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父ちゃんと二娘

孫二娘でございま〜す。

知らない場所。

知らない男。

知らない名前。

そう思っていれば、まだ逃げ場はあるんだよォ。

けどねェ――

誰かが当たり前みたいに呼ぶんだ。

孫元さん。

十字坡。

二娘ちゃん。

自分だけが知らない名前で、周りはもう全部決まっている。

そいつが分かった時が、一番怖いのさ。

足音が聞こえる前に、目が開いた。

相変わらず暗い。

灯りだけが揺れている。

まだ来ていない。

扉も開いていない。

なのに、アタシはもう扉を見ていた。

――嫌だ。

違う。

待っていたわけじゃない。

そう思うのに、布団の中で膝を寄せている。

肩も丸めている。

息も殺している。

いつもの姿勢。

そう思った瞬間、喉が詰まった。

いつもの、じゃない。

外で床板が鳴った。

遅れて来た音だった。

耳が、その音を拾う。

昨日と同じ。

その前とも同じ。

近づいてくる。

扉の前で止まる。

息を止める。

鈍い音が響き、扉が開く。

男が入ってくる。

何かを持っていた。

でも、そちらは見ない。

見たくない。

男はアタシを見て、少しだけ目を細めた。

「起きてたか」

静かな声だった。

返せない。

でも、前みたいに、声を聞いただけで頭が真っ白にはならなくなった。

そのことに気付いて、喉の奥が詰まる。

男は持っていたものをテーブルへ置いた。

それから、こちらを見る。

「昨日よりは、少しマシそうだな」

困ったように笑う。

その顔が嫌だった。

知らない男なのに。

勝手に部屋へ入ってくる男なのに。

どうして、そんな顔をする。

どうして、そんな近い声で話す。

男は少し黙った。

アタシが返さないからか、困ったように息を吐く。

「……なあ」

肩が固まる。

指が布団を掴む。

男は、それ以上近づかなかった。

ただ、そこに立ったまま言った。

「父ちゃん、なんかしたか? 二娘?」

息が止まった。

父ちゃん。

二娘。

二つの言葉が、続けて落ちてきた。

意味が分からなかった。

誰のことを言っているのか。

何を言われたのか。

頭が追いつかない。

父ちゃん。

二娘。

分からないはずなのに、どちらもアタシに向けられている。

父ちゃん。

この男が。

二娘。

この身体が。

胸の奥が冷たくなった。

違う。

違う。

そんなはずない。

アタシは知らない。

アンタなんか知らない。

二娘なんて名前も知らない。

そう思ったのに、喉の奥が動かなかった。

男はアタシを見ている。

知らない男の顔で。

でも、他人を見る顔ではなく。

それが一番嫌だった。

アタシが何も言わないから、男はまた少し眉を寄せた。

「本当に、どうしちまったんだよ」

小さな声だった。

怒っていない。

責めてもいない。

本当に困っているみたいな声だった。

それが余計に分からない。

怒鳴ってくれればいい。

睨んでくれればいい。

乱暴に近づいてくれればいい。

そうすれば、怖がればいい。

逃げればいい。

嫌えばいい。

でも、男は近づかない。

アタシが縮むと、そこで止まる。

アタシが目を逸らすと、しばらく黙る。

その距離の取り方が、嫌だった。

知らない男なら、そんなことをしないでほしい。

父親みたいな顔をしないでほしい。

父ちゃん――

頭の中で、その言葉がもう一度浮かぶ。

この男が、父親。

この身体の父親。

アタシの父親じゃない。

でも、この身体の父親。

そう考えた瞬間、胸の奥が痛んだ。

嫌だ。

そんなふうに分けて考えたくない。

この身体。

アタシ。

そうやって分けようとするたびに、境目が少しずつ滲む。

寒いのはアタシだ。

喉が渇くのもアタシだ。

布団を掴んでいる指もアタシだ。

なのに、父ちゃんだけは、この身体のものだと思いたい。

都合が良すぎる。

そう気付いて、頭の奥が重くなった。

男が少しだけ手を伸ばしかける。

肩が跳ねた。

男はすぐに止まる。

