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理由ができる

孫二娘でございま〜す。


知らない相手ってのは怖いよォ。

何を考えてるのかも、次に何をするのかも分からないからねェ。


じゃあ、少し分かるようになれば安心できるのかって?

普通なら、そうなんだろうね。


ところがアタイの場合、分かるたびに困ったことが増えていった。

毎日飯を持ってくるのも、水をくれるのも、アタイが怯えると困った顔をするのも、どうやらちゃんと訳があるらしい。

それが分かれば、世界は少しだけ筋が通る。


そして今回――

その全部に、一つの答えがついちまうんだよォ。

どれくらい経ったのか、もう分からない。

灯りの揺れ方だけが、毎日同じだった。

部屋は寒い。

でも、最初ほどじゃない。

身体を丸め、布団を首の近くまで引き寄せ、お腹へ膝を寄せる。

そうすると、少しだけ楽になる。

手をつく場所も、布団を引く高さも、膝を寄せる角度も、いつの間にか迷わなくなっていた。

――嫌だ。

最初の日は、身体を起こすだけで考えていた。

手をどこにつけばいいのか、床はどれくらい冷たいのか、布団を動かせば何が見えるのか……

その一つ一つが未知で、動くたびに何かを受け入れてしまう気がした。

今はもう違う。

寒ければ布団を引く。

腹が痛ければ膝を寄せる。

灯りを見なくても、テーブルがどこにあり、水の器がどの辺りに置かれるのか分かる。

覚えたくて覚えたわけじゃない。

でも、脳はそんな事情を考慮してくれない。

「人間の学習能力って、本人の許可いらないのよねえ……」

教壇からなら、それらしい顔で説明できた。

環境に適応することは、生存のために必要な機能です。

便利な言葉だ。

当事者には、だいぶ迷惑だけど……

外で床板が鳴った。

身体が強張る。

でも、頭の中ではもう別のことが起きていた。

昨日と同じ足音。

少し重くて、途中で一度だけ間が空く。

扉の前で止まる。

そこまで思ったところで、本当に音が止まった。

息が詰まる。

「……当てたくないんだけど」

鈍い音とともに扉が開いた。

男が入ってくる。

湯気の立つお椀と、水の器。

お椀を先に置いて、水を後に置く。

昨日と同じだった。

胸の奥がざわつく。

何が起きるか分からない状況は怖い。

でも、次に何が起きるか分かるようになることも、今のアタシには十分怖かった。

予測可能性が増えれば、不安は下がりやすい。

知っている。

専門だから。

「知識って、こういう時だけ仕事熱心なの何なの……」

男がこちらを見る。

少し困ったように眉を寄せた。

「……まだ怖ぇか」

返事が出ない。

怖い。

ただ、最初の日とは種類が違っている。

あの日は、この男が何をするのか分からなかった。

今は少し知っている。

飯と水を置き、こちらが身体を縮めればそれ以上は近づかない。

食べろと怒鳴ることもなく、最後にはだいたい「無理すんな」「腹減ったら食え」と言って出ていく。

そこまで思い出して、背筋が凍った。

男の行動を覚えている。

それどころか、もう予測している。

「……最悪」

男が首を傾げた。

「何だ?」

「何でもない……」

普通に返事をしてしまった。

まただ。

昨日より自然に言葉が出たことへ気づき、今度は自分で口を閉じる。

男は少しだけ目を見開いたが、それ以上追及しなかった。

その態度も、もう知っている。

問い詰めない。

待つ。

こっちから何かするまで。

それが分かるだけで、最初より身体が固まらなくなっている。

知りたくなかった。

この男のことなんて、何一つ。

男はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

「父ちゃん、何かしたか?」

頭の中で、何かが止まった。

「……父ちゃん?」

自分の声が、やけにはっきり聞こえた。

男の目が少し開く。

「喋ったな」

そこじゃない。

いや、確かに喋ったけど、今そこじゃない。

「父ちゃんって……」

男はますます困った顔をした。

「俺だよ」

あっさり言った。

まるで、説明する必要などないことみたいに。

当たり前だろう、とでも言うように。

アタシは男の顔を見る。

知らない。

何度見ても知らない男だ。

でも向こうは、アタシを知っている。

飯を持って、具合を気にして、怖がれば止まる。

そして今、自分を父親だと言った。

「ちょっと待って……」

情報量が急に増えた。

転生らしき現象だけでも、公認心理師試験の出題範囲を盛大に逸脱している。

十代半ばほどに見える知らない少女の身体に、知らない時代らしい部屋。

そこへ今度は、知らない父親まで追加された。

「世界観の説明、会話一個で済ませないでくれる?」

男にはもちろん通じなかった。

「何言ってんだ?」

「こっちの話……」

また答えてしまった。

それにも気づいたが、今はそれどころじゃない。

父親――

その言葉がついた瞬間、この男が昨日までとは違って見え始めた。

