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盃の音

孫二娘でございま〜す。

見てないなら、知らないで済む。

そう思いたい時もあるんだよォ。

けど、店の音は隠してくれない。

盃の重さ。

声の鈍り方。

袋が消える音。

裏の戸が閉まる音。

紙包みには触ってない。

中身も知らない。

それでも耳だけが、十字坡の裏側を覚えちまう。

知らないままでいられる時間は、もう長くないんだよねェ。

部屋に戻っても、店の声は消えなかった。

扉は閉めた。

寝床のそばに座っている。

それでも、外の音は薄くならない。

身なりの良い客の笑い声が、まだ耳に残っている。

大きい声。

厭らしい笑い方。

袋が卓に当たる重い音。

それから、腰の後ろに触れた指。

アタシは膝を抱えたまま、息を詰める。

ふと、前に言い直した時のことを思い出した。

アタシ。

そう出たら、また見られる。

また笑われる。

アタイ――

そう言わないと、またアタシが出てしまうかもしれない。

そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。

違う。

アタイになりたいわけじゃない。

でも、ここでアタシが出ることを、もう怖がっている。

そのことが嫌だった。

触られた場所は、もう痛くない。

最初から痛いほどじゃなかった。

それでも、皮膚の上に残っている。

軽かった。

ほんの少しだった。

だからこそ、嫌だった。

痛ければ怒れたかもしれない。

強く掴まれたなら、怖がれたかもしれない。

でも、あれは軽かった。

軽く触れて、笑って、何もなかったみたいに盃を持った。

その軽さが、体に残っていた。

外で、常連の声がした。

「旦那、もう一杯どうだい」

明るい声だった。

でも、昨日までと違う。

声が笑っていない。

身なりの良い客が答える。

「おお、注げ注げ。酒は悪くない」

まだ元気だった。

声も大きい。

笑い方も変わらない。

ただの客。

ただの酒。

ただの夜。

そう思えばいい。

でも、棚の奥の紙包みが頭から消えない。

触っていない。

開けてもいない。

中身も知らない。

それなのに、父ちゃんの声だけが残っている。

触るな。

まだ早ぇ。

まだ。

その言葉が耳の奥に、こびりついていた。

外で盃を交わす音がする。

さっきより近い気がした。

盃を置く音。

酒を注ぐ音。

卓の上で袋が少し動く音。

お金。

あの袋。

考えたくないのに、そこへ意識が行く。

あの客は、お金を持っている。

父ちゃんも知っている。

常連たちも知っている。

見ていないふりをしているだけ。

知らない。

アタシは知らない。

そう思った時、身なりの良い客の声が、また聞こえた。

「二娘ちゃんは、もう寝たのかい」

喉が詰まる。

また、名前。

部屋にいるのに、呼ばれる。

見えていないのに、見られている気がする。

父ちゃんの声が返る。

「病み上がりだ。休ませてる」

「惜しいねぇ」

客は笑った。

「可愛い娘じゃないか。ああいうのは、店に立たせておくには惜しい」

常連の一人が笑う。

「旦那は目が高い」

その笑いが薄かった。

褒めているようで、褒めていない。

合わせているだけの声。

アタシは布団を握る。

気持ち悪い。

あの客も。

笑っている常連も。

黙っている父ちゃんも。

全部、嫌だった。

でも、誰も怒らない。

誰も声を荒げない。

店は、静かに進んでいる。

外で、父ちゃんが言った。

「酒を足そう」

また盃の音がした。

その音だけ、少し違って聞こえた。

父ちゃんが持った盃の音。

そう思った瞬間、息が止まる。

見ていない。

見えるはずがない。

でも、分かった気がした。

今の盃は、父ちゃんが動かした。

さっきまで常連が注いでいた音とは違う。

アタシが注いだ時とも違う。

父ちゃんの手は、余計な音を立てない。

それが分かるのが嫌だった。

身なりの良い客が笑う。

「お、店主自らか。悪いねぇ」

「遠くから来た客だ。粗末にはできねぇ」

父ちゃんの声は落ち着いていた。

落ち着きすぎていた。

盃が置かれ、酒が注がれる。

少しの間。

それから、客が飲む音。

喉を鳴らす音がした。

アタシは、息を止めていた。

何を聞いているのか分からない。

