看板娘
孫二娘でございま〜す。
どうやら昔のアタイは、十字坡の店で看板娘をやってたらしいよォ。
まあ、そこまではいい。
問題は、今のアタイが何も覚えてないのに、この身体だけは仕事を忘れてないことさ。
酒甕を見れば手が動くし、客の人数を見れば必要な盃まで分かる。
大学で教えていた頃なら、「手続き記憶ですね」で講義は終わったんだけどねェ。
自分の身体で実演されると、ちっとも面白くない。
しかも厄介なのは、身体だけじゃなかった。
客に声を掛けられた時、アタイは一瞬考えちまったんだよ。
――二娘なら、どう返す?
さて――
看板娘ってのは、身体が覚えてりゃ務まるもんなのかねェ。
「二娘ちゃんはいるかい?」
外の声が、戸口の向こうから入ってきた。
息が止まる。
二娘ちゃん――
その呼び方が、部屋の中まで入り込んでくる。
父ちゃんと名乗る男は孫元で、ここは十字坡にある店。
そしてアタシは二娘と呼ばれているらしい――
知らない事実ばかりが、勝手に形を持ち始めていた。
しかも今度は、部屋の中にいるあの男からではなく、外の誰かまでアタシをそう呼んでいる。
男は、少しだけ戸口の方を見た。
「少し寝込んでる」
さっきまでアタシに向けていた声とは違い、少し低くて硬い。
それでも、客に返事をすることには慣れている声だった。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
店――
ここは、店なんだ。
今までアタシが見ていたのは、知らない部屋と、そこへ飯を持ってくる男だけだった。
だから世界そのものが、この狭い部屋で終わっているような錯覚があった。
でも違う。
扉の向こうには客がいて、酒を飲み、飯を食い、孫元という男を知っている。
そして、その客たちは二娘という娘まで知っている。
「寝込んでるって、二娘ちゃんが?」
「珍しいねぇ」
「十七だろう? 若いんだから、すぐ治るさ」
十七――
また一つ、勝手に埋められた。
鏡をまともに見ていなくても、十代の身体だろうとは思っていた。
けれど、自分で推測するのと、他人から当然の事実として教えられるのは違う。
十七歳で孫元の娘、しかも十字坡の店にいる「二娘」らしい。
「……個人情報の開示速度がおかしいでしょ」
昨日までなら、公認心理師として初回面接で本人の基本情報を確認する側だった。
今は逆で、知らない客が頼んでもいないのにアタシのプロフィールを埋めていく。
しかも本人確認すらない。
「顔だけでも見せてくれよ。二娘ちゃんがいないと、店が暗いんだ」
アタシは布団の中で固まった。
店が暗い?
意味を理解したくなかった。
けれど、嫌なことほど頭はよく働く。
どうやら客の相手をして愛想を振りまき、少なくともここへ来る人間には顔を覚えられていたらしい。
看板娘――
その言葉まで浮かんでしまった。
男――もう孫元でいいのだろうか――が振り返る。
「二娘」
肩に力が入った。
「顔だけ出せるか?」
嫌だ。
喉まで来た言葉は出なかった。
孫元はしばらく待ったあと、
「無理ならいい」
と付け加えた。
また、この男はアタシに選ばせる。
強引に連れ出されたなら、「嫌だったし、怖かった。無理やりやらされたんだ」と自分の中で整理できる。
なのに、この男は最後のところでアタシに選択肢を渡してくる。
「自己決定って、こんなに迷惑だったっけ……」
もちろん、自己決定そのものが悪いわけではない。
そんなことは専門家として分かっている。
ただ今は、自分で選べることが怖い。
