看板娘
孫二娘でございま〜す。
看板娘ってのは、聞こえはいいけどねェ。
名前を呼ばれる。
顔を見られる。
酒を出す。
笑われる。
ついでみたいに触られる。
それでも店は止まらない。
客も悪びれない。
父ちゃんも、全部は止めきれない。
アタイが嫌だと思う前から、二娘ちゃんは店の中に立ってたんだよォ。
「二娘ちゃんはいるかい?」
外の声が、戸口の向こうから入ってきた。
息が止まる。
二娘ちゃん。
その呼び方が、部屋の中まで入り込んでくる。
父ちゃん。
二娘。
孫元。
十字坡。
店。
知らない言葉ばかりが増えていく。
しかも、今度は外からだった。
部屋の中だけじゃない。 あの男だけじゃない。
外の誰かまで、アタシをそう呼んでいる。
男は、少しだけ戸口の方を見た。
「少し寝込んでる」
さっきまでアタシに向けていた声とは違っていた。
少し低い。
少し硬い。
でも、慣れた声だった。
客に返事をする声。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
店。
ここは店だ。
ただの部屋じゃない。
ただの家でもない。
外から人が来る場所。
知らない人間が、名前を呼んで入ってくる場所。
「寝込んでるって、二娘ちゃんが?」
「珍しいねぇ」
「十七だろう? 若いんだから、すぐ治るさ」
十七。
また知らないことが増えた。
この身体は、十七。
アタシは布団を握る。
十七。
二娘。
孫元の娘。
十字坡の店の娘。
外から勝手に決められていく。
アタシは何も言っていない。 何も答えていない。
何も分かっていない。
なのに、向こうは知っている。
「顔だけでも見せてくれよ。二娘ちゃんがいないと、店が暗いんだ」
男は少し黙った。
それから、こちらを振り返る。
嫌な予感がした。
「二娘」
肩が固まる。
男は、無理に近づいてこない。
ただ、少し困ったような顔で言う。
「顔だけ出せるか」
嫌だ。
そう思った。
でも、声が出ない。
「無理ならいい」
男はそう言った。
本当に、そう言った。
それなのに、外の声がまた入ってくる。
「おいおい、孫元さん。看板娘を隠すなよ」
「二娘ちゃんが酒を出してくれるから、ここへ寄ってるようなもんだ」
笑い声。
悪気のない声。
その悪気のなさが、気持ち悪かった。
看板娘。
アタシの知らない二娘が、外の声の中にいる。
酒を出す。
客の前に立つ。
笑う。
呼ばれる。
アタシは知らない。
でも、外の客は知っている。
男が、少しだけ眉を寄せた。
「病み上がりだ。騒ぐな」
病み上がり。
違う。
病み上がりだから嫌なんじゃない。
知らないから嫌なんだ。
出たくないから嫌なんだ。
その名前で呼ばれたくないから嫌なんだ。
でも、言えない。
喉が動かない。
男は、アタシを見る。
「嫌ならいい」
その言葉で、少しだけ息が抜けそうになる。
でも、その時だった。
外で、器の触れ合う音がした。
椅子を引く音。
誰かが腰を下ろす音。
低い笑い声。
店の中の音。
顔が、そちらを向いた。
息が止まる。
今、何を見た。
音のした方を見た。
考えるより先に。
戸口じゃない。
客の顔でもない。
その奥。
厨房の方。
そう分かった。
分かってしまった。
男もそれに気付いたのか、少し目を細める。
「……行けるか」
返せない。
でも、身体はもう布団から手を出していた。
違う。
違う。
行きたいわけじゃない。
そう思うのに、手をつく場所が分かる。
身体の起こし方が分かる。
床へ足を下ろす位置が分かる。
冷たい床に足が触れる。
膝が少し震えた。
男は近づいてこない。
ただ、こちらを見ている。
「無理すんな」
またその言葉。
嫌だ。
でも、身体は立った。
ふらつく。
壁へ手をつく。
その場所も分かった。
手のひらが、迷わなかった。
戸口の方へ歩く。
知らないはずの部屋。
知らないはずの家。
知らないはずの店。
なのに、足が止まらない。
外へ出ると、空気が変わった。
人の匂い。
酒の匂い。
煙。
木の床。
古い卓。
客が数人、こちらを見る。
一斉に。
身体が固まる。
「おお、二娘ちゃん」
「顔色悪いな」
「本当に寝込んでたのかい」
知らない顔。
知らない声。
知らない目。
でも、その目は、知らない者を見る目ではなかった。
いつも見ているものを見る目だった。
アタシは、下を向く。
男が横で言う。
「顔だけだ。今日は働かせねぇ」
働かせる。
その言葉で、厨房の方へ視線が動いた。
鍋と椀。
