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包丁

孫二娘でございま〜す。

酒を注ぐ手より、包丁を持つ手の方が怖いこともあるんだよォ。

肉を押さえる。

刃を入れる。

同じ大きさに刻む。

布巾で拭く。

知らないはずなのに、手は迷わない。

客は饅頭を待っている。

父ちゃんは店を回している。

その間で、アタイの手だけが先に二娘へ戻っていくのさ。

店の音で目が覚めた。

盃でも、椅子でもない。

もっと低い音だった。

木の台を叩く音。

何かを置く音。

水を汲む音。

それから、包丁がまな板へ当たる音。

一度。

二度。

間が空いて、また鳴る。

目を開けたまま、息を止める。

音の場所は分かった。

厨房だ。

――嫌だ。

分かりたくなかった。

布団の中で膝を寄せる。

肩を丸める。

指先が布を掴む。

部屋の外では、もう店が動いている。

客の声もする。

父ちゃんの声もする。

酒を注ぐ音も混じっている。

昨日より、近く聞こえた。

耳が勝手に分けている。

どれが客で。

どれが父ちゃんで。

どれが厨房の音なのか。

分かるたびに、胸の奥が冷えていく。

「孫元さん、饅頭はあるかい?」

外から声がした。

饅頭――

その言葉に、喉が詰まる。

食べ物の名前だ。

ただの食べ物の名前のはずだ。

なのに、体の奥が先に強張った。

父ちゃんの声が返る。

「待ってろ。まだ具ができてねぇ」

具……

今度は、その言葉が残った。

饅頭。

具。

厨房。

包丁。

頭の中で、勝手につながりかける。

やめて。

そう思った時、床板が鳴った。

父ちゃんの足音だった。

近づいてくる。

扉の前で止まる。

いつものように鈍い音を立てて、扉が開く。

父ちゃんが入ってきた。

「起きてたか」

返事はできない。

父ちゃんは、こちらを見て少し困った顔をした。

「今日は客が多い」

分かっている。

そう思ってしまった。

外の音で、もう分かっていた。

客が多い。

卓が埋まっている。

酒も出ている。

厨房が詰まっている。

そんなことまで浮かんだ。

知らないはずなのに……

父ちゃんは少し言いにくそうに視線を落とす。

「少しだけ、手伝えるか」

また、少しだけ。

その言い方が嫌だった。

少しだけ。

顔だけ。

酒だけ。

今度は、何。

父ちゃんは続けた。

「饅頭の具を刻むだけでいい」

息が止まった。

具――

もう一度、その言葉が来た。

父ちゃんは慌てたように言う。

「無理ならいい。包丁を持てねぇなら、こっちでやる」

包丁。

布団を握る指に力が入る。

包丁なら知っている。

知っているはずだった。

でも、今、外で鳴っている音は、アタシの知っている包丁の音じゃなかった。

台に当たる重さ。

刃が沈む間。

一度で切りきらず、押して引く音。

料理の音なのに、妙に近い。

怖い。

父ちゃんは近づいてこない。

「嫌なら寝てろ」

そう言った。

本当にそう言った。

なのに、外から客の声が入ってくる。

「二娘ちゃん、今日は出てこねぇのかい?」

「饅頭、あの子が刻むと細かくていいんだよなァ」

笑い声。

悪気のない声。

まただ。

アタシの知らない二娘が、外で勝手に働いている。

酒を注ぐ二娘。

客の前に出る二娘。

アタイと言う二娘。

今度は、具を刻む二娘。

胸の奥が気持ち悪くなる。

父ちゃんが外へ向かって低く言った。

「騒ぐな。病み上がりだ」

病み上がり。

その言葉も、もう聞き慣れそうになっている。

嫌だ。

父ちゃんは、こちらを見る。

「二娘」

その名前に肩が固まる。

「本当に無理ならいい」

でも、体はもう布団から手を出していた。

違う。

まだ行くと決めていない。

手伝うなんて言っていない。

そう思うのに、手をつく場所が分かる。

足を下ろす位置も分かる。

壁までの距離も分かる。

立つ。

昨日より、膝が耐えた。

それが嫌だった。

父ちゃんは何も言わない。

ただ、少しだけ戸口を広く開けた。

通れるように。

それも嫌だった。

外へ出る。

店の空気が来る。

酒。

煙。

煮えた湯。

人の吐息。

濡れた木の匂い。

その奥に、肉の匂いがあった。

息が止まりかける。

ただの肉だ。

そう思う。

思おうとする。

厨房へ目を向けた。

まな板の上に、塊が置かれている。

赤黒い。

脂が白く混じっている。

端が少し乾いている。

何の肉かは、分からない。

分からなくていい。

分かりたくない。

父ちゃんが横から言う。

「細かく刻むだけだ。饅頭に詰める」

客の声が飛ぶ。

「二娘ちゃん、頼むよ」

「腹減ってんだ」

アタシは返せない。

でも、足は厨房へ向かった。

誰も押していない。

誰も手を引いていない。

自分で歩いている。

包丁は、台の右側にあった。

見る前から、そこにある気がしていた。

手が伸びる。

