第一話 褪せない青
何百年経っても褪せない、奇跡のような青がある。
その作り方を知っているのはこの時代でわたしひとり――五百年のちの未来からこの街へ落ちてきたわたしだけだ。
けれど。その青に触れた者は名前ごとこの世から消されるらしい。
その青を世に出してはならなかった。
教会がそう言い、商人がそう言い、絵師の組合さえそう言った。
だが一五一八年の冬、ひとりの男がその禁を破ろうとしていた。
男は最後のひと刷毛を引いた。
古い堂の壁、聖母の衣に青がのびる。彼が生涯で見たどんな青より深く、そして――彼には分かっていた――これから先の何百年、決して褪せない青だった。アズライトのように緑へ濁ることもない。インディゴのように陽に灼かれて消えることもない。人の手がついに永遠をひとつ練り上げたのだ。
筆を置く手が震えていた。寒さのためではなかった。
外で犬が吠えた。
それから足音。ひとつではない。石畳を踏むいくつもの靴音。揺れる松明の明かりが聖具室のほうから近づいてくる。
男はそれが何の足音か知っていた。いつか来るとずっと思っていたものだった。この青が世に出れば、崩れるものがある。それを守るために彼らは来た。
彼は壁をふり返った。乾ききらぬ青が蝋燭の小さな炎を吸って静かに燃えている。
間に合わなかった、と男は思った。
――いや。間に合った。これはもう壁にある。たとえ自分が消されてもこの青だけはここに残る。いつか誰かが煤と漆喰の下からこれを見つけ出すなら。
扉が叩かれた。一度。二度。
男は蝋燭を吹き消した。
暗がりのなか、彼は最後にもう一度だけその青へ手をのばした。
扉が内側へ倒れた。
――そしてその青が次に人の目に触れるまで人は老い、記録は消え名前は削られた。青だけが残った。
*
潟から這いあがってくる霧が、運河の水面を乳色に沈めていた。鐘楼の影さえ霞むその朝、澪は絵具をすりつぶす石板の前にいた。指の節は冷えきって感覚がない。それでも乳棒を握る手は止めない。手を止めれば、ここに居場所がなくなる。それをこの数日で彼女は身に沁みて知っていた。
ここがどこなのか、まだうまく言葉にできなかった。
知らない言葉の鐘が鳴り、知らない神の名で人が挨拶を交わし、運河の水は彼女の知るどの川とも違う匂いがした。ある朝のことだ。気がつけば、彼女は冷たい石畳の上に倒れていた。絵具と油と修復の薬剤に囲まれて机に向かっていたはずの自分が、次の瞬間にはこの霧の都の隅にいた。なぜどうやってという問いに答えてくれる者はどこにもいなかった。
ただ絵だけが彼女を拾った。
行き倒れかけていたところを見つけたヴィオ工房の老親方が、震える指で壁の剥落を直してみせた彼女の手つきを見て、舌打ちまじりにこう言ったのだ。「言葉は通じんが手は嘘をつかん。置いてやる」と。
彼女の名は通じなかった。澪、と何度繰り返しても老親方の口は別の音にしかならなかった。やがて彼は彼女を工房の名でくくり、洗礼名めかしたひとつの名を与えた。
レナータ・ヴィオ。
この都での彼女の名は彼女のものではなかった。
ヴィオ工房は古びた絵師の仕事場だった。祭壇画の下塗り、貴族の肖像の背景、教会の天井の補修――名のある親方のもとに流れてくる仕事のさらに下を引き受けて糊口をしのいでいる。
澪はその工房でいちばん腕の立つ描き手だった。
そしていちばん名を出せない描き手でもあった。
女だからだ。そのうえどこの者とも知れぬよそ者だからだ。
この都の絵師組合に女の親方はいない。まして東方から流れ着いたという素性の知れぬ女の名が、組合の名簿に載ることは決してなかった。彼女の引いた輪郭は別の誰かの名で納められ、彼女の溶いた色は別の誰かの作品になった。それが当たり前だった。当たり前すぎて怒る相手さえいなかった。
「レナータ姉さん」
工房の隅から十二になるトニオが顔を出した。親方が引き取った見習いの少年でまだ筆も満足に握れない。けれど色の名前を覚えるのだけは早かった。言葉のたどたどしい澪に、誰よりも先に口をきいてくれたのもこの少年だった。
「この緑、きのうより暗くなってる」
「乾いたから。乾くと色は沈む」
澪はまだ拙いこの土地の言葉でひとことずつ区切るように答えた。
「沈んだらもう戻らないの?」
澪は少しだけ手を止めた。
「絵具による。乾いて沈むだけのものもあるし――時とともにまるで別の色に化けてしまうものもある」
アズライトの青がそうだった。買ったときはあれほど深く澄んでいたのに壁に塗られて幾年も経てば、いつのまにか緑がかってくる。古い教会の聖母の衣がどれも妙に淀んだ青をしているのは、そのせいだ。描いた絵師が下手だったのではない。色のほうが絵師より先に老いていくのだ。
色は裏切る。澪はそう思っていた。人がどれだけ心を込めて塗っても、年月のなかで勝手に褪せ濁り化けていく。永遠などというものは絵具のなかには存在しない。
――白い光の下で最後に指が触れたのも、そうやって緑へ傾いてしまった聖母の青だった。
その朝まではそう思っていた。
*
「サン・ロレンツォの旧聖堂だ」
親方のグレゴリオが戸口で外套についた霧の雫を払いながら言った。組合に名を連ねる肥えた赤ら顔の男だ。ヴィオ工房はこの男の下請けで食っている。
「奥の壁の漆喰が落ちてきてな。古い壁画が出てきた。聖堂が修復のために手を入れたいと言っている。下塗りの剥がれを直して欠けたところを埋める。それだけの仕事だ」
それだけの仕事、と彼はくり返した。つまり金にならない、という意味だ。
「親方が腰を痛めています」と澪は言った。「私が行きます」
グレゴリオの眉がわずかに歪んだ。女をそれもよそ者を現場に出すのか、という顔だった。けれど彼は、壁の絵を直せる人間がこの工房にもう一人しかいないことも知っていた。それに――口には出さないがこの男は下手な仕事を憎んでいた。せっかく出てきた古い壁画をまた半端な手で塗り潰されるくらいなら、女の手でもよそ者の手でも確かなほうがましだ。その目はそう言っていた。
「……目立つな」と彼は吐き捨てた。「聖堂の連中に女が筆を持っているところを見られるな。下働きとして入れ。それでいい」
下働き。澪は口の端だけで頷いた。慣れた言葉だった。
サン・ロレンツォの旧聖堂は人の足が絶えて久しい場所だった。新しい聖堂が隣に建ってからは誰も使わなくなった古い堂。湿った石の匂いと何代分もの蝋の煤が空気に染みついている。
奥の壁は足場で覆われていた。落ちた漆喰の下から塗りこめられていたらしい古い壁画が、半分ほど顔を出している。煤と埃にまみれ、何が描かれているのかも判然としない。
澪は蝋燭を掲げ足場をのぼった。
布を湿らせいちばん上の汚れをそっと拭った。
そして――手が止まった。
煤の下から青が現れた。
聖母の衣の青だった。
幾年、塗りこめられて陽の目を見なかったのか見当もつかぬ青。
褪せていなかった。濁ってもいなかった。あのアズライトのように緑へ傾いてもいない――まるで年月のほうがこの青にだけは触れることを許されなかったかのように。
拭いた布のあとから現れたその青はまるで昨日塗られたばかりのように――いや昨日の青よりもなお深く、買ったばかりのアズライトよりもなお澄んで蝋燭のちいさな炎を吸いこみ燃えていた。
それは光の加減でも顔料の良し悪しでもなかった。見ているこちらの時間のほうが止まってしまうような青だった。世界のほうが移ろっていくのにその色だけが動かない。ずっとそこに在りつづけ、これから先もただそこに在りつづけるのだとひと目で分かってしまう青。
澪は息をするのを忘れた。
彼女がこの世で一度も疑わなかったその理を、目の前の青は何ごともなかったかのように踏み越えていた。
この世にこんな青はない。
彼女の知るどの顔料もこうはならない。
なのにここに在る。
――いや。
ちがう。
彼女のなかで何かがひどく静かにけれど確かに身を起こした。違う。この世にこんな青がない、のではない。
わたしはこれを知っている。
いつ、どこでとは言えなかった。けれど指の奥が目の奥が覚えていた。この青が人の手で――奇跡でも秘術でもなく、ただ正しい順序で焼かれ、練られて――生まれるものだということを。それがいまこの都の誰の手にも届かぬということも。
言葉にしようとすると喉の奥が凍りついた。それを口にしたら、自分がどこから来たのかまで言わねばならなくなる。そしてそれを言える相手はこの都にひとりもいない。
誰かがこれを作った。褪せない青を人の手が塗ったのだ。
――これはありえない。なのにわたしだけはありえると知っている。
澪は聖母の衣の裾を追って視線を下げた。絵師は名を残す。隅に小さな印を。
あった。聖母の足もと剥落しかけた漆喰の際に。
だが――その印は潰されていた。
褪せたのでも剥がれたのでもない。誰かが刃物のようなものでそこだけを執拗に削り取っていた。青はそれほどの歳月を越えて残されたのに、それを描いた者の名だけが人の手で消されていた。
澪は自分のことを思った。組合の名簿に女の名は載らない。よそ者の名はなおさら載らない。彼女が溶いた青も別の誰かの作品になり、彼女のほんとうの名はこの都の誰の口にものぼらない。名を消される者の気持ちならいやというほど知っていた。
だがほんとうに恐ろしいのはそこではなかった。
褪せない青を作ることよりも、その青を作った者をこの世から消すことのほうがよほど難しい。なのに誰かがそれをやってのけた。奇跡を壁に塗り込め、その名を刃で削り初めから誰もいなかったことにした。それだけの力を持つ誰かが確かにいた。
――そしてたぶん今も。
その手はまだこの都のどこかで生きている。
蝋燭の火が彼女の指のあいだで揺れた。知らない都の誰も知らない名を着せられた女は、その壁の前からしばらく動くことができなかった。
いま自分が何に触れてしまったのか。まだ知らぬまま。
――名前ごとこの世から消される。その青にわたしはたったいま手を伸ばしたのだった。