水瓶に酒甕。
布巾や包丁。
それに火の位置。
見えた瞬間、指が動いた。
布巾を取る位置。
椀を置く棚。
酒甕の口。
柄杓の場所。
分かる。
全部、分かる。
アタシは息を止める。
違う。
知らない。
こんな場所、知らない。
でも、手が先に動きそうになる。
十七なら、手伝いはできる。
店の娘なら、酒を出すくらい、できて当然。
身体が、そう言っているみたいだった。
客の一人が笑った。
「ほら、もう仕事の顔してるじゃねぇか」
違う。
してない。
そんな顔、してない。
そう言いたいのに、声が出ない。
男が少しだけ客を睨む。
「からかうな」
客は悪びれずに笑う。
「悪い悪い。二娘ちゃんがいると、ついな」
つい。
その言葉が嫌だった。
つい見る。
つい呼ぶ。
つい笑う。
つい触る。
そういうものとして、ここに置かれている気がした。
男が厨房の方を見る。
「酒だけ出せるか」
酒。
その言葉に、身体が動きかけた。
違う。
と思うより先に、足が半歩動いた。
頭が真っ白になる。
今、動いた。
誰にも押されていない。
自分で。
厨房へ入る。
火の近くは少し暖かい。
酒の匂いが、木の棚の奥から薄く漂っている。
水瓶の位置が分かる。
酒甕の位置が分かる。
盃を三つ取る高さが分かる。
手が伸びる。
震えているのに、間違えない。
そのことが、一番嫌だった。
盃を並べる。
酒を注ぐ。
手首の角度が分かる。
こぼさないように、少しだけ指を離す。
知らないはずなのに。
アタシは知らないはずなのに。
酒の匂いが立つ。
客の声が聞こえる。
「やっぱり二娘ちゃんが注ぐと違うねぇ」
違わない。
何も違わない。
ただ、身体が動いただけだ。
男が黙って見ている。
その視線が痛い。
褒めないでほしい。
安心しないでほしい。
いつものように見ないでほしい。
盃を持って、客の前へ出る。
手が震える。
でも、落とさない。
卓に置く。
一つ。
二つ。
三つ。
客が笑う。
「ありがとよ、二娘ちゃん」
その名前を聞くたびに、肩が固まる。
早く戻りたい。
そう思って一歩下がろうとした時だった。
客の一人が、笑いながら手を伸ばした。
肩かと思った。
違った。
手が腰の後ろへ回り、軽く叩いた。
「元気出せよ、二娘ちゃん」
音が消えた。
痛いほどじゃない。
乱暴でもない。
でも、痛いかどうかの話じゃなかった。
アタシは動けなかった。
客は笑っている。
悪いことをした顔じゃない。
男が、少し眉を寄せる。
「おい、病み上がりだ。やめとけ」
違う。
病み上がりだからじゃない。
触られたくないからだ。
そう言いたかった。
でも、声が出ない。
喉が動かない。
客は手を引いて、軽く笑った。
「悪い悪い。ついな」
また、つい。
その言葉が耳に残る。
つい。
それで済むのか。
見られた。
名前を呼ばれた。
触られた。
それが全部、ここでは大したことではないみたいだった。
男がアタシを見る。
「二娘、奥へ戻ってろ」
奥へ。
その言葉で、身体が先に動いた。
どちらへ戻ればいいか分かる。
どの戸を抜けるか分かる。
厨房の横を通る時、どこに足を置けばいいか分かる。
分かる。
分かっている。
アタシが知らないのに。
奥へ戻り、布団のある部屋へ入る。
扉が閉まる。
外では、客の声がまだ続いている。
酒を飲む音。
笑う声。
椅子の軋む音。
店は動いている。
何事もなかったみたいに。
アタシは布団のそばに座り込む。
腰の後ろに、さっきの手の感触が残っている。
痛いわけじゃない。
でも、そこだけが皮膚から離れない。
嫌だ。
違う。
こんなの、普通じゃない。
そう思う。
でも、外では誰も騒いでいない。
父ちゃんも、客も、店も。
全部、続いている。
二娘ちゃん。
その名前で呼ばれて。
酒を出して。
触られて。
奥へ戻される。
そういう流れが、最初からあったみたいに。
アタシは布団を掴む。
指が震える。
知らない。
知らない。
こんな店も。
こんな客も。
こんな身体も。
なのに、酒は注げた。
客の前に出られた。
奥へ戻る道も分かった。
それが、一番嫌だった。
孫二娘でございますよォ。
客に悪気があるとは限らない。
けど、悪気がなけりゃ平気って話でもないんだよねェ。
笑って呼ばれる。
酒を出す。
ついでに触られる。
それでも店は、何事もなかった顔で続いていく。
嫌だと言えないまま、手だけが仕事を覚えていく。
看板娘ってのは、そういう場所に立たされることでもあるのさ。




