アタイ
孫二娘でございま〜す。
昨日までのアタイは、名前を呼ばれても「それ、誰?」って気分だったんだよォ。
ところが人間ってのは厄介なもんで、何度も呼ばれてりゃ、そのうち考える前に振り向くようになる。
店の音も、客の声も、身体の方がどんどん先に覚えていくんだよねェ。
まあ、それだけならまだ、身体が仕事を思い出してるだけで済んだ。
問題は、客に妙な顔をされた時さ。
アタイはちゃんと、いつもの自分で喋ったつもりだったんだけど――
どうやら十字坡では、その「いつもの自分」の方が間違ってたらしいよォ。
さて――
一文字違うだけで、人間はどこまで別人になれるんだろうねェ。
足音ではなく、店の音で目が開いた。
盃が触れ合う音に椅子を引く音、低い笑い声の向こうでは、酒甕の蓋が動いたらしい鈍い響きまで聞こえている。
部屋はまだ暗く、頼りない灯りが揺れているだけなのに、どの音が厨房から来て、どれが卓の辺りで鳴ったのか、考える前に分かってしまった。
昨日の客の笑い声まで聞き分けられたことに気づき、布団の中で膝を抱える。
分かりたくもないのに、分かってしまう。
――嫌だ。
肩を丸め、指で布団を掴んだところで、それが昨日と同じ姿勢だと気づいた。
昨日と同じ場所で、昨日と同じように怖がっているだけなら、何も変わっていないことになる。
そう思いたかったのに、耳だけは昨日よりずっとこの店を知っていた。
外から男の声が飛んでくる。
「孫元さん、今日は二娘ちゃん出られるのかい?」
胸の奥が冷えた。
昨日なら「二娘ちゃん」と呼ばれてから、自分のことらしいと理解するまでに一拍あったはずなのに、今日は呼ばれた瞬間に身体が反応している。
「……処理速度まで上げなくていいんだけど」
誰にも頼んでいないのに、頭の中だけ十字坡仕様へ更新されているらしい。
大学で学生相手に説明するなら、学習だの適応だの馴化だので何とでも言えるのだろうが、本人の同意なしで進むアップデートは普通に怖い。
「まだ本調子じゃねぇ」
孫元の声が返り、客たちは「昨日は酒を出せたじゃないか」「若いんだから寝てばかりじゃ身体が鈍るぞ」と笑った。
悪気がないのは分かるのに、声の方向を聞いただけで誰がどの辺りに座っているのかまで想像できた。
音から推測しただけだと自分に言い聞かせても、昨日より店の形が頭へ入っている事実までは消えてくれない。
「常連の席まで覚え始めたら、接客業としては優秀なんでしょうけどね……」
現代でも、人の顔を覚えるのは得意だった。
講義でいつも前列を取る男子学生なら出席簿を開かなくても分かったし、研究室の前を明らかに用もなく何度も通る学生にも気づいていた。
妖艶なお姐さん助教なんて勝手な呼び名までつけられていたけれど、アタシは助教で、向こうは学生だった。
視線を集めることには慣れていても、どこまで近づかせるのかは自分で決められたし、気に入らない距離まで入られれば止めることもできた。
ここでは、二娘という役割の方が先にアタシの居場所を決めている。
床板が鳴った瞬間、考えるより先に孫元だと思った。
次の一歩で少し重く鳴る場所があり、そのあと扉の前で止まるところまで、昨日聞いた音と同じだったからだ。
戸が開き、予想どおり孫元が顔を出す。
「起きてたか。客が呼んでる」
知ってる、と返しかけて息を呑んだ。
知らないはずなのに、外の声を聞き分け、誰が何を求めているのか理解し、その一連の処理を頭がもう「知ってる」の一言で片づけようとしている。
孫元は少し言いにくそうに顎を掻いた。
「無理ならいいが、少しだけ頼めるか?」
また、少しだけだった。
昨日は顔だけのつもりで外へ出て、そのあと酒だけ頼まれた。
今日も要求そのものは小さいままなのに、昨日できたことが当然の前提として一段下へ積まれている。
「……これ、段階的要請の実演じゃないわよね?」
孫元が露骨に「何の話だ」という顔をしたので、さすがに濡れ衣だと気づいた。
この男は毎回断っていいと言っているし、心理学の技法で娘を操作しようとしているわけでもない。
「違う違う。今のは父ちゃん悪くない」
「さっきから何なんだ、お前は」
「こっちが聞きたいわよ」
孫元は呆れた顔をした。
命令なら反発できるし、強制されたなら「やらされた」と考えられる。
