空腹の境界線
講義を聞いていた時は、正直、他人事だった。
人は環境で変わる。
役割を与えられれば、それに従う。
そういう話を聞いても、 どこかで“でも、自分は違う“と思っていた。
嫌なことは嫌だと言える。
越えたくない線は、自分で決められる。
そう信じていた。
今は、空腹が痛い。
寒さも、喉の渇きも、 考えるより先に身体へ入ってくる。
それだけで、 少しずつ、何かが削れていく気がする。
まだ、変わってなんかいない。
そう思いたい。
眠ったのかも分からない。
目を開けても、部屋は暗いままだ。
灯りだけが、小さく揺れている。
お腹が痛い。
最初とは違う。
空いている、じゃない。
鈍く掴まれているみたいに痛い。
身体を丸めると、少しだけ楽になる。
でも、すぐ戻る。
喉が鳴る。
もう驚かない。
そのことに、少し遅れて気付く。
――嫌だ。
テーブルを見る。
お椀はもう空だった。
いつ食べたのか、一瞬分からなくなる。
違う。
昨日だ。
冷え切ったやつを、少しだけ口に入れた。
思い出した瞬間、胃が動く。
気持ち悪い。
布団を被る。
暗い。
でも、お椀の場所は分かる。
灯りの位置も。
扉の位置も。
分かってしまう。
外で音がする。
床板が鳴る。
身体が強張る。
耳が勝手に音を追う。
止めたい。
でも止まらない。
昨日と同じ足音が、近づいてくる。
胸がざわつく。
怖い。
怖いのに、 来る前から分かってしまう。
扉の前で音が止まる。
息を止める。
鈍い音。
扉が開き、男が入ってくる。
今日は何も言わない。
静かにお椀を置く。
湯気が立つ。
匂いが広がる。
その瞬間、 胃が痛いくらい縮む。
男は少しだけこちらを見る。
「……まだ食えねぇか」
返せない。
男は無理に近づいてこない。
昨日と同じ場所へ座る。
沈黙だけが続く。
お腹が鳴り、部屋に響く。
男は何も言わない。
それが余計につらい。
目を閉じる。
でも、匂いが消えない。
熱の気配が残る。
身体が勝手にそちらを向こうとする。
――嫌だ。
頭の中で、講義の声が浮かぶ。
「人は環境や役割の影響を強く受ける」
違う。
これは違う。
アタシは変わってない。
そう思う。
でも、 講義の内容より先に、 お椀の匂いを考えている自分に気付く。
息が止まる。
――嫌だ。
男が小さく息を吐く。
「無理すんな」
静かな声。
怒っていない。
責めてもいない。
それなのに、その声が耳に残る。
男はしばらく座っていたが、 やがて立ち上がる。
「腹減ったら食え」
昨日と同じ言葉。
鈍い音。
扉が閉まる。
部屋が静かになる。
視線が、ゆっくりテーブルへ向く。
湯気が揺れている。
目を逸らす。
でも、少しするとまた見てしまう。
それを何度も繰り返す。
どれくらい経ったのか分からない。
お腹が痛い。
寒い。
頭がぼんやりする。
講義の内容が遠い。
教授の顔も、教室も、スマホの画面も、上手く思い出せない。
なのに。
お椀の位置だけは、はっきり分かる。
――それが怖い。
どれくらい経ったのか分からない。
灯りは小さいまま揺れている。
部屋は寒い。
身体が重い。
起き上がろうとすると、頭が揺れる。
気持ち悪い。
喉が渇く。
お腹が痛い。
もう、空腹なのかどうかも分からない。
ただ、ずっと痛い。
身体を丸めると、少しだけ楽になる。
でも、すぐ戻る。
息を吐くのも辛い。
視線がテーブルへ向く。
お椀。
まだ湯気がある。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
でも、まだ温かいんだと思った瞬間、喉が鳴る。
反射みたいに。
その音に、自分で怯える。
――嫌だ。
目を閉じる。
でも、匂いが残る。
熱の気配が分かる。
頭がぼんやりする。
講義の内容を思い出そうとする。
教授の声。
教室。
ノート。
スマホ。
コンビニ。
上手く繋がらない。
思い出そうとすると、途中で、お椀の匂いが入ってくる。
息が詰まる。
――違う。
こんなの。
違う。
アタシは――
お腹が鳴る。
もう、小さくない。
痛い。
胃が縮む。
身体が勝手に熱を探している。
それが分かる。
分かってしまう。
怖い。
外で音がする。
床板が鳴る。
身体が強張る。
耳が勝手に音を追う。
昨日と同じ。
近づいてくる。
扉の前で止まる。
息を止める。
でも、前みたいに、“誰か分からない怖さ“じゃない。
昨日の男だと分かってしまう。
そのことに、背筋が冷える。
鈍い音。
扉が開く。
男が入ってくる。
視線が合う。
男は少しだけ眉を寄せる。
「顔色悪ぃな」
返せない。
声を出す力がない。
男はテーブルのお椀を見る。
まだ残っている。
男は何も言わない。
怒らない。
ただ、少し考えるみたいに黙る。
それが逆につらい。
男は近づいてくる。
反射で身体が縮む。
でも、逃げる力が入らない。
男がしゃがむ。
「水、飲めるか」
分からない。
でも、 喉が渇いているのは分かる。
男が器を差し出す。
水が揺れる。
その瞬間、身体が反応する。
喉が熱いくらい渇く。
――嫌だ。
違う。
こんなの。
でも、 目が離せない。
男は少しだけ待つ。
急かさない。
器を持ったまま、黙っている。
水が小さく揺れる。
灯りが映る。
喉が痛い。
唾を飲もうとしても、上手く飲み込めない。
身体が水分を欲している。
分かる。
それが怖い。
「……飲むか」
静かな声。
返せない。
でも、 目だけが器を追う。
透明な水。
ただの水だ。
そう思う。
なのに、 喉が勝手に反応する。
熱い。
渇いている。
頭がぼんやりする。
男が少しだけ器を近づける。
反射で身体が強張る。
でも、 逃げようとしても力が入らない。
器が近い。
水の匂いがする。
その瞬間、 喉が鳴る。
自分の音なのに、 知らないみたいに大きい。
――嫌だ。
男は何も言わない。
ただ待っている。
その沈黙が苦しい。
違う。
飲みたいわけじゃない。
ただ、 喉が渇いているだけだ。
それだけ。
頭の中で、 講義の声が浮かぶ。
「人は環境や役割の影響を強く受ける」
違う。
これは違う。
アタシは――
喉が焼けるみたいに痛む。
思考が切れる。
身体が動く。
ほんの少しだけ。
気付いた時には、 唇が器へ近づいている。
息が止まる。
――違う。
止まりたい。
でも、 喉が先に動く。
唇に水が触れる。
冷たい。
その瞬間、 身体が震える。
少しだけ口へ入る。
水だ。
ただの水。
なのに、 喉が勝手に飲み込む。
身体の奥へ落ちていく。
熱いみたいに感じる。
目の奥が熱くなる。
――飲んだ。
自分で。
男は何も言わない。
ただ、 