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手が覚えている

孫二娘でございま〜す。


酒を注げて、一人称まで直せたんだから、次はもう少し平和な仕事が来ると思うだろ?

アタイもそう思いたかったよォ。


ところが十字坡って場所は、病み上がりの看板娘に包丁を渡してくる。

しかも困ったことに、持ち方を教わる必要すらなかったんだ。

心理学者だったアタイの頭は全力で怖がってるのに、手だけは妙に落ち着いてやがる。


こういう時、「身体が覚えている」って便利な言葉だねェ。

本人にとって便利かどうかは、誰も聞いちゃくれないけどさ。


さて――

知らないはずの包丁が、手に馴染んだらどうする?

店の音で目が覚めた。

昨日まで耳についたのは、盃が触れ合う音や椅子を引く音だった。

けれど今朝、最初に意識へ入ってきたのは、もっと低くて重い音だった。

何かが木の台へ置かれ、そのあと水を汲む気配がして、少し間を空けて刃物がまな板へ当たる。

包丁だ。

そう分かった瞬間、布団の中で身体が固まった。

考えて当てたわけでも、音を聞き比べたわけでもないのに、あれは厨房で肉を刻んでいる音だと、頭の中に答えが浮かんでしまった。

「……朝から正解率を上げなくていいんだけど」

誰も聞いていないのに口に出す。

心理学者としてなら、慣れた環境では音の意味づけが早くなると説明できるし、知覚学習だの予測処理だの、それらしい用語はいくらでも出てくる。

だから何だ。

用語を知っていても、聞こえた包丁の音を知らない音へ戻すことはできない。

外ではすでに店が動いていた。

客の声に孫元の声が重なり、酒を注ぐ音まで混じっているのに、耳は勝手にそれぞれを分けてしまう。

昨日より店の中が近くなったというより、自分の方が店へ近づいているようで気持ちが悪かった。

「孫元さん、饅頭はあるかい?」

客の声が聞こえた。

饅頭という言葉自体は何も怖くない。知っている料理だし、宋代の食べ物として出てきても不思議ではない。

ところが、身体の奥だけが先に強張った。

「待ってろ。まだ具ができてねぇ」

孫元が答える。

具――

その一語に、さっきの包丁の音が勝手にくっついた。

饅頭に詰める具を厨房で刻んでいる。それだけの話なのに、妙に喉が乾く。

「……普通の調理工程よ。普通、普通」

自分に言い聞かせた直後、嫌なことに気づいた。

この店の「普通」を覚えることが怖かったはずなのに、今のアタシは自分から普通という言葉を使って安心しようとしている。

「心理学、今日は黙っててくれない?」

専門知識に八つ当たりしているうちに床板が鳴り、孫元がこちらへ向かってくることまで分かった。

扉の前で足音が止まり、少しして戸が開く。

「起きてたか。今日は客が多くてな」

分かってる、と答えそうになって口を閉じた。

外の声だけで、卓がいつもより埋まっていることも、厨房の仕事が追いついていないことも何となく察していた。

知らない店の事情を、店主から聞く前に把握し始めている自分が嫌になる。

孫元は少し迷ってから言った。

「無理なら寝てろ。ただ、できそうなら少し手伝ってほしい」

また「少し」だった。

昨日は顔を出すだけのはずが酒まで頼まれた。

今日は何を足すつもりなのかと身構えていると、孫元は何でもないことのように続けた。

「饅頭の具を刻むだけでいい」

「……ステップアップの方向、急じゃない?」

「何がだ?」

「こっちの話」

孫元は怪訝そうな顔をしたあと、「包丁が無理なら俺がやる」と付け加えた。

また逃げ道を用意される。

命令してくれた方がまだ楽だと思ってしまう自分に気づいて、さらに嫌になる。

断ればいいのに、断る理由を探しているうちに身体はもう布団から手を出していた。

掌をつく位置を迷わず、足を床へ下ろして立ち上がる。

身体は昨日より安定していて、それだけなら病み上がりとして喜ばしいはずなのに、今のアタシには職場復帰が順調という意味にしか見えない。