けれど、小さな選択をその都度自分で受け入れてしまえば、昨日からここまで歩いてきた足跡は全部アタシの側へ残る。
嫌だと思っているのに、布団から手を出した。
掌をつく場所も、足を下ろす位置も探す必要がなく、立ち上がれば自然に壁へ手が伸びる。
孫元は手を貸そうとはせず、ただ見守るように「無理すんな」と言った。
立ってみると、思ったほど身体は揺れなかった。
「……病人としては喜ぶところなのに、職場復帰だけ順調に見えるの何なのよ?」
「何言ってんだ」
その反応があまりにも普通で、少しだけ腹が立った。
こっちは人生最大級の異常事態に巻き込まれているのだから、せめて世界の方ももう少し深刻そうな顔をしてほしい。
部屋を出ると、酒や煙、煮えた料理の匂いが混ざった店の空気が身体を包んだ。
昨日は全部ひとまとめに「知らない臭い」だったものが、今日は厨房の湯気と酒甕の匂いとして別々に感じ取れる。
客たちはこちらを見るなり、「二娘ちゃん」「顔色よくなったな」「今日はもう大丈夫そうだ」と口々に声を掛けてきた。
大丈夫ではないと言いたいのに、男たちの視線を浴びても身体は昨日ほど縮こまらなかった。
その変化を認識した途端、頭の中に「馴化」という便利すぎる言葉が出てくる。
同じ刺激を繰り返し受ければ、反応が弱くなることがある。
「心理学知識が実況席にしかいないんだけど……」
専門知識は現象に名前をつけてくれるが、身体を昨日へ戻してはくれない。
講義なら具体例を出せば学生も理解しやすいのだろうけれど、自分が教材になる授業は二度と御免だった。
孫元が客との間へ少し入り、「騒ぐな。少しだけだ」と釘を刺す。
客が「分かってるよ、酒を頼むだけだ」と答えた瞬間、視線が勝手に厨房へ向いた。
昨日ならその反応自体に驚いたはずなのに、今日は厨房を見たあとで、自分が先回りしたことに気づいている。
驚く順番まで変わり始めていた。
「ほら、もう行く気じゃねぇか」
「違うわよ。行く気じゃなくて、身体が勝手に職務内容を把握してるだけ」
「何だそりゃ?」
「だからアタシが聞きたいのよ」
客が笑い、アタシは返事をしたあとで笑えなくなった。
昨日より自然に会話が成立している。
厨房へ入ると、火の近くは暖かく、酒甕の横には昨日使った盃が並んでいた。
棚の端に縁の欠けたものが一つあるのを見つけた途端、客へ出すなら避けるべきだと考え、自分の手がもう別の盃へ伸びている。
「……接客品質まで復旧しないでくれる?」
身体だけが優秀な従業員みたいで腹が立つ。
三人分の盃を並べて柄杓で酒を汲むと、手の震えは前ほどひどくなく、注ぐ量までほとんど揃った。
失敗してほしいのに手首は迷わず動き、一つくらいこぼして「この身体は二娘ではない」と証明してくれる気配がない。
「リハビリ担当がいたら満点つけそうね……本人は零点希望なんだけど」
盃を運ぶと、客が「さすが二娘ちゃんだ」と満足そうに笑った。
「何がさすがなのよ。昨日と同じ酒でしょ?」
また自然に返してしまい、客も何の違和感もなく笑う。
昨日も似たようなことを言った。
その記憶を持っているのはアタシなのか、それとも二娘の身体なのか、境目を考えるほど気分が悪くなる。
三つの盃を置き終えたところで、別の客が空になった盃を持ち上げた。
「二娘ちゃん、こっちももう一つ頼めるかい?」
反射的に顔が上がった。
今度こそ断るつもりで口を開く。
「アタシは――」
そこまで言った瞬間、卓の周りの空気がわずかに止まった。
客が首を傾げる。
「アタシ?」
何がおかしいのか分からないのに、その問い返しを聞いただけで、身体のどこかが「違う」と察した。
馴染みらしい男が、からかうというより本当に不思議そうな顔をする。
「あれ? 二娘ちゃん、この間までアタイって言ってなかったか?」
頭の中が真っ白になった。
一文字しか違わないのに、「アタシ」と「アタイ」の間には、アタシが知らない二娘の十七年間が丸ごと挟まっている。
現代ではずっとアタシだった。
大学でも研究室でも、姉さんと電話している時でも変わらず、男子学生に口調が少し砕けていると言われても、それが自分なのだから直す理由なんてなかった。
ところが、この店の人間は知っている。
二娘は、自分をアタイと呼ぶ。
「いや、アタシは……」
言いかけた声が途中で止まった。
客たちは怒っていないし、誰も言い直せと命じてはいない。