「……悪ぃ」

また、その声。

謝らないでほしい。

謝られると、怖がっているこっちが悪いみたいになる。

でも、悪いわけがない。

知らない場所で、知らない男が近づいてくるのだから、怖くて当然だ。

当然なのに。

父ちゃん――

その言葉があるだけで、怖さの形が変わる。

知らない男。

怖い男。

勝手に部屋に入ってくる男。

そう思っていたものに、別の言葉が貼りつく。

父親。

嫌だ。

そんな言葉を貼らないでほしい。

アタシは男から目を逸らす。

男はしばらく黙っていた。

部屋の中に、灯りの揺れる気配だけが残る。

見なくても、男がまだそこにいるのは分かった。

扉の近くじゃない。

テーブルの横でもない。

昨日と同じくらいの距離。

近すぎない。

でも、遠くもない。

その距離を、身体が測っている。

嫌だった。

男が小さく息を吐く。

「今日は、もう寝とけ」

返せない。

男は、それ以上何も聞かなかった。

テーブルの上に置いたものを少し整えて、それから扉へ向かう。

背中が見える。

大きい背中だった。

知らない背中。

でも、動きは乱暴ではなかった。

床を鳴らさないように、ゆっくり歩いているみたいだった。

そんなふうに見えてしまうことが嫌だった。

扉の前で、男が一度だけ振り返る。

「何かあったら呼べ」

呼べるわけがない。

そう思う。

でも、その言葉の形が、耳に残る。

何かあったら呼べ。

父ちゃん。

二娘。

その三つが、部屋の中で重なりそうになる。

やめて。

そう思った。

鈍い音とともに、扉が閉まる。

部屋が静かになった。

ようやく息を吐く。

身体が震えている。

指が布団を掴んだまま離れない。

父ちゃん。

二娘。

もう一度、頭の中で並ぶ。

知らない。

知らない。

知らない。

そう繰り返す。

でも、繰り返すほど、その言葉だけが強くなる。

この身体は、二娘と呼ばれている。

この男は、父ちゃんと自分を呼んだ。

アタシだけが知らない。

それが嫌だった。

どれくらい経ったのか分からない。

灯りはまだ揺れている。

眠ったのかも分からない。

ただ、目を開けると、部屋の暗さが少しだけ変わっていた。

外で、別の音がした。

男の足音じゃなく、もっと遠い。

戸口の向こう。

部屋の外。

家の外かもしれない。

人の声だった。

「孫元さん、いるかい?」

息が止まる。

知らない声。

でも、いつもの男のものじゃない。

少し間が空いて、また声がした。

「今日はやってる?」

やってる?

何を?

頭が追いつかない。

外の声は、遠慮なく続く。

「十字坡には、他に店が無くてねぇ。閉まってると困るんだよ」

十字坡――

その言葉が、頭の中に残った。

孫元。

十字坡。

店。

知らない言葉が増えていく。

知らないのに、外の声は当たり前みたいに言う。

ここは、ただの部屋じゃない。

ただの家でもない。

外から人が来る場所だ。

誰かが戸を叩く場所だ。

腹を空かせた人間が、当たり前みたいに寄る場所だ。

何かの店――

そう理解した瞬間、胸の奥が冷たくなった。

あの男は、父ちゃんで……

孫元で……

店の主で……

アタシは――

二娘。

喉の奥が詰まる。

知らない。

そんな場所は知らない。

そんな名前も知らない。

そんな男も知らない。

でも、外の声は知らないことを許してくれない。

当たり前みたいに、そこにあるものとして話している。

孫元さん。

十字坡。

店。

そして――

外の声が、少し近くなる。

「それで、二娘ちゃんはいるかい?」

孫二娘でございますよォ。

名前ってのは、逃げにくいねェ。

知らない男だと思っていた相手に、父ちゃんという呼び名がつく。

知らない場所だと思っていた部屋の外に、十字坡という名がつく。

知らない自分に、二娘という名がつく。

アタイが認める前から、周りはもう、そう呼んでいる。

嫌だと言っても、名前は先に居場所を作っちまうんだよォ。

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