「労災認定、どこへ申請すればいいのよ……」

「また変なこと言ってんな」

孫元はため息をつきながら、アタシが通りやすいように戸を少し大きく開けた。

その気遣いまで腹立たしい。

もちろん悪いのは孫元ではないし、親切にされて腹を立てる方が理不尽なのも分かっている。

それでも、自分で外へ出るための条件が一つずつ整えられていくのが怖かった。

店へ出ると、客たちがこちらを見る。

「お、二娘ちゃん。今日は饅頭かい?」

別の男が「無理させんなよ、孫元さん」と言いながら笑った。

心配しているのか働かせたいのか、どっちなのよ。

そう思ったところで、厨房から肉の匂いが流れてきた。

酒や煙に混じった、加熱する前の肉の匂いだった。

視線を向けると、まな板の上に赤黒い塊が置かれている。

白い脂が混じり、端の方だけ少し乾いているように見えたが、何の肉なのかまでは分からないし、そこだけは知識欲を発揮しなくていい。

「細かく刻んでくれ。饅頭に詰める」

孫元の声を聞くと、足が厨房へ向かった。

昨日までと同じだった。

誰にも押されず、腕を掴まれたわけでもないのに、自分で歩いている。

その事実だけが毎回きっちり残る。

包丁は台の右側に置かれていた。

目に入るより少し早く、「そこだ」と思った気がした。

「……やめてよ」

手を伸ばして柄へ触れた瞬間、指が迷わず収まった。

握り直さなくても持ちやすく、刃の重さも手首へかかる感覚も、初めて触った道具とは思えないほど自然だった。

怖いのに、手だけが落ち着いている。

その落差が何より気持ち悪い。

「手続き記憶って便利ね。本人が全力で拒否してても営業してくれるんだから」

大学の講義なら笑いが取れただろう。

男子学生なら前列で妙に熱心に頷いたかもしれない。

今は客が「何言ってんだ、二娘ちゃん」と笑っただけだった。

まな板の前に立つと、肉をどう押さえれば邪魔にならないのか、どこから刃を入れれば刻みやすいのかを身体が先に決めた。

アタシは知らないはずなのに、手は止まらない。

刃を入れると、見た目より抵抗があり、それでも少し力を加えれば肉は切れた。

硬い筋へ当たると手首がわずかに角度を変え、脂の多いところでは動き方まで変わる。

「待って……誰が判断したの、今の?」

もちろん自分の手だ。

それが一番困る。

包丁がまな板へ当たるたび、朝、布団の中で聞いていた音と同じ響きが出た。

さっきまで他人の仕事だと思っていた音を、今は自分が鳴らしている。

孫元が横から覗き込み、ぽつりと言った。

「……できるな」

「言わないで」

思ったより強く声が出ると、孫元は黙ったが、客の一人は「ほらな、二娘ちゃんは手際がいい」と笑った。

手際がいいわけでも、アタシができるわけでもないと否定したいのに、目の前では肉がほぼ同じくらいの大きさへ揃っている。

饅頭へ詰めるなら、このくらいが扱いやすい――

そんな判断まで自然に浮かんだ。

「……料理スキルだけ継承する転生、もっと平和な作品でやってくれない?」

「二娘ちゃん、何の話してんだ?」

「知らなくていいわよ!」

客が笑った。

また会話が成立したことに気づくと、包丁の音よりそちらの方が一瞬怖くなった。

昨日は「アタシ」と言っただけで違和感を持たれ、結局「アタイ」と言い直した。

今日は包丁を握りながら客へツッコミまで返している。

二娘なら何と言うかを考えなくても、二娘らしい会話が成立し始めている。

そこで手が止まった。

今度は、自分で止めた。

「……何?」

孫元が聞く。

「何でもない」

そう答えてから、今の返事まで自然だったことに気づくと、さすがにまずいと思った。

適応という言葉は、もっと穏やかな場面で使いたい。

新しい職場に慣れたとか、引っ越した町で道を覚えたとか、そういう話なら歓迎できる。

知らない時代の知らない店で、知らない肉を刻みながら順応している自分なんて、教材にしたら倫理委員会が泣く。

「二娘、刻んだらこっちへ入れてくれ」

孫元が器を差し出した。

