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紙包み

孫二娘でございま〜す。

店の声が静かな時ほど、ろくなことはないんだよォ。

酒を出す。

笑って受ける。

客を怒らせない。

常連は散って座る。

父ちゃんは、いつもと違う声を出す。

それだけなら、まだ知らないふりもできた。

けど、棚の奥に紙包みがある。

手が伸びる。

父ちゃんが止める。

触るな、じゃない。

まだ早ぇ。

その一言で、アタイは分かっちまったのさ。

この店には、まだ見ちゃいけない作法があるってねェ。

その夜は、店の声が少し違っていた。

声が大きいわけじゃない。

荒れているわけじゃない。

むしろ、いつもより静かだった。

その静けさで目が開いた。

いつものように、部屋は暗い。

灯りも小さく揺れている。

外では盃の音がする。

酒を注ぐ音もする。

客の笑い声も、少しだけ聞こえる。

でも、いつもの騒がしさとは違った。

笑っているのに、声が伸びない。

盃が鳴るのに、続けて飲む音がしない。

椅子が軋む位置も、いつもと少し違う。

耳が勝手に拾ってしまう。

――嫌だ。

分かりたくない。

布団の中で膝を寄せる。

肩を丸める。

指先が布団を掴む。

外で、父ちゃんの声がした。

「こちらへどうぞ」

息が止まった。

いつもの声じゃなかった。

客に向ける低い声でもない。

アタシに向ける困った声でもない。

少しだけ丁寧で。

少しだけ固い。

その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。

今日は違う。

そう思ってしまった。

すぐに否定する。

知らない。

何が違うのかなんて、知らない。

でも、店の空気が違う。

店の入口の方で、別の男の声がした。

「おお、ここが十字坡の酒場か。思ったより狭いな」

声は大きかった。

よく通る声だった。

でも、太いというより、湿っていた。

笑っているのに、笑い方が嫌だった。

「まあ、酒がうまけりゃ文句は言わんよ」

盃が置かれる音がした。

重そうな袋が、卓に当たる音もした。

お金――

そう思った。

思った瞬間、喉が詰まる。

どうして分かる。

袋の音だけで。

声だけで。

知らないはずなのに……

客席の方で常連の声がした。

「旦那、ここは酒も饅頭も悪くねぇよ」

昨日聞いた声だった。

アタイだろ、と笑った男。

その声が、今日は少し違う。

軽い。

でも、軽すぎる。

芝居をしているみたいだった。

もう一人の声が、戸口の近くで笑う。

「旅の途中なら、ここで腹を満たすのが一番だ」

その位置もおかしい。

戸口。

奥の卓。

新しい客の後ろ。

声が、ばらばらに散っている。

でも、ばらばらなのに、逃げ道を塞いでいるように聞こえた。

身体が先に気付く。

違う。

客じゃない。

そう思いかけて、すぐに消した。

知らない。

そんなこと、アタシは知らない。

床板が鳴った。

父ちゃんの足音が近づいてくる。

扉の前で止まる。

鈍い音を立てて、扉が開く。

父ちゃんが入ってきた。

「起きてたか」

返事はできない。

父ちゃんは、外を少し気にしていた。

アタシを見る時間が短い。

それが嫌だった。

「今日は客がいる」

知っている。

そう思った。

まただ。

外の音で分かっていた。

声で分かっていた。

座っている位置まで、少し浮かんでいた。

父ちゃんは低く言う。

「酒を出せるか」

酒。

その言葉に、身体が動きかける。

嫌だ。

でも、もう手は布団から出ていた。

父ちゃんは、こちらを見て少し黙った。

「無理ならいい」

言うだけ言う。

でも、外ではあの声がしている。

「二娘ちゃんというのは、まだ寝込んでいるのかい?」

声が、部屋の中まで入ってきた。

二娘ちゃん。

その呼び方が、今までの客よりも嫌だった。

軽い。

馴れ馴れしい。

知っているふりをしている。

父ちゃんの目が少しだけ細くなる。

「病み上がりでね」

「そうかい。だが、看板娘なら顔くらい見せてもらいたいものだな」

笑い声。

喉の奥が詰まる。

看板娘。

また、その言葉。

アタシは知らない。

その客も知らない。

顔を見せる理由なんてない。

でも、身体はもう立っていた。

昨日より、立つのが早かった。

それが嫌だった。

部屋を出る。

店の空気が、肌に触れた。

酒。

煙。

饅頭を蒸す湯気。

濡れた木の匂い。

古い油の匂い。

その中に、違う匂いがあった。

香の匂い。

身なりの良い客は、奥の卓に座っていた。

服は新しい。

帯も厚い。

指には大きな指輪がある。

腰の袋は、卓の上に置かれていた。

重そうだった。

でも、きれいには見えなかった。

襟元が少し開いている。

盃を持つ指に、妙な力が入っている。

笑うたびに、歯の隙間が見える。

酒を飲む前から、もう酔っているような顔だった。

その客は、アタシを見ると、目を細めた。

品定めする目。

肉でも見るみたいに。

器でも見るみたいに。

値のつくものを見るみたいに。

「これが二娘ちゃんかい」

声が柔らかかった。

柔らかいのに、気持ち悪かった。

父ちゃんは笑わない。

「まだ本調子じゃねぇ。茶化さないでやってくれ」

「茶化さんよ。ただ、いい娘だと思っただけだ」

客はそう言って、また笑った。

常連たちは、笑っている。

でも、誰も大きくは笑わない。

一人は戸口の近く。

一人は奥の卓。

もう一人は、身なりの良い客の背中側。

盃を持っているのに、あまり減っていない。

それに気付いた瞬間、背筋が冷えた。

この人たちは、飲んでいない。

飲んでいるふりをしている。

父ちゃんは、彼らを見なかった。

見ないのに、分かっているようだった。

「二娘」

父ちゃんが短く呼ぶ。

身体が反応する。

「酒を」

言われる前に、足が厨房へ向きかけた。

嫌だ。

違う。

まだ聞いていない。

でも、もう分かっていた。

酒甕。

盃。

柄杓。

布巾。

厨房へ入る。

火の近くは暖かい。

昨日より、その暖かさをすぐに拾ってしまう。

棚を見る。

盃は三つではなく、一つでいい。

あの客の分だけ。

そう思った自分に、息が止まる。

何で分かる。

父ちゃんが言っていないのに。

手が盃を取る。

こぼさずに、酒を注ぐ。

身なりの良い客のところへ持っていく。

客は盃を受け取る前に、アタシの手を見た。

「細い手だね」

声が嫌だった。

手を見る目ではなかった。

アタシは盃を卓に置き、一歩下がろうとする。

その時、客の手が伸びた。

肩ではなかった。

腕でもなかった。

腰の後ろに、指が触れた。

軽い。

ほんの少し。

でも、身体が止まった。

「店に置いておくには、惜しい娘だ」

客は笑っていた。

乱暴ではない。

声も荒くない。

だから余計に気持ち悪かった。

父ちゃんの目が、少しだけ細くなる。

常連の一人が盃を置いた。

戸口の近くの男は、外を見た。

誰も声を荒げない。

その沈黙で、さらに嫌になる。

今は、この客を怒らせない。

そういう空気だった。

違う。

病み上がりだからじゃない。

怖いからでもない。

触られたくないからだ。

そう思ったのに、声は出なかった。

父ちゃんが低く言う。

「二娘。奥へ行け」

その言葉に、身体が動いた。

また、勝手に。

厨房へ戻る。

手が震えている。

でも、盃は落とさなかった。

棚へ戻そうとして、視線が止まる。

棚の奥。

布巾の陰。

酒甕の横。

小さな紙包みがあった。

白くもない。

古い紙。

何かを包んで、細く折ってある。

見たことはない。

ないはずだった。

でも、目がそこに吸われた。

手が伸びる。

触る気はなかった。

ただ、何か分からなくて。

そこにあることが気持ち悪くて。

指先が紙の端へ近づく。

その瞬間――

「触るな」

父ちゃんの声が飛んだ。

身体が固まる。

今までの声とは違った。

困っていない。

気遣ってもいない。

客へ向ける声でもない。

短い。

硬い。

切るような声。

喉が詰まる。

父ちゃんはすぐ近くにいた。

いつ来たのか分からなかった。

アタシの手と紙包みの間に、父ちゃんの手が入る。

紙包みを取る。

素早かった。

父ちゃんはそれを棚の奥へ押し込む。

布の下へ隠す。

もう見えない。

でも、さっきまであった場所だけが、目に残っている。

父ちゃんはアタシを見る。

「それは、お前が触るもんじゃねぇ」

返せない。

触っていない。

開けてもいない。

中身も知らない。

なのに、怒られた。

いや。

怒られたのとは違う。

止められた。

本気で……

父ちゃんは少し黙った。

客席から、身なりの良い客の笑い声が聞こえる。

「酒が遅いねぇ」

常連の声がすぐに返る。

「まあまあ、旦那。急くほど酒は逃げねぇよ」

その声も、いつもと違う。

引き延ばしている。

そう思った。

思ってしまった。

胸の奥が冷える。

父ちゃんは外へ目をやらない。

ただ、アタシに言う。

「まだ早ぇ」

息が止まった。

まだ――

触るな、ではなかった。

まだ早い。

その言葉が、嫌だった。

いつか触るものみたいだった。

いつか知るものみたいだった。

アタシは紙包みのあった棚を見る。

もう見えない。

でも、指先は、さっき伸びかけた形のままだった。

父ちゃんは、アタシの手を見る。

それから、少しだけ声を落とした。

「奥にいろ。呼ぶまで出るな」

呼ぶまで――

まただ。

アタシは自分で動きたいのに。

自分で決めたいのに。

呼ばれる。

出る。

戻る。

触るなと言われる。

全部、外から決められていく。

父ちゃんは先に店へ戻った。

厨房に一人になる。

外の声が続く。

身なりの良い客が笑う。

常連たちが合わせて笑う。

盃が鳴る。

椅子が少し軋む。

でも、その音の下に、別のものがある。

待っている。

店が、何かを待っている。

そう思った瞬間、息が浅くなった。

違う。

知らない。

そんなこと、アタシは知らない。

でも、さっきの紙包みが頭から消えない。

小さくて、軽そうな古い紙。

中身は分からない。

分からないのに、触ってはいけないものだと分かった。

それなのに、手は伸びた。

アタシは手を胸の前で握る。

紙には触っていない。

なのに、指先に紙の乾いた感触が残っている気がした。

触るな――

父ちゃんの声が残る。

それから、もう一つ。

まだ早ぇ――

まだ。

その一文字が、ずっと耳の奥に残った。

部屋へ戻る途中、店の方を一度だけ見てしまう。

身なりの良い客は、まだ笑っていた。

腰の袋は卓の上にある。

父ちゃんはそれを見ていない。

常連たちも見ていない。

見ていないのに、誰もがその場所を知っているみたいだった。

アタシは目を逸らす。

知らない。

あの客も。

あの袋も。

あの常連たちも。

あの紙包みも。

知らない。

そう思う。

でも、身体のどこかが、今日の店の段取りを知っている。

客を座らせる場所。

常連たちの位置。

酒を出すタイミング。

棚の奥の紙包み。

そして。

触ってはいけないもの。

まだ触ってはいけないもの。

部屋に戻り、扉を閉める。

外の声は、すぐには遠くならなかった。

身なりの良い客の笑い声。

父ちゃんの低い声。

常連たちの薄い笑い。

店はまだ動いている。

アタシは布団のそばに座り込む。

指を見る。

紙には触っていない。

でも、指が覚えている。

伸びかけた角度。

止められた瞬間。

父ちゃんの声。

触るな。

まだ早ぇ。

まだ。

それが一番嫌だった。

孫二娘でございますよォ。

紙包みの中身なんて、まだ見てない。

触ってもいない。

けどねェ――

父ちゃんの声で分かることもあるんだよ。

あれは、ただ隠してある物じゃない。

店を回すために、いつか覚えさせられる物だ。

怖いのは、中身を知った時じゃない。

まだ早ぇ、と言われた時さ。

その先に、自分の順番があるって分かっちまうからねェ。

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