表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/28

アタイ

孫二娘でございま〜す。

酒を注ぐ手だけじゃない。

足の運びだけでもない。

店ってやつは、言葉まで戻してくるんだよォ。

アタシとアタイ。

たったそれだけの違いでも、自分の場所が変わっちまう。

客は笑う。

父ちゃんは見ている。

店は止まらない。

その中で言い直せた時――

二娘ちゃんは、また少し戻っちまったのさ。

足音ではなく、店の音で目が開いた。

盃が触れる音。

椅子を引く音。

低い笑い声。

酒甕の蓋が動く、鈍い音。

まだ暗い。

灯りだけが揺れている。

でも、もう分かる。

今のは厨房の方。

今のは卓の方。

今の笑い声は、昨日の客の一人。

分かる。

分かってしまう。

――嫌だ。

布団の中で、膝を寄せる。

肩を丸める。

指が布団を掴む。

昨日と同じ姿勢。

そう思った瞬間、喉が詰まった。

違う。

同じじゃない。

同じにするな。

外で客の声がした。

「孫元さん、今日は二娘ちゃん出られるのかい?」

胸の奥が冷たくなる。

また、その名前。

二娘ちゃん。

男の声が返る。

「まだ本調子じゃねぇ」

「昨日は酒を出せたじゃないか」

「若いんだから、寝てばかりじゃ身体が鈍るよ」

笑い声。

悪気のない声。

昨日と同じ。

でも、昨日より何を言っているのか分かる。

どこに誰が座っているのか、少し分かる。

どの卓で盃が鳴ったのかも、分かる気がする。

それが嫌だった。

床板が鳴る。

男の足音。

近づいてくる。

扉の前で止まる。

鈍い音。

扉が開く。

男が入ってくる。

「起きてたか」

返せない。

男は少しだけ眉を寄せる。

「客が呼んでる」

知ってる。

そう思った瞬間、息が止まった。

違う。

知ってなんかいない。

でも、外の音を聞いていた。

聞き分けていた。

男は少し言いにくそうにする。

「無理ならいい」

また、その言葉。

逃げ道みたいな顔をして、逃げ道にならない言葉。

男は続ける。

「少しだけ頼めるか」

少しだけ。

昨日もそうだった。

顔だけ。

酒だけ。

少しだけ。

少しずつ、言葉が変わっていく。

アタシは布団を握る。

嫌だ。

そう思うのに、身体はもう起き上がる準備をしていた。

手をつく場所。

足を下ろす位置。

壁に触れる高さ。

全部、分かる。

男は近づいてこない。

ただ見ている。

「無理すんな」

その声を聞きながら、身体は立った。

昨日より、ふらつかなかった。

そのことが嫌だった。

部屋を出る。

外の空気が来る。

酒の匂い。

煙。

煮えたものの匂い。

人の吐息。

木の床。

客がこちらを見る。

「おお、二娘ちゃん」

「昨日より顔色いいじゃねぇか」

「もう大丈夫そうだな」

大丈夫じゃない。

そう思う。

でも、声は出ない。

男が横で言う。

「騒ぐな。少しだけだ」

「分かってるよ」

「酒を頼むだけだ」

酒――

その言葉に、身体が厨房の方を向いた。

違う。

まだ、何も言われていない。

でも、足はそちらへ向かおうとしている。

客の一人が笑った。

「ほら、もう行く気だ」

違う。

行く気じゃない。

身体が、勝手に分かっているだけだ。

厨房へ入る。

火の近くは、やっぱり少し暖かい。

相変わらず、厨房は酒の匂いが強かった。

酒甕の位置。

盃の棚。

柄杓。

布巾。

昨日より、探さなかった。

手が伸びる。

盃を取る。

三つ。

震えている。

でも、落とさない。

酒甕の蓋を開ける。

柄杓を入れ、酒を汲む。

手首の角度が分かる。

盃の縁の少し下で止める。

こぼさず、次の盃へ移る。

昨日より、手が震えない。

そのことに気付いた瞬間、酒の匂いがひどく強くなった。