柄に触れる。

冷たい。

その瞬間、指が勝手に位置を決めた。

親指。

人差し指。

残りの指。

握り直さなくていい。

最初から、そこに収まった。

息が詰まる。

違う。

ただ包丁を持っただけだ。

でも、手が落ち着いていた。

落ち着くな。

そう思うのに、刃の重さが手の中で馴染んでいく。

父ちゃんが黙って見ている。

客も見ている。

見ないでほしい。

まな板の上の肉へ視線が落ちる。

押さえる手の位置が分かった。

刃を入れる角度も分かった。

最初にどこを切ればいいのかも、手が知っていた。

嫌だ。

知らない。

こんなの知らない。

でも、左手が肉を押さえた。

ぬるい。

指の腹に脂がつく。

包丁が入る。

思ったより、抵抗があった。

けれど、刃は止まらなかった。

押す。

少し引く。

また押す。

筋を避ける。

硬いところは角度を変える。

脂の多い部分は、細かくする。

全部、手が先にやった。

アタシはただ、それを見ていた。

包丁がまな板を叩く。

さっきまで布団の中で聞いていた音。

今度は、自分の手が鳴らしている。

胸の奥が冷たくなる。

父ちゃんが低く言った。

「……できるな」

言わないで。

そう思った。

できる、なんて言わないでほしかった。

客が笑う。

「ほらな。二娘ちゃんは手際がいい」

違う。

手際じゃない。

アタシじゃない。

そう思うのに、包丁は止まらない。

肉は細かくなっていく。

同じくらいの大きさに揃っていく。

饅頭に詰めやすいように。

そんなことまで分かる。

嫌だ。

父ちゃんが近くの器を差し出した。

「そこへ入れろ」

言われる前に、手は器の方を見ていた。

刻んだ肉を寄せる。

刃の腹で集める。

落とさないように移す。

その動きも、迷わない。

指先に脂が残る。

包丁の柄にも少しつく。

拭く布の場所が分かる。

拭いた。

拭いてしまった。

父ちゃんが、それを見ていた。

何か言いかけて、やめた。

その沈黙が嫌だった。

褒められるのも嫌だ。

安心されるのも嫌だ。

何も言われないのも嫌だ。

客の声がした。

「もうできるかい?」

父ちゃんが答える。

「少し待て」

それからアタシを見る。

「もういい。奥へ戻ってろ」

奥へ。

その言葉に、体が動いた。

包丁を置こうとした。

でも、指がすぐには離れなかった。

柄の重さ。

刃の向き。

手の中に収まる感じ。

それが、変に残る。

落ち着く。

そう思った瞬間、息が止まった。

違う。

落ち着いたんじゃない。

手が覚えていただけだ。

そう思おうとする。

でも、その手はアタシの手だった。

包丁を置く。

指を開くのに、少し時間がかかった。

父ちゃんが気付いたかどうかは分からない。

アタシは厨房を出る。

客の横を通る。

「二娘ちゃん、助かったよ」

「すぐ元通りだな」

元通り。

その言葉が背中に刺さる。

違う。

戻ってない。

戻ってなんかいない。

部屋へ戻る。

扉を閉める。

外では、厨房の音が続いている。

饅頭を包む声。

蒸す準備の音。

客の笑い声。

酒を飲む音。

店は止まらない。

アタシは布団のそばに座り込む。

手を見る。

指先に、まだ脂の感触が残っている。

洗ったわけじゃない。

拭いただけだ。

匂いも、少し残っている気がした。

肉。

ただの肉。

そう思う。

それ以上は考えない。

何の肉かなんて、考えない。

考えたくない。

でも、考えないまま刻めた。

包丁を握れた。

肉を押さえられた。

同じ大きさに切れた。

器へ移せた。

布で刃を拭けた。

一つも迷わなかった。

アタシは手を布団の中へ隠す。

見たくなかった。

でも、手の感覚は消えない。

柄の硬さ。

刃の重さ。

肉のぬるさ。

まな板を叩く音。

全部、手の中に残っている。

知らない。

こんな包丁も。

こんな肉も。

こんな店も。

こんな自分も。

知らない。

そう思うのに、外では客が笑っている。

「饅頭、まだかい?」

父ちゃんの声が返る。

「もうすぐだ」

もうすぐ。

アタシの刻んだ具が、饅頭になる。

客が食べる。

店は回る。

二娘ちゃんは、やっぱり手際がいい。

きっと、そう言われる。

喉の奥が詰まる。

酒を注いだ時より、もっと嫌だった。

アタイと言い直した時より、もっと近かった。

手が覚えていた。

口より先に。

足より先に。

包丁を持つ手が。

それが、一番嫌だった。

孫二娘でございますよォ。

包丁ってのは、怖いねェ。

握るだけなら、まだいい。

本当に嫌なのは、刃の重さに手が馴染むことさ。

肉を刻む。

具を作る。

饅頭になる。

客が食う。

店が回る。

その流れの中に、自分の手がちゃんと入っている。

知らないと言い張っても、手はもう知ってるんだよォ。

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