いや、男そのものは変わっていない。

変わったのは情報だ。

そして情報が、こちらの認識を変える。

親と娘――

その関係には、最初から大量の期待がくっついている。

親ならこうして、娘ならああする。

親子なら、この程度の距離は普通。

そこまで頭に浮かんで、ぞっとした。

「……役割って、ラベル一枚で勝手に増殖するのね」

講義で扱うなら、家族の中で与えられる役割やラベルが、相手への期待や見方までどう変えるのかを説明するところだった。

学生ならノートを取るところだ。

「アタシ本人を教材にするなっての……」

男が聞き取れなかったのか、少し近づいた。

身体が反射で縮む。

男はすぐ止まった。

その顔が曇った。

「……悪ぃ」

胸の奥が痛んだ。

やめてほしい。

本当に。

怒ってくれた方がまだ楽だった。

「父親なんだから言うことを聞け」とでも言われれば、反発できる。

勝手に触られれば、警戒できる。

でも、この男は怖がられたら止まる。

そして謝る。

「自己決定を尊重する父親とか、今いらないんだけど……」

公認心理師としてなら褒める。

娘の拒絶を無視しない。

無理強いしない。

距離を取る。

少なくとも、今ここで見ている範囲ではかなりまともだ。

だから困る。

悪い相手なら嫌えるのに。

男は俯き、少し間を置いてから言った。

「急に喋らなくなるし、怯えるし、飯も食わねぇし……」

言葉が途中で弱くなる。

「嫌われちまったのかと思った」

胸の奥が、また変なふうに痛んだ。

違う。

そうじゃない。

アンタを嫌ったんじゃない。

そもそも知らない。

昨日までのアタシには、現代の生活があった。

大学があった。

研究室があった。

学生がいて、姉さんがいた。

最後の電話まで覚えている。

『帰ったら連絡しなさいよ』

帰って、ちゃんと送った。

『帰った』

それが最後だ。

今ここで「父ちゃん」と名乗る男がどれだけ困った顔をしても、アタシの父親だと思えるわけがない。

そう思う。

なのに。

この身体の持ち主にとっては、違ったのかもしれない。

昨日までは普通にこの男を父と呼び、飯を食べ、言葉を返していたのかもしれない。

その日常を壊したのは――

そこで考えるのを止めた。

「いや、待って。アタシが罪悪感持つ案件じゃないでしょ」

状況が勝手すぎる。

転生の責任者がいるなら出てきてほしい。

話はそれからだ。

できれば責任の所在を明確にしたい。

姉さんなら、そこで喜びそうだった。

そんなことを考えた瞬間だけ、少し現代が近くなった気がした。

でも男の声ですぐ戻される。

「腹、まだ痛ぇのか?」

アタシは反射で腹を押さえた。

男の視線がそこへ落ちる。

しまった、と思う。

返事はしていない。

でも身体が答えてしまった。

男はテーブルのお椀を少しこちらへ寄せた。

湯気が揺れる。

胃が縮む。

喉が動く。

「少し食った方がいい」

命令ではない。

静かな声だった。

そこも前と同じ。

もう分かっている。

この男は、無理に食べさせない。

だから結局、決めるのはこちらになる。

「そこ、毎回いちばん困るのよ……」

男が聞き返す。

「何が?」

「何でもないって」

今度はほとんど普通に答えてしまった。

男が少し笑った。

ほんの少しだけ。

安心したように。

それを見た瞬間、胸の力が抜けた。

ほんのわずかだった。

それでも分かった。

アタシが返事をする。

男が安心する。

その表情を見て、アタシの緊張が少し下がる。

こちらが変われば、相手の反応も変わる。

その反応が、またこちらへ返ってくる。

相互作用。

「実演講義、延長しなくていいんだけど……」

誰も受講していないのに、教材だけが充実していく。

男は匙を取った。

アタシの指に力が入る。

自分で食べろと言われると思った。

でも、手へ力が入りにくいのを見たらしい。

男は粥を少しすくい、湯気を確かめてから息を吹きかけた。

一瞬、何をしているのか分からなかった。

すぐに分かった。

冷ましている。

「いや、そこまで弱って見える?」

声に出したつもりはなかった。

「見える」

即答された。

地味に傷ついた。

現代では男子学生から「姐さん助教」なんて勝手に呼ばれ、廊下を歩けば妙に視線を集めた女が、今は父親らしき男から「一人で粥を食べるのも怪しい人」認定されている。

人生の落差がひどい。

「キャリアの下落幅がでかすぎるでしょ……」

「また変なこと言ってんな」

「放っといて」

会話になっている。

その事実へ気づいた瞬間、笑えなくなった。

男の方も、アタシが返事をするたび少しずつ表情を緩めている。

昨日までは、ほとんど一方的に話しかけられていた。

今日は違う。

アタシが返している。

この場所で。

父親だと名乗った男に。

男は匙を傾け、また少し冷ました。

次に何をするのか、分かった。

差し出す。

そう予測した。

本当に差し出された。

「まだ少し熱いぞ」

また当たった。

胸の奥が冷える。

予測できる。

この男の動きが。