――嫌だ。

違う。

慣れてない。

できるようになったわけじゃない。

そう思うのに、盃はきれいに並んでいる。

酒もこぼれていない。

客の声が聞こえる。

「さすが二娘ちゃんだ」

違う。

さすが、じゃない。

ただ、身体が動いただけだ。

盃を持って、客の前へ出る。

卓へ置く。

三つ。

客が満足そうに笑う。

「ありがとよ」

別の客が、盃を持ったままこちらを見る。

「二娘ちゃん、もう一つ頼めるかい?」

反射で顔が上がった。

「アタシは――」

言った瞬間、空気が少し止まった。

息が止まる。

今、何を言った。

客が首を傾げる。

「アタシ?」

胸の奥が冷える。

馴染みの客らしい男が、少し笑った。

「あれ? 二娘ちゃん、この間までアタイって言ってなかったか?」

頭が真っ白になる。

アタシ……

アタイ……

どっち?

どっちが、ここでの言葉だ。

違う。

アタシだ。

アタシは、アタシだ。

そう思う。

でも、客の目がこちらを見ている。

父ちゃんも見ている。

店の空気が、返事を待っている。

喉が動く。

「……ア、アタイは」

言い直した。

言い直せてしまった。

その瞬間、指先が冷たくなった。

客は何でもないように笑う。

「そうそう。それだよ。二娘ちゃんはアタイだろ」

それだよ。

その言葉が、耳に残った。

アタシじゃない。

アタイ。

ここでのアタシは、アタイと言う。

そう決められたみたいだった。

男は何も言わない。

ただ、少しだけこちらを見ていた。

怒らない。

驚かない。

説明もしない。

それが余計に嫌だった。

アタシが言い間違えたんじゃなく、二娘がいつもの言い方に戻っただけ。

そんなふうに、店が受け取った気がした。

客が笑う。

「寝込んで、言い方まで変わっちまったのかと思ったよ」

笑い声。

盃を交わす音。

酒を飲む音。

喉を鳴らす音。

椅子の軋む音。

店は止まらない。

アタシだけが止まっている。

いや。

止まっていると思いたいだけだった。

手はもう、次の盃を取ろうとしていた。

「二娘」

男が低く言う。

「奥へ戻ってろ」

その言葉に、身体が動いた。

また――

どの道を通ればいいか分かる。

厨房の角を避ける位置が分かる。

客の椅子にぶつからない距離が分かる。

分かる。

分かっている。

部屋へ戻る。

扉を閉める。

外の声は、まだ続いている。

「アタイだろ」

「そうそう」

「二娘ちゃんはアタイだ」

笑い混じりの声。

悪気のない声。

それが一番嫌だった。

布団のそばに座り込む。

手を見る。

酒を注いだ手。

盃を落とさなかった手。

客の前に出た手。

そして、言い直した口。

アタシ。

アタイ。

小さく、口の中で比べる。

アタシ。

こっちがアタシだ。

そう思う。

でも、さっき出たのは、

アタイ。

言い直せた。

客に言われて。

父ちゃんに見られて。

店の中で。

言い直せてしまった。

喉の奥が詰まる。

知らない。

こんな言葉も。

こんな店も。

こんな客も。

こんな身体も。

知らない。

なのに、酒は注げた。

客前に出られた。

奥へ戻る道も分かった。

その上、言葉まで直せた。

身体は、昨日より少しだけ店に戻っていた。

そして今度は、言葉まで戻されかけていた。

それが、一番嫌だった。

孫二娘でございますよォ。

アタシか、アタイか。

たった一文字みたいなもんでもねェ。

そこには、どっちの自分でいるかが入っちまう。

酒を注ぐ手が戻る。

客への距離が戻る。

店の中の呼ばれ方が戻る。

そして最後に、口まで戻る。

怖いのは、間違えたことじゃない。

言い直せちまったことなんだよォ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