押さえていた。修復の現場で幾百回と繰り返した手つきが、瀕死の指に残っていたのだ。その手つきを通りかかった老親方がじっと見ていたらしい。
死にかけの女が職人の手をしていた。
「言葉は通じんが手は嘘を掴ん」
老親方はそう言って澪にパンと絵具をする仕事を与えた。何を言っているのか、そのときの澪には分からなかった。ただ差し出された乳棒の重みと温かいスープの匂いに涙が出た。指が勝手に乳棒を握った。それだけで老親方はふん、と鼻を鳴らして頷いた。
後にその言葉の意味を知ったとき、彼女はこの偏屈な老人にだけは少しだけ心をゆるした。
*
この都のすべてが澪の知るものと食い違っていた。
水は運河から汲み汚物はその同じ運河へ落とした。人は何日も体を洗わず、病はあっけなく人を攫っていった。彼女のいた世界では、子どもでも知っているはずのことがここでは誰も知らない。逆に彼女がまるで知らぬ作法や祈りが人の生き死にを左右した。
いちばん堪えたのは女であることの重さだった。
澪のいた世界にもそれはあった。けれど、ここでは女が筆を持つ、というだけで人は眉をひそめた。よそ者がしかも女が腕を持っている、ということは賞賛ではなく警戒される理由だった。彼女は腕を隠すことを覚えた。目立たぬよう、下を向くことを覚えた。せっかくの技を宝ではなく、傷のように隠して生きた。
*
名を呼ばれることもなくなった。
澪、と名乗っても老親方の口はその音をうまく結べなかった。ミオ、ミイオ、と何度か試してやがて面倒くさそうに手を振り彼はこう決めた。
「お前はもうレナータだ。ヴィオの工房のレナータ」
レナータ。誰かの祖母か、死んだ娘の名なのかもしれなかった。澪は頷いた。頷くしかなかった。抗う言葉も抗う立場も彼女にはなかった。
借りものの名のなかで生きていくのだ、と彼女は思った。ほんとうの名は誰の口にものぼらないまま、この都の霧のどこかに溶けていく。立花澪という人間がこの世界に存在した証はどこにも残らない。
*
その日、澪は貴族の娘の肖像の背景の空を仕上げていた。
くすんだ空にひと刷毛、わずかに明るい灰を置く。それだけで空気が動いた。絵のなかに夕暮れの直前のあの一瞬の光が宿る。隣で見ていたトニオが小さく息を呑んだのが分かった。うまい、と言いたげな顔だった。澪はほんの少しだけ誇らしかった。
昼を過ぎて絵が乾いたころ、引き取りの男が来た。
注文をまわしてきた工房の若い弟子だった。まだ二十歳そこそこの、筆より口のほうが達者な男。彼は澪の仕上げた板を裏返し表に返し満足げに頷いた。
「相変わらず、いい手だ」と男は言った。「この空の明るみのとり方。……お前さんがやったのか」
「……ええ」澪はうつむいたまま、小さく答えた。
「もったいないな」男は悪びれもせず笑った。「その腕で女でよそ者とは。まあ、そういう星のめぐりだ。……でいくら渡せばいい。親方はいつもの粉挽き賃でいいと」
いい手だ、と男は言った。だが誰の手だ、とは言わなかった。澪の名を訊こうともしなかった。訊く必要がなかったのだ。この絵に名を残すのは彼のほうなのだから。
男は腰に下げた帳面を開き、矢立の筆を舐めて納めの一行を書きつけた。澪の場所からその文字は逆さに見えた。それでも読めた。肖像一枚、某工房・誰それの作。
誰それ、というのはこの若い男の名だった。澪の引いた線も澪の置いた光もその帳面には残らなかった。残ったのはこの絵に筆を一度も入れていない男の名だった。
澪はそれを黙って見ていた。抗議する言葉は持たない。持っていても言えなかった。怒る相手がいないことを彼女はとうに知っている。
*
ふとあの壁画の聖母の足もとで刃に削られていた印を思った。
名を消された絵師。名を持てない自分。刃で消されたか、ならわしで消されるかの違いだけで――名を持てぬ手であることに何の違いもなかった。消す者と消される者。この都は消すことで成り立っているのかもしれなかった。誰かの名を消し誰かの手柄を奪い、それを当たり前として回っていく。
夜、工房の隅で澪は今日すりつぶした絵具を布で拭った。
手のなかのどの色ももう死にかけているように見えた。アズライトはいずれ緑へ淀む。買い手の娘が老いるころには、聖母はくすんだ淀みをまとっているだろう。インディゴは陽に灼かれて消える。鮮やかであればあるほど、それは早く老いる。生まれたそばから死にはじめている色たち。人より先に老いる色。
なのにあの壁の青だけは。
澪は布を握る手を止めた。
あの青だけは裏切らなかった。幾百年を経たとしか思えぬのに、まだ生まれたばかりのように灯っていた。年月のすべてを撥ねのけて。そして――彼女はその青がどこから来るのかを知っているような気がしてならなかった。喉のすぐ奥までその答えが出かかっている。なのに掴めない。
褪せない青を作ることより、その青を作った者を名ごと消すことのほうがよほど手間がかかる。それだけの手間をかけてまで、誰かがあの青とあの名を葬らねばならなかった。
なぜ。
調べずにはいられなかった。それがどれほど危ういことか、まだ何も分かっていないままに。澪は蝋燭を吹き消した。暗がりのなかであの青だけがまぶたの裏でまだ静かに灯っていた。