それだけじゃない。

次に何を言いそうかまで、少し分かる。

次に言うのも、たぶん「無理すんな」とか「少しだけでいい」とか、そんなところだろう。

人は予測できる相手に対して警戒を下げやすい。

不確実性が減るから。

知識が、また勝手に説明を始める。

「頼んでないってば……」

男は匙を持ったまま待っている。

急かさない。

それも予測通り。

アタシは湯気を見る。

温かい。

匂いも、もう知っている。

昨日までの「知らない食べ物」ではない。

何度か口へ入れて、死ななかった。

水もそうだった。

安全だった経験が積み上がっている。

さらに今は、持ってきた男が「父親らしい」という情報まで加わった。

安全だとは断定できない。

信頼もしていない。

それでも、完全な未知ではなくなっている。

「情報が増えるほど逃げにくくなるとか、仕様が悪すぎるでしょ……」

講義なら、知ることは対処につながると言える。

今は逆だ。

知れば知るほど、この場所に理由ができる。

この男が飯を持ってくる理由。

水をくれる理由。

怖がれば止まる理由。

毎日ここへ来る理由。

父親だから。

その説明が成立してしまう。

そしてアタシには、その相手に対する役割が用意されている。

娘――

その一文字が、嫌になるほど重かった。

男が静かに言った。

「少しだけでいい」

予想した通りだった。

心臓が跳ねる。

当たったことが怖い。

でも、その声に最初ほど身体は強張らない。

もっと怖い。

問題は、どこで止めるかです。

昔の助教の声が戻る。

止めるなら、今なのかもしれない。

昨日は水を飲んだ。

今日は男が父親だと知った。

この匙を受け入れれば、また一つこの場所での「普通」が増える。

父親から食事をもらう。

父親の前で飯を食う。

この身体にとって、もしかしたら何年も続いていた普通。

アタシにとっては、今日初めて知った役割。

布団を握る。

拒否すればいい。

顔を背ければいい。

そう考えている。

なのに腹が鳴った。

男は笑わなかった。

何も言わない。

匙を少し離すこともしない。

ただ待つ。

決めるのはアタシ。

まただ。

「……本当に性格悪いわね、この状況」

「俺がか?」

「アンタじゃない」

「じゃあ誰だ?」

「アタシが知りたい」

男が困ったように黙った。

そのやり取りが、少しだけ普通の会話みたいだった。

そう思った瞬間、背筋が寒くなる。

普通にしないで。

普通にならないで。

ここは知らない場所で、この男は知らない人で、アタシは本当は――

現代の自分を思い出そうとする。

教壇や研究室、男子学生が妙に前列へ集まっていた講義室が浮かんだ。

「先生の話が聞きやすいんです」

「後ろまでマイク通ってるけど?」

あの時は笑えた。

大人の身体で、自分の仕事をしていた。

姉さんと電話をして、帰宅して、眠った。

そこから先がない。

代わりに今あるのは、湯気の立つ粥と、匙を持つ父親らしき男だった。

目の奥が熱くなる。

男が気づいたのか、少しだけ匙を下げた。

「やっぱ無理か?」

違う。

その言い方をされたら、またこちらが選ぶことになる。

アタシは男を見る。

昨日までは顔を見るだけでも怖かった。

今も怖い。

でも、その顔が困っていると分かる。

何をしようとしているのかも分かる。

分かってしまうから、完全には拒絶できなくなっている。

これが順応なら、教科書はずいぶん簡単に書いてくれたものだと思う。

「環境に適応する」なんて一行で済ませないでほしい。

実際には、知らなかったものが一つずつ分かるものになり、そのたびに拒絶する理由が少しずつ削れていく。

そして本人は、まだ自分は変わっていないと思いたがる。

アタシみたいに。

「……最悪」

また呟く。

男は何も言わなかった。

ただ匙を少し持ち直す。

湯気が頬へ触れる。

胃が縮む。

喉が動く。

講義の言葉より先に、身体が答えていた。

止めたい。

昨日までなら逃げていた。

いや、最初の日なら、こんな距離まで近づけさせなかった。

今は違う。

この男が何をするか知っている。

そして、この匙の中身が何なのかも知っている。

温かいものが近づいた。

前なら逃げていた。

今は、逃げる前に喉が動いた。

孫二娘でございますよォ。


知らない男なら、怖がっていればよかったんだよ。


ところが「父ちゃん」なんて名乗られた途端、話が面倒になった。

アタイが返事をすれば安心して、怯えれば距離を取り、腹が減っていれば黙って粥を冷ます。

悪党なら、もっと分かりやすく悪党らしくしてほしいもんだねェ。


しかも困ったことに、こっちまで普通に口を利き始めてる。

あれだけ拒んでいたくせに、気づけば会話が成立していた。

人間関係ってのは、許可も取らずに始まるらしい。


さて――

次に怖いのは、あの男じゃない。

アタイが、あの男を何と呼ぶようになるかだよォ。

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