言われる前から、その器へ移すのだろうと思っていた。

包丁の腹で刻んだ肉を寄せて器へ移すと、柄についた脂が気になり、すぐ脇にある布へ手が伸びた。

拭いたあとで気づいた。

布の場所まで知っていた。

「……今のも?」

孫元がアタシを見る。

「何でもないってば」

声が少し荒くなった。

褒められたくないし、安心もされたくない。

できて当然という顔もされたくないのに、孫元は何も言わず器を受け取っただけだった。

それも嫌だった。

客の方から「もうできるかい?」と声が飛び、孫元が「少し待て」と答えてからアタシへ向き直る。

「もういい。奥へ戻ってろ」

その言葉を聞くと、身体がほっとした。

ほっとしたこと自体に、また寒気がした。

ここで働くことが負荷になり、奥へ戻ることが安心になる。

嫌な状態から離れたことで安堵するなら、その行動は強化されやすい。

「……負の強化までシリーズ化しなくていいのよ」

孫元が眉を寄せる。

「何が強いんだ?」

「父ちゃんは何も強くないから安心して」

「本当に何なんだ、お前」

今だけは、そのツッコミに少し救われる。

包丁を置こうとして、指が一瞬だけ止まった。

怖くて離せないのではない。

逆だった。

柄が手に収まっている感覚を、身体が妙に自然なものとして受け入れていた。

落ち着く。

そんな言葉が浮かび、全身から血の気が引いた。

「違う」

今度は声に出した。

孫元がこちらを見る前に包丁を台へ置き、指を開く。

金属と木の重さが離れたのに、掌にはまだ握っている感覚が残っていた。

客の横を通ると、「二娘ちゃん、助かったよ」と声を掛けられた。

別の男は「すぐ元通りだな」と笑っている。

元通り。

昨日も聞いた言葉だった。

あの人たちにとっては、酒を注げることも、アタイと言うことも、肉を刻めることも、全部「二娘が元へ戻っている」証拠なのだ。

アタシにとっては、逆なのに……

部屋へ戻って戸を閉めると、厨房ではもう次の作業が始まっていた。

誰かが饅頭の皮を扱い、孫元が客へ返事をし、やがて蒸す準備らしい物音まで聞こえてくる。

さっきまでアタシが刻んでいた肉が、この店の料理へ変わっていく。

布団のそばへ座り込み、掌を見る。

指先に脂の感触が残っていた。

布で拭いただけだから、匂いまでわずかに残っている気がする。

ただの肉だと考えることにした。

何の肉なのかは知らないし、考える必要もないのに、それでもアタシは知らないまま刻めてしまった。

包丁を持てたことより、その事実の方が怖かった。

何の肉を刻んでいるのか分からなくても、手順だけは身体が知っている。

本人が納得していなくても、仕事は成立してしまう。

「……これ、心理学じゃなくてホラーの授業じゃない?」

返事はない。

外から「饅頭まだかい?」という客の声が聞こえ、孫元が「もうすぐだ」と答えた。

もうすぐ、アタシが刻んだ具が饅頭になる。

客が食べて、代金を払い、店は何事もなく回っていくのだろう。

その中でアタシだけが「知らない」と言い続けても、手はもう知っている。

酒を注いだ時より、アタイと言い直した時より、ずっと身体の奥へ近づかれた気がした。

手が覚えていた。

口より先に。

足より先に。

包丁を持つ手が。

それが、一番嫌だった。

孫二娘でございますよォ。


包丁を使えたことより、アタイが嫌だったのは、そのあとなんだ。


何の肉かも知らないし、納得した覚えもない。

それでも具はちゃんと出来上がって、饅頭になって、客は腹を満たして帰っていく。


本人の気持ちなんて置いてきぼりでも、仕事ってのは成立するんだねェ。

心理学者としては興味深いけど、当事者としては返品したい発見だよ。


しかも客から見れば、アタイは少しずつ「元通り」になってるらしい。


さて――

次に「二娘らしくなった」と喜ばれるのは、いったい何なんだろうねェ?

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