選んだら、その結果を「自分でやったこと」にしなければならなくなる。
この前の冷えた粥と同じだった。
誰にも口へ押し込まれていない。
自分で匙を持った。
アタシは、そういう事実だけは妙に覚えている。
外から笑い声がした。
「おいおい孫元さん、看板娘を隠すなよ」
「二娘ちゃんが酒を出してくれるから、ここへ寄ってるようなもんだ」
「……やっぱり、看板娘なんだ。伏線回収、早すぎない……?」
現代でも、男の視線を集めることには慣れていた。
大学の講義室では、なぜか男子学生が前列から埋まった。
後ろでもマイクは聞こえると言っても、「先生の話が聞きやすいんです」と真顔で返された。
研究室の前を、明らかに用もなく通る学生もいた。
アタシが気づいていないと思っていたのだろうけれど、そこまで鈍くない。
妖艶なお姐さん助教。
誰が言い始めたのか知らないが、そんな呼び名まであった。
ただ、人気があることと、好き勝手に扱われることは別だ。
学生には学生の距離があり、助教には助教の立場がある。
何より、あの身体はアタシの身体だった。
今は違う。
知らない十七歳の身体で、知らない店の看板娘らしい。
「転職ってレベルじゃないわよ……」
アタシの記憶にある履歴書には大学助教と書くはずなのに、この世界で作れば十字坡の店の娘。
どう考えても、共通項が「男が寄ってくる」しかない。
「そんな適性だけ異世界へ持ち越さなくていいんだけど……」
少しだけ笑いそうになって、すぐ笑えなくなった。
外で器が触れ合い、椅子を引く音に続いて、酒甕の蓋を開けたらしい音まで聞こえる。
アタシは無意識に顔を向けた。
扉の向こう、その少し先に厨房がある――そう思った瞬間、自分でもぞっとした。
どうして分かった?
孫元がアタシの視線を追う。
「……行けるか」
返事をする前に、布団から手が出た。
身体を起こして床へ足を下ろし、壁へ手をつく。
その一つ一つを自分でやっているのに、考えてはいなかった。
「ちょっと待って」
孫元は止まったのに、アタシの身体は止まらなかった。
立ち上がった膝は震えているのに、壁へ伸ばした手は迷わず、ちょうど使いやすい位置にある柱へ触れていた。
「……脳を通してから動いてくれない?」
自分の身体へ指示を出す心理学者なんて、講義で話したら学生は笑うだろう。
実際にやっている本人としては、ちっとも笑い話じゃないけれど……
戸口を抜け、酒と煙、人の体温が混じった空気に触れた。
卓が並び、数人の客がこちらを見る。
「おお、二娘ちゃん」
「本当に顔色悪いな」
「無理すんなよ」
知らない男たちなのに、向けられる視線だけは妙に親しい。
初対面の女を見る目ではなく、いつもここにいる娘がやっと出てきた、という目だった。
アタシは反射的に身体を縮めた。
孫元が客との間へ少し入る。
「顔だけだ。今日は働かせねぇ」
働かせる――
その言葉を聞いた瞬間、厨房を見た。
厨房を見ると、酒甕の横に椀を収めた棚があり、柄杓までどこに置かれているのか分かった。
違う。
見て理解したのではなく、最初から「そこにある」と分かっていた。
「……やめてよ」
誰も聞いていない。
客の一人が笑った。
「なんだ、もう仕事する気じゃねぇか」
「してない」
声が出ると、客は一瞬目を丸くしたあとで笑った。
「口は元気だな」
腹が立った。
現代なら、ここで切り返せる。
男子学生に「先生、今日も綺麗ですね」と言われたなら、「褒めても単位は増えないわよ」で済む。
でも、今は自分がどういう口調で客へ返していたのかすら知らない。
二娘なら何と言う?
そう考えた瞬間、ぞっとした。
もう「アタシなら」ではなく、「二娘なら」を考えようとした。
役割期待――
与えられた役割に沿って振る舞うため、自分から正解を探し始めている。
「……教材として出来が良すぎるのよ」
孫元が言った。
「酒だけ出せるか?」
右足が半歩動いた。
誰にも押されていないし、嫌なら戻っていいと言われているのに、身体は厨房へ向かっていた。
前まで歩くと、手が自然に棚へ伸びた。
客は三人だから、手に取った盃も三つだった。
酒甕の蓋を開け、迷わず柄杓を取る。
その持ち方まで知っている。
酒を注ぐ手は震えていたのに、ほとんどこぼさなかった。
失敗したかった。
盃を落とすか酒をひっくり返して、この身体は二娘ではないと証明してほしかったのに、できてしまった。
「やっぱり二娘ちゃんが注ぐと違うな」
「酒は同じでしょ……」
思わず返すと客が笑い、孫元まで一瞬だけ口元を緩めた。
笑うな。
こんな時だけ会話を成立させるな。
盃を卓へ運び、一つ、二つと置いていく。
最後の一つを置いた時、
「ありがとよ、二娘ちゃん」
と言われた。
「ありがとう」なんて普通の言葉なのに、その普通さが怖かった。
さっきまで知らなかった仕事をこなし、知らない客から礼を言われている。
この場だけを切り取れば、何もおかしくない。
だからこそ、おかしい。
一歩下がろうとした。
その時だった。
客の一人が笑いながら手を伸ばし、腰の後ろを軽く叩いた。
「元気出せよ、二娘ちゃん」
身体が止まった。
痛くはないが、問題はそこではない。
現代なら、反射的に手を払ったかもしれない。
いや、その前に相手が無事では済まなかった可能性まである。
娘に近づく男を片っ端から敵認定する父がいた。
三十になった姉さんも、二十七になったアタシも彼氏いない歴が年齢と一致していた最大の原因を、娘二人はだいたい知っている。
アタシの男子学生なんて、父からすれば全員潜在的敵性勢力だった。
「……今なら、あの破壊神ちょっとだけ欲しい」
人生で初めて父の過保護をありがたいと思ったけれど、もちろん今だけだ。
孫元が眉を寄せる。
「おい、病み上がりだ。やめとけ」
違う。
病み上がりだからではなく、ただ触られたくないのだ。
そう言えばいいだけで、現代のアタシなら言えたはずなのに、今は声が出なかった。
客はすぐに手を引く。
「悪い悪い。ついな」
「つい」の一言で終わり、誰も大声を出さず、客が店から叩き出されることもなかった。
孫元は不快そうな顔をしたが、それ以上は何も起こらない。
その場では、普通の出来事として処理された。
それが怖い。
人は周囲の反応を見て、その場で何が許容されているのかを学ぶ。
知らない集団へ入れば、他人の表情や態度を手掛かりに、その場の規範を読む。
アタシはそれを知っている。
そして今、身体より先に心の方まで、この店の「普通」を学ばされかけている。
「……そこまで順応する予定ないんだけど」
孫元がアタシを見る。
「二娘、奥へ戻ってろ」
その言葉に、身体が向きを変えた。
どこへ戻るのか尋ねる必要はなかった。
もう分かっていた。
奥へ戻り、布団のある部屋へ入ると、背後で扉が閉まった。
それでも外からは、酒を飲む音や笑い声、椅子の軋む音が絶えず聞こえてくる。
アタシが戻ったあとも店は何事もなかったように動き続けていた。
布団のそばへ座り込むと、腰の後ろには、さっき触られた感触だけがまだ残っている。
痛いわけではないのに、そこだけが皮膚から離れてくれない。
嫌だ。こんなの、普通じゃない。
そう思っているのはアタシだけらしく、外では誰も騒がない。
父ちゃんも客も店も、そのまま何事もなかったように続いている。
二娘ちゃんと呼ばれて酒を出し、触られたあとで奥へ戻される。
そんな流れが、最初からここにあった日常みたいだった。
アタシは震える指で布団を掴む。
こんな店も、客も、身体も知らないはずなのに、酒は注げたし、客の前にも出られた。
奥へ戻る道さえ、誰にも教えられず分かってしまった。
それが、一番嫌だった。
孫二娘でございますよォ。
酒を出せたことより、今回いちばん厄介だったのは別のところさ。
客に触られて、アタイは嫌だった。
そこまでは分かりやすい。
ところが周りは騒がない。
父ちゃんも眉をひそめただけで、店はそのまま動き続ける。
現代の父なら、あの客はたぶん無事じゃ済まなかったんだけどねェ。
初めてあの破壊神が恋しくなったよ。
人間ってのは、周りが平然としてると「ここではこういうものなのか」って覚えちまう。
さて――
酒の注ぎ方より先に忘れたいことまで、この店にはあるらしいよォ。