孫元まで黙ったまま、いつもの二娘と少し違うことを不思議がるようにこちらを見ている。
集団の中で自分だけが違えば、周囲の反応を手掛かりに振る舞いを合わせることがある。
規範的影響なんて講義では簡単に説明できたし、「多数派が正しいとは限りません」と学生に注意することもできた。
「……多数派の内訳が弱すぎない? 何でこれで効くのよ」
こんな状況でまで研究デザインへ文句を言っている自分もどうかと思う。
孫元も何も言わず、別の卓では男が酒を飲み、厨房では火が燃え続けている。
アタシが自分の一人称を守れるかどうかなんて、この店にとっては止まるほどの事件ではない。
喉が動いた。
「……ア、アタイは」
言い直した。
言えてしまった。
客の顔から、不思議そうな色が消える。
「そうそう。それだよ。二娘ちゃんはアタイだろ」
その一言で、店の空気が元へ戻った。
褒められたわけでも、命令に従ったわけでもなく、ただ、ずれていたものが正しい位置へ戻ったように扱われただけだった。
アタシが言い間違えたのではなく、二娘がいつもの言い方へ戻った――
この店では、そういうことになった。
孫元は何も説明せず、少し長くこちらを見ただけで客へ視線を戻した。
もし「どうした」と聞かれていたなら、記憶がないことを話せたかもしれない。
自分は二娘ではないと言えたかもしれないのに、誰もそこまで大きな異変だとは思っていない。
「寝込んで、言い方まで変わっちまったのかと思ったよ」
客が笑うと、別の男も盃を持ちながら頷いた。
「まだ頭がぼんやりしてんだろ。そのうち戻るさ」
戻る、という言葉だけが耳の奥へ刺さった。
アタシはここへ来たばかりなのに、この人たちから見れば、戻るべき場所は最初から決まっている。
「二娘、今日はもういい。奥へ戻ってろ」
孫元に言われると、身体は迷わず向きを変えた。
厨房の角を避け、椅子の背に触れない距離を自然に取りながら、さっきまで寝ていた部屋へ戻っていく。
「……ナビの精度まで上がってるじゃない」
本当に誰が更新しているのだろう。
戸を閉めても客たちの声は壁越しに聞こえ、さっきの一人称を面白がっているらしい「二娘ちゃんはアタイだろ」という笑い声まで混じっていた。
悪気がないからこそ、余計に逃げにくい。
布団のそばへ座り込み、両手で口元を覆った。
酒を注いだ手はもうほとんど震えていない。
「アタシ」
自分へ確認するように言った。
大学助教だった時も、姉さんに電話で小言を言われていた時も、男子学生を「褒めても単位は増えないわよ」と追い払っていた時も、アタシはアタシだった。
もう一度言えば、当然のように同じ音が出る。
そこでやめればよかった。
けれど、確かめたくなった。
「……アタイ」
あまりにも自然に出た。
舌はもつれず、口の形にも迷わない。
聞き慣れないはずの一人称なのに、声にした瞬間だけ妙に収まりがいい。
思わず口を押さえた。
「何その発音補正……誰がインストールしたのよ」
人は環境へ合わせるし、周囲の言葉にも引っ張られることくらい、心理学者でなくても知っている。
けれど、知っていることと、自分の口から知らない自分の言葉が滑らかに出てくることは、まるで違った。
昨日までは、二娘という名前を外から貼られているだけだと思っていた。
今日は、呼ばれれば振り向き、頼まれれば酒を出し、違うと指摘されれば一人称まで直せた。
このまま明日も、その次の日も同じことを繰り返したら、いつか「アタイ」と言っても何も感じなくなるのだろうか?
そこまで考えた瞬間、布団を握る指に力が入った。
身体は、昨日より少しだけ店に戻っていた。
そして今度は、言葉まで戻されかけていた。
それが、一番嫌だった。
孫二娘でございますよォ。
誰にも「アタイと言え」なんて命令されちゃいない。
客に「前はそうだった」と言われて、アタイが自分で言い直したんだ。
そこが一番たちが悪いんだよねェ。
間違いを直しただけなら、普通は安心するだろ?
ところが今回は、直すほど自分から遠ざかっていく。
しかも言ってみたら、妙に口に馴染みやがった。
心理学者として説明できることは山ほどあるのに、止め方だけは講義ノートのどこにも書いてなかったよォ。
さて――
次に「いつもの二娘」へ戻るのは、いったい何だろうねェ?




