盃の音
孫二娘でございま〜す。
酒を出して、飯も出して、そのまま泊まれる。
旅人からすりゃ、ずいぶん便利な店だよねェ。
アタイも最初はそう思ったよ。
飲みすぎた客を寝床まで運んで、荷物まで持ってやるなんて、随分と親切じゃないかってさ。
ただねェ。
昼間、父ちゃんに触るなと言われた紙包みが、どうにも頭から離れないんだ。
しかも夜になると、客の盃を置く音まで妙に気になり始めた。
さて――
酒場兼宿屋の「親切」が、どこまで親切なのか見てみようかねェ。
昼を過ぎた頃、店の客が一度途切れた。
昨日は姉ちゃんが来ていたから、父ちゃんと口喧嘩をしながら店を片づけ、客を捌き、ついでに酔っ払いの腕まで捻り上げて帰っていった。
今日は父ちゃん一人なので、店の空気も少しだけ静かだった。
アタシも朝から何度か呼ばれ、空いた盃を下げたり、酒を運んだりしている。
そこまで考えて、嫌なことに気づいた。
酒を運ぶくらいなら、もう「いつもの仕事」として数え始めている。
数日前まで、知らない男の前へ出るだけでも身体を強張らせていたはずなのに、今では客へ酒を出して戻ってくる程度では、自分の中の警報が鳴らない。
「……順応速度、誰が上げていいって言ったのよ」
大学で教える側だった頃なら、環境への適応そのものを悪いものとして説明したりはしなかった。
新しい場所に慣れ、そこで必要な行動を覚えるのは、ごく普通のことだ。
問題は、何に慣れているのかである。
宋代の十字坡で、酒場の娘として客に酒を運ぶ生活へ順応しつつある二十七歳の大学助教なんて、講義の事例に出したら学生より先に大学がざわつく。
「しかも査読通らないでしょうね、これ」
誰に言うでもなく呟き、使い終わった盃を厨房の棚へ戻そうとした時だった。
布巾の陰に、小さな紙包みが見えた。
薄茶色の紙を何度か折り畳み、中に何かを包んでいるらしい。
大きさは手のひらに収まる程度で、見たところ珍しいものでもない。
それなのに、目が止まった。
「……また?」
包丁の時と似ている。
知らないものなのに、身体だけが自分と無関係ではないと判断している。
中身を見たいと思ったわけではない。
ただ、そこにあることが妙に気になって、指先が紙の端へ近づいた。
「触るな」
父ちゃんの声が飛んできた。
手が止まる。
具合を気遣う時とも、客に声をかける時とも違った。
怒鳴ったわけではないのに、こちらの動きを止めることだけを目的にした声だった。
父ちゃんはすぐそばまで来ると、アタシの指と紙包みの間へ手を入れ、それを棚の奥へ押し込んだ。
さらに布巾まで被せられ、紙は見えなくなる。
「何、それ?」
「お前が触るもんじゃねぇ」
「だから何なのよ?」
父ちゃんは答えなかった。
少しの間こちらを見てから、妙に穏やかな顔で言う。
「まだ早ぇ」
血の気が引いた。
触るな、なら分かる。
危ないから、客用だから、薬だからと、理由はいくらでも考えられる。
でも、「まだ早い」は違う。
今は駄目でも、いつかは触る。
そう聞こえる。
「……その言い方、教育計画が存在するみたいで嫌なんだけど?」
「何だそりゃ?」
「こっちの話」
「変なことばっかり言ってねぇで休んでろ」
「病み上がりの娘に包丁持たせた人がそれ言う?」
父ちゃんは一瞬黙った。
「少しだったろ」
「労働量の話じゃない!」
まったく反省していない。
そのまま仕事へ戻っていく背中を睨んだものの、紙包みについてもう一度尋ねる気にはならなかった。
知らない方がいいものだと頭では判断しているのに、部屋へ戻ってからも棚の位置だけが頭に残った。
それで終わればよかった。
夜になり、店へ一人の旅人がやって来た。
部屋にいても声が聞こえるくらい、よく通る大声の男だった。
「いやァ、助かった。この辺じゃ酒を飲ませる店はあっても、寝床まで一緒に出してくれるところがねぇからな」
父ちゃんが答える。
「うちは宿もやってる。泊まりなら部屋は空いてるぜ」
「それを聞いて十字坡まで来たんだよ。酒飲んだあとで宿を探して歩くのも面倒だからな」
男は上機嫌に笑った。
十字坡という地名そのものは、もう客から聞いている。
けれど、この店が少し変わっていることは初めて知った。
酒を飲ませる店も旅人を泊める宿もあるが、この辺りでは、その両方を同じ場所で済ませられる店が珍しいらしい。
「……ワンストップサービスの方向性が不穏なのよ」
布団の上で呟いた。
旅人からすれば便利だろう。
飯を食べて酒を飲み、酔えばそのまま寝床へ行ける。
店から見ても、客を長く留められる。
普通に考えれば、どちらにも都合がいいはずだった。
卓へ何かが置かれ、重い音がした。
袋だと思った瞬間、喉が詰まる。
中身は見えない。
それでも、柔らかい荷物ではなく、硬いものがいくつも詰まった袋が木へ当たった音だと分かった。
たぶん銭だ。
「……音響解析機能まで育たなくていいんだけど」
外では常連の一人が男へ声をかけていた。
「旦那、運がよかったな。ここなら飲み潰れても、そのまま寝られるぜ」
「だから来たんだ。明日の朝にはまた出るからな」
「なら今夜はゆっくり飲みな」
どこにも変なところはない。
それなのに、いつもと違うものが一つあった。
常連たちの座る位置だ。
一人は戸口に近く、もう一人は旅人の後ろ側にいて、別の男は宿の部屋へ続く奥の通路のそばにいる。
ただ座って酒を飲んでいるだけなのに、身体のどこかが座席ではなく「配置」として捉えていた。
「……何を警戒してるのよ、アタシ」
しばらくして父ちゃんが部屋へ来た。
「起きてたか」
「うん」
「泊まりの客が来た。酒を出せるか?」
断ってもいい。
そう分かっているのに、身体はもう立ち上がろうとしていた。
「本当にこの身体、雇用契約どうなってんの?」
「何だよ、雇用って」
「父ちゃんは知らなくていい」
店へ出ると、予想した通り、身なりのいい男が奥の卓に座っていた。
服は新しく、帯も立派で、指には大きな指輪がある。
さっき音を立てた袋は卓の端に置かれていた。
男はアタシを見るなり、目を細めた。
「おお、この娘が噂の二娘ちゃんか」
値踏みするような視線だった。
前世でも男から見られること自体には慣れている。
講義の前列が妙に男子学生で埋まったり、用事もないのに研究室の前を何度も通る学生がいたりした。
妖艶なお姐さん助教などと陰で呼ばれていることも知っていた。
だから視線の意味くらい分かる。
分かるからこそ、嫌なものは嫌だった。
「まだ本調子じゃねぇ。あまり構わんでやってくれ」
父ちゃんが言うと、男は笑う。
「構わんよ。綺麗な娘だと思っただけだ」
アタシは返事をせず、酒を置いた。
その時、男の手が伸びた。
腰の後ろへ、指が軽く触れる。
強く掴まれたわけではない。
ほんの一瞬だったからこそ、何もなかったことにされそうな触れ方だった。
「店に置いとくには惜しい娘だな」
男はもうアタシではなく盃を見ていた。
腹が立つ。
現代なら、自分で言い返すこともできたし、最悪の場合は父という名の破壊神がどこからともなく出現して、相手の人生設計ごと粉砕していただろう。
「……今だけ父を召喚したい」
「何だ?」
「父ちゃんじゃない方」
「俺以外に父親がいるのか?」
「説明が面倒だから飲んでて」
父ちゃんが物凄く怪訝な顔をした。
少しだけ笑いそうになったが、周囲を見て止まる。
常連たちは男の無礼を咎めない。
笑って合わせるわけでもなかった。
ただ、何も起きなかったように酒を飲んでいる。
今は、この男を怒らせない。
そんな空気があった。
「二娘、もう奥へ戻ってろ」
言われて厨房へ下がる。
棚を見る。
布巾の向こうに、昼間の紙包みがある。
見えないのに場所だけは分かる。
――まだ早ぇ。
父ちゃんの声が頭へ戻ってきた。
外では旅人がよく喋っていた。
どこで商売をしたとか、何を売って儲けたとか、誰に顔が利くとか、聞いてもいない自慢話が延々と続く。
常連たちは適当に相槌を打ち、父ちゃんも時々短く返している。
やがて父ちゃんが言った。
「酒を足そう」
盃の動く音がした。
その瞬間、身震いした。
見えていないのに、今の盃を動かしたのが父ちゃんだと分かった。
どうして分かった?