何を待っているのかも分からない。

ただ、外の音から耳が離れない。

しばらくは何も変わらなかった。

客は喋っている。

常連は相槌を打つ。

父ちゃんは時々短く答える。

袋の音も、まだ卓の上にあった。

重い袋が動くたびに、鈍く鳴る。

それがあるだけで、店の空気が張っている。

身なりの良い客が、また笑った。

「いやァ、今日はついてる。こんな場所で、いい酒と可愛い娘に会えるとはな」

常連が笑う。

「旦那、飲みすぎると明日の旅に障るぜ」

「なに、俺は酒には強い」

そう言って、客はまた盃を置いた。

その音が、少し重かった。

ほんの少し。

でも、耳が拾った。

アタシは布団を掴む指に力を入れる。

違う。

ただ酔っただけだ。

酒を飲んでいるんだから、音が変わるのは当たり前だ。

そう思う。

思おうとする。

外で、客が何か言った。

言葉の終わりが少し曖昧だった。

「それでな、俺は……いや、どこまで話したか」

常連がすぐに答える。

「まだ聞いてねぇよ、旦那」

「そうか。そうだったな」

笑い声。

でも、客の笑いが少し遅れた。

さっきまで一人で先に笑っていたのに。

今は、周りの笑いについていくように遅れる。

喉の奥が冷たくなる。

違う。

ただ酒が回っただけ。

そう思えと、自分に言い聞かせる。

父ちゃんの声がした。

「水を出そうか」

「いらん、いらん。酒だ」

客はそう言った。

でも、声に力が少し足りない。

盃が卓に当たる音。

さっきより鈍い。

袋はまだ鳴らない。

誰も触っていない。

触らないようにしている。

そう思った瞬間、ぞっとした。

なんで、そう思う。

知らない。

アタシは知らない。

外で、椅子が軋んだ。

身なりの良い客が、少し姿勢を崩したのだと分かった。

見ていないのに――

肩が落ちたのか。

肘を卓についたのか。

盃を持つ手が下がったのか。

音だけで、何となく浮かぶ。

嫌だ。

浮かぶな。

常連の一人が言った。

「旦那、少し休んだ方がいいんじゃねぇか」

「休む? 俺が?」

客は笑おうとした。

笑い声が途中で濁った。

「このくらいの酒で……」

言葉が切れる。

少しの沈黙。

父ちゃんの声が、低く入る。

「奥で横になっていきな」

アタシの背筋が固まる。

奥。

その言葉が嫌だった。

部屋の奥。

厨房の奥。

店の奥。

裏口の向こう。

この店には、いくつも奥がある。

どこへ連れていくのか。

どこで休ませるのか。

知らない。

でも、身体が知っている気がする。

客はまだ笑った。

「いや、俺は……まだ……」

椅子が大きく軋む。

誰かが立った。

一人じゃない。

戸口近くにいた常連。

奥の卓にいた男。

身なりの良い客の後ろにいた男。

三つの位置が、同時に動いた気がした。

アタシは息を止める。

店が動いた。

客ではなく、店が……

そんな気がした。

「旦那、こっちだ」

「いいって、俺は……」

身なりの良い客の声は、もう最初の湿った大声ではなかった。

重い。

舌が回っていない。

笑おうとしても、息だけが漏れる。

誰かが肩を支える音。

布が擦れる。

椅子が引かれる。

足が床を擦る。

そして、卓の上で袋が鳴った。

一度だけ。

さっきより近く。

さっきより小さく。

誰かが手に取った音だった。

アタシは目を閉じる。

違う。

聞いていない。

聞こえただけ。

見ていない。

何も見ていない。

外で、常連の声が明るく言う。

「旦那、荷はこっちで持つぜ」

「おお……すまんな……」

身なりの良い客は、もう疑っていない。

いや、疑えない。

その声だった。

喉が詰まる。

父ちゃんの声がした。

「戸を閉めろ」

短い声。

さっきの紙包みの時と同じだった。

触るな。

あの声と同じところから出ている。

店の音が、そこで変わった。

笑い声が消える。

盃の音が止まる。

椅子の軋みだけが残る。

それから、床板が重く鳴った。

一人分じゃない。

支えられている音。

引かれている音。

足が地に着いていないような音。

アタシは布団を握る。

気持ち悪い。

何が起きているのか、まだ分からない。

分からないことにしたい。

でも、分からないまま、音だけが入ってくる。

裏の方で戸が開く音がした。

表の戸じゃない。

もっと奥。

厨房の向こう。

いつもは意識しなかった場所。

その音も分かった。

分かってしまった。

身なりの良い客の声が、少し遠くなる。

「どこへ……」

常連が笑う。

「寝床だよ、旦那」

軽い声。

でも、もう芝居の軽さもない。

終わった後の声だった。

終わった……

そう思ってしまって、息が止まる。

何が終わったのか。

何が始まるのか。

知らない。

知らないはずだ。

父ちゃんの声が低く言った。

「静かにしろ」

誰に向けた声か分からない。

客か。

常連か。

それとも店全体か。

その一言で、音がさらに減った。

戸が閉まる。

重いものが遠ざかる。

袋の音は、もうしない。

アタシは膝を抱えたまま、動けなかった。

袋の音がしない。

それだけが、頭の中に残る。

あれだけ重そうに鳴っていたのに……

卓に当たるたび、お金だと思ったのに……

もう聞こえない。

客の笑い声も聞こえない。

代わりに、厨房の方で水を汲む音がした。

まな板の時とは違う。

酒を注ぐ時とも違う。

後片付けの音だった。

そう思った瞬間、吐き気がした。

違う。

ただ客を休ませただけ。

酔った客を奥へ寝かせただけ。

袋は、預かっただけ。

なくなったわけじゃない。

そう思う。

思おうとする。

でも、父ちゃんの声が聞こえた。

「表はそのままにしろ」

常連の声が答える。

「分かってる」

短い。

もう客のふりをしていない。

そのことが、はっきり分かった。

アタシは耳を塞ごうとした。

でも、手が動かない。

聞きたくない。

でも、聞こえる。

身なりの良い客が座っていた卓の椅子が動く。

盃が片付けられ、酒のこぼれたところを拭く音がする。

店が元に戻されていく。

さっきまで、あの客がいた場所が、何もなかったみたいに。

アタシは息を浅くする。

見ていない。

本当に見ていない。

でも、分かる。

卓の上の袋はない。

客の声もない。

常連たちは、もう笑っていない。

父ちゃんの声も、店主の声ではない。

そして、棚の奥の紙包み。

触っていない。

開けてもいない。

名前も知らない。

なのに、あれが何かと関係している。

そう思ってしまった。

違う。

知らない。

知らない。

アタシは知らない。

そう繰り返す。

外で、父ちゃんの足音がした。

近づいてくる。

扉の前で止まる。

アタシは息を止める。

開くと思った。

でも、扉は開かなかった。

父ちゃんは、向こう側に立ったまま言った。

「寝てろ」

それだけだった。

声は低かった。

怒ってはいない。

優しくもない。

ただ、余計なものを見せないための声だった。

アタシは返事をしない。

できない。

父ちゃんの足音が離れていく。

しばらくして、店に笑い声が戻った。

さっきとは違う笑い声だった。

いつもの常連の笑い声。

酒を飲む音。

盃が鳴る音。

店は、また店の顔をしていた。

それが一番嫌だった。

アタシは布団の中へ手を入れる。

指先が冷たい。

紙包みには触っていない。

身なりの良い客にも、何もしていない。

袋にも触れていない。

ただ、聞いていただけだ。

でも、耳が覚えている。

声が鈍るところ。

盃の音が重くなるところ。

袋が一度だけ鳴るところ。

戸が閉まるところ。

全部、耳の中に残っている。

あの紙包みの中身を、アタシは知らない。

まだ知らない。

でも、知らないままではいられない気がした。

触るな。

まだ早ぇ。

父ちゃんの声が戻る。

まだ。

その言葉が、今度は違って聞こえた。

いつか触るだけじゃない。

いつか見る。

いつか知る。

いつか、同じように店の音を待つ。

そんな気がした。

外では、何事もなかったみたいに酒が注がれている。

身なりの良い客の声だけが、もうどこにもなかった。

それが、一番嫌だった。

孫二娘でございますよォ。

目で見なきゃ、まだ逃げられる。

そう思うだろう?

でもねェ――

十字坡は、音だけでも分かっちまうんだよ。

盃が重くなる。

声が鈍る。

袋が消える。

裏の戸が閉まる。

紙包みの中身を知らなくても、店が何をしたかは耳に残る。

怖いのは、見たことじゃない。

聞いただけで、分かり始めちまうことさ。

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