姉ちゃん
孫二娘でございま〜す。
今さらなんだけど、「二娘」ってことは、一人目がいるんだよねェ。
アタイはそこまで頭が回ってなかったんだけど、十字坡にはちゃんといたよ。
嫁に行ったくせに数日おきに実家へ戻ってきて、父ちゃんと喧嘩しながら店を回す、とんでもなく元気な姉ちゃんがさ。
現代にも姉さんはいたけど、顔も声も性格もまるで違う。
だったら他人だと思えばいい――はずなのに、困ったことに身体の方はそう思ってくれなかったんだよォ。
さて――
知らない女を身体だけが「姉ちゃん」だと知っていたら、どうする?
朝、女の笑い声で目が覚めた。
客の声ではなかった。
店の奥まで遠慮なく響き、孫元が何か言うたびに「だったら自分でやりな」と即座に返している。
声の調子だけなら喧嘩なのに、食器を動かす音も厨房を歩き回る足音も止まらない。
しかも、その足音を聞いた瞬間だった。
身体から力が抜けた。
「……何で安心したの、今?」
布団の上で額を押さえる。
知らない女だ。
声を聞いた覚えなどないのに、身体は客でも侵入者でもないと判断していた。
知覚学習だの予測処理だの、昨日までは音を聞き分けられること自体が怖かった。
今度は、声の主を知らないのに安全判定だけ通っている。
「認証システム、本人を置いて先に進まないでくれる?」
外から豪快な笑い声が返ってきた。
「二娘、起きてんのかい!」
自分の名前を呼ばれて肩が跳ねる。
その直後、こちらへ近づいてくる足音がした。
速い。
孫元より軽いのに歩幅があり、迷わずこの部屋へ向かっている。
戸が開いた。
「やっぱり起きてるじゃないか」
入ってきたのは、今のアタシより少し年上に見える若い女だった。
派手な装いではないし、髪もきっちりまとめているのに、妙に存在感がある。
というより、強そうだった。
腕まくりした袖から出た腕は細すぎず、手には仕事慣れした硬さが見える。
腰の据わり方も普通の町娘とは違い、戸口に立っているだけなのに、酔っ払いが三人くらい突っ込んできてもまとめて外へ放り出しそうだった。
女はアタシを見るなり眉を寄せ、ずかずか入ってくる。
「父ちゃんから聞いたよ。熱出してぶっ倒れたあげく、頭までおかしくしたんだって?」
「説明が雑すぎない?」
「あ、喋れるなら大丈夫だね」
「何を基準に判定してるのよ」
女は笑いながら、いきなりアタシの額へ手を当てた。
避けようと思ったが、遅かった――いや、違う。
身体が避けなかった。
知らない人間に顔の近くまで手を伸ばされたのに、肩すら強張らない。
「熱はないね」
「……誰?」
女の手が止まった。
一瞬だけ、顔から笑いが消える。
その表情を見て、胸の奥が痛んだ。
どうして痛むのか分からない。
その人を知らないのに、傷つけたという感覚だけが先に来る。
女はしばらくアタシを見たあと、大きく息を吐いた。
「本当に忘れてんのかい?」
返せなかった。
戸口の向こうから孫元の声が飛んでくる。
「だから言ったろ!」
「父ちゃんの言うことを全部信じてたら、三日に一回は騙されるだろ!」
「俺はそんなに信用ねぇのか!」
「自覚なかったのかい!」
何なの、この親子……
女は腰へ手を当てたまま、改めてアタシを指さした。
「あたいはあんたの姉ちゃんだよ」
頭の中で言葉が止まった。
姉――
その呼び名には、別の顔がある。
三十歳の姉さん。
現代で、仕事ばかりして夕飯を抜くアタシに電話を寄越して、「ちゃんと食べなさい」「帰ったら連絡しなさい」と言っていた人。
面倒だと思うことも、うるさいと思うこともあった。
それでも、アタシが知っている姉はあの人だ。
目の前の女ではない。
「……姉、ちゃん?」
「そう、孫家の大娘。あんたが二娘なのは、あたいが先にいるからだよ」
「そこ、そういう命名方式だったの?」
「何言ってんだい?」
頭を抱えたくなった。
孫二娘という名前を聞いた時点で、少しくらい疑問に思うべきだったのかもしれない。
二娘がいるなら一人目はどこだという、ごく単純な話だ。
その答えが今、目の前で腕を組んでいる。
「何で、いつもいないの?」
「ああ、嫁に行ってるからね。だから毎日はいないよ。数日おきに手が空いた時だけね」
「嫁に行った娘を数日おきに働かせる店って、労働環境どうなってんの?」
外から孫元が怒鳴った。
「勝手に来てんだろうが!」
「父ちゃん一人に任せると店が汚れるんだよ!」
「掃除してるわ!」
「見えるところだけね!」
アタシは額を押さえた。
昨日までホラーだったはずの十字坡へ、急に別ジャンルの女が殴り込んできた気がする……
大娘はアタシの顔を覗き込むと、「まあ、立てるようにはなったみたいだね」と言い、そのまま手を差し出した。
「店、見るかい?」
「何で?」
「何でって、あたいが来た時は一緒にやってただろ」
またそれだ。
みんなが知っている二娘の話なのに、その十七年間を知らないのはアタシだけだった。
断るつもりだったのに、大娘が踵を返した瞬間、足が布団から下りた。
「……もう驚かないからね」
立ち上がりながら言う。
「何が?」
「こっちの話!」
厨房へ出ると、昨日とは空気が違っていた。
孫元一人の時より動きが速い。
大娘は卓を拭きながら客の注文を拾い、空いた器を片手でまとめて厨房へ運ぶ。
途中で酒甕が邪魔になれば、両腕で抱えるどころか腰を落として一気に位置を変えた。
「ちょっと待って。普通に力強くない?」
「何がだい?」
「姉ちゃん、見た目より腕力あるわね」
「今さら何言ってんだい」
そこへ酔った客が笑いながら、大娘の肩へ手を伸ばした。
「大娘、嫁に行ってから色っぽく――」
最後まで言えなかった。
大娘は振り返りもせず、その手首を掴むと、身体を少し捻っただけだった。
男の上半身が卓へ沈む。
「痛ぇ痛ぇ痛ぇ!」
「嫁に行った女に触るなら、まず亭主に許可もらってきな?」
「離せって!」
「返事は?」
「すみません!」
手を離すと、男は涙目で腕を抱え、大娘は何事もなかったように器を重ねた。
誰も驚いていない。
「……十字坡の女性陣、戦闘力を標準装備する決まりでもあるの?」
「また変なこと言ってるね」
孫元が横から口を挟む。
「大娘は昔からああだ」
「父ちゃん、そこ誇らしげに言うところ?」
「二娘も大概だったぞ?」
聞きたくなかった情報が追加された。
アタシは無言で孫元を見る。
孫元もこちらを見る。
「何だ?」
「今の発言、記憶から削除して」
「無茶言うな」
男子学生に囲まれていた頃なら、腕力でどうにかする必要なんてなかった。
前列へ集まってくる学生を「後ろまでマイク通ってるけど?」で散らし、研究室の前を意味もなく往復する男子には「用がないなら帰りなさい」で済んだ。
それでも懲りない男がいたら、最終兵器として父がいた。
あの破壊神なら、大娘とは別方向で相手を消し飛ばしただろう。
「……男除けの戦力だけなら、現代より充実してる気がしてきた」
「二娘、ぼさっとしてないで、その鉢取って」
大娘の声が飛んだ。
考えるより先に手が伸びる。
棚の下段から鉢を一つ抜き、大娘の右側へ差し出した。
受け取った大娘は、そのまま刻んだ菜を放り込む。
二人とも動きを止め、「……あれ?」と声が重なった。
大娘は鉢を見て、アタシは自分の手を見る。
「何でこれ取ったの?」
「あたいが聞きたいよ」
棚には似たような鉢が三つあった。
大娘は「その鉢」としか言っていない。
それなのに身体は迷わなかった。
しかも、渡した位置まで自然だった。
大娘が右手を伸ばす場所へ、ちょうど収まるように差し出していた。
「前もそれ使ってたよ」
「前?」
「あんたと一緒に仕込みする時さ。あたいが刻んで、あんたが混ぜる。鉢はいつもそれだ」
胸が詰まった。
包丁や布の場所だけではなく、今度は姉との仕事の分担まで身体が知っていた。
「……共同作業まで手続き記憶に入ってるの?」
「何だって?」
「心理学的には説明できる。できるけど、説明できるから怖くないとは一言も言ってないのよ」
大娘が心配そうに覗き込んでくる。
その顔を見た瞬間、また胸の奥が妙にざわついた。
現代の姉さんとは似ていない。
声も顔も違うし、話し方や性格なんて、むしろ正反対に近い。
それなのに、この女が横に立っている状況を身体だけは知っている。
大娘が菜を刻む横でアタシが鉢を押さえていると、量が増えたところで、何も言われないうちに手が少し鉢を傾けた。
大娘の包丁が止まった。
「そこまで覚えてるじゃないか」
「覚えてない」
「でも手が――」
「覚えてないってば!」
声が強くなると、大娘は黙った。
怒らせたと思ったのに、彼女はしばらくこちらを見てから、何でもない顔で包丁を再び動かした。
「なら、今はそれでいいよ」
その一言が、逆に困った。
無理に思い出せとも、昔のお前はこうだったと押しつけてもこないで、ただできたことだけを受け取っている。
そういうところまで父ちゃんと同じだから、余計に逃げにくい。
「……家族全員、心理的圧力のかけ方がナチュラルすぎない?」
「何の話だい?」
「姉ちゃんは知らなくていい」
「その言い方は前からだね」
また一つ、「前から」が増えた。
二娘らしい言葉も、手の動きも、姉との距離まで、自分では覚えたつもりのないものを周囲から一つずつ返されている。
夕方近くになると、大娘は帰る支度を始めた。
「また何日かしたら来るよ」
「また来るの?」
「何だい、その嫌そうな顔は」
「嫌とは言ってない」
「顔が言ってるよ」
大娘は笑い、アタシの額を指で軽く弾いた。
避けられなかった。
今度は身体のせいではない。
少しだけ、避けなくてもいいと思ったからだ。
そのことに気づくと、胸の奥がざわついた。
大娘は戸口まで行ったところで振り返る。
「二娘」
「何?」
「包丁、持てたんだって?」
孫元を睨む。
「父ちゃん!」
「俺じゃねぇ! 客が喋った!」
「個人情報の概念が死んでる!」
大娘が腹を抱えて笑った。
「だったら、すぐ元通りだね」
その言葉だけで笑えなくなった。
「元通り」という言葉は昨日も聞いたのに、今日は客だけではなく、姉まで同じことを言う。
けれど大娘は、アタシの顔が変わったことに気づいたらしい。
「……何だい?」
「何でもない」
また自然に答えた。
大娘は少し首を傾げたあと、「じゃあね」と手を振って出ていった。
戸が閉まると、店が急に静かになった気がした。
アタシは厨房に残り、さっき使った鉢を見る。
三つ並んだ鉢を見れば、どれを大娘が使い、どちら側へ渡せば受け取りやすいのか、もう分かってしまう。
次に来た時も、何も言われないまま同じように動けそうなことが怖かった。
知らない女だったはずなのに、数時間一緒にいただけで「姉ちゃん」と呼べるようになっている。
いや、本当に数時間だけなのか?
少なくとも身体にとっては違う。
十七年のどこかで何度も隣に立ち、同じ仕事をして、同じ鉢を渡してきた時間があるのに、それを知らないのはアタシだけだ。
現代の姉さんとの三十年近い記憶は、ちゃんとアタシの中にある。
それなのに、別の姉との時間まで身体の中から出てくる。
どちらが本物かなんて考えたくも、比べたくもない。
なのに、次に大娘が来た時、また身体が先に振り向く気がした。
その予感だけは、もう外れない気がしていた。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「……姉ちゃん、何で初回からそんなに馴染んでんの?」
「姉妹なんだから当たり前だろ?」
「その当たり前をアタイだけ知らないのよ!」
鉢を渡せば位置までぴったり、仕込みを始めりゃ昔の分担まで勝手に再現。
どうやら姉妹ってのは、記憶を失くしても連携だけ残るらしいよォ。
「便利じゃないか」
「当事者の同意を取ってから便利って言って!」
「でも二娘、あたいが来れば店も楽になるだろ?」
「父ちゃんより戦力になるのは認める」
「よし」
「そこで勝ち誇るな!」
さて――
次に姉ちゃんが来た時、アタイは何も言われずどこまで動けるんだろうねェ?
「働けるなら働きな」
「ホラーを家業で処理するな!」