酒が注がれ、男が喉を鳴らす。
最初のうちは何も変わらなかった。
男はまだ喋り続けている。
ところが、しばらくすると盃を置く音が少し重くなった。
「それでな、俺は……いや、どこまで話した?」
常連がすぐ答える。
「まだ聞いてねぇよ、旦那」
「そうだったか?」
男の笑い声が遅れた。
さっきまで自分から先に笑っていたのに、今は周囲が笑ってからついていく。
ただ酔っただけだと考えれば説明できる。
酒を何杯も飲めば、声が鈍ることも反応が遅れることも珍しくない。
「……合理化する材料だけなら、いくらでも出るのよね」
大学では、本人が不都合な情報をどう処理するのかを他人事として説明できた。
今のアタシは、自分で材料を集め、自分を納得させようとしている。
助教自ら実演する講義なんて御免だった。
「水を出そうか?」
父ちゃんが聞く。
「いらん……酒だ」
男の声に、さっきまでの勢いがない。
椅子が軋んだ。
見えないのに、肘を卓へついて身体の重さを預けた姿が浮かんだ。
常連が言う。
「旦那、もう寝た方がいいんじゃねぇか?」
「俺が? このくらいで……」
言葉が途中で切れる。
父ちゃんが続けた。
「部屋は取ってあるんだ。横になっていきな」
それ自体は何もおかしくない。
ここは宿屋でもあるのだから、酔った宿泊客を部屋へ案内し、歩けなければ肩を貸すことだって普通の仕事だ。
なのに、常連たちが同時に立った。
戸口にいた男も、旅人の後ろ側にいた男も、奥の通路近くにいた男も一斉に動き、偶然だと思っていた座る位置がその瞬間に意味を持った。
「……配置まで伏線回収しなくていいのよ」
笑いにしたかったのに、声が震えた。
二人が男の身体を支え、もう一人が卓へ手を伸ばす。
袋が一度だけ鳴った。
「旦那、荷物は持ってくぜ」
「おお……すまんな……」
これも宿なら普通で、歩けない客の荷物を部屋へ運ぶくらい、親切な宿ならやるだろう。
正しいことしか起きていない。
なのに、どうして全員が最初からこの瞬間を待っていたように見えるのか。
男たちが奥へ向かう。
「どこへ……」
「寝床だよ、旦那」
当然の答えだった。
旅人自身が宿泊を頼んでいるのだから、寝床へ連れていかれることに何の不自然さもない。
それでも身体が納得しなかった。
男の声が遠ざかり、奥の戸が閉まる。
しばらくして、水を汲む音が聞こえた。
さっきまで旅人が座っていた卓から盃が下げられ、こぼれた酒が拭かれていく。
袋の音は、もう聞こえない。
アタシは棚を見た。
紙包みには触っていないし、開けてもいないから、中身が何なのかは分からない。
それなのに昼間とは違うものに見えた。
あれは、この店の仕事に使うものだ。
そう思った瞬間、吐き気がした。
「……まだ早いって、そういう意味?」
返事はない。
部屋へ戻ってしばらくすると、父ちゃんの足音が近づき、扉の前で止まった。
戸は開かなかった。
「寝てろ」
それだけ言って、足音が離れていく。
やがて店には笑い声が戻った。
常連たちが酒を飲み、盃を鳴らし、さっきまでと同じ店の顔へ戻っていく。
宿泊客が部屋で眠っているだけなら、何もおかしくない。
朝になれば普通に起きてきて、荷物を持って旅立つかもしれない。
そう考えれば、まともな説明はいくらでも作れた。
なのにアタシの耳は、男の声が鈍っていった順番も、盃を置く音が変わった瞬間も、常連たちが一斉に動いたことも覚えている。
次に同じことが起きたら、今日より早く気づく。
そんな予感がした。
あの紙包みの中身を、アタシはまだ知らない。
でも、いつまでも知らないままではいられないことだけは分かっている。
父ちゃんの言葉がもう一度、耳の奥で響いた。
――まだ早ぇ。
いつか自分もあれに触れ、中身を知る時が来る。
そしてその時には、何に使うものなのかまで身体が先に思い出すのかもしれない。
外では何事もなかったように、また酒が注がれている。
今夜ここへ泊まったはずの男の声だけが、もうどこにも聞こえなかった。
それが、一番嫌だった。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「二娘、父ちゃんに触るなって言われたなら、触らなきゃいいだろ」
「問題はそこじゃねェ! 『まだ早ぇ』って何だい!?」
「そのうち教えるって意味じゃないか?」
「教育内容が怖すぎだろォ!」
酔った客を寝床へ運んで、荷物まで持ってやる。
やってることだけ見れば、普通の宿なんだけどねェ。
「じゃあ何が怖いんだい?」
「全員、動くタイミングが良すぎるんだよォ!」
さて――
朝になったら、あの客は本当に起きてくるのかねェ?
「二娘」
「何?」
「朝まで待てる?」
「姉ちゃん、その聞き方やめてくんねえかァ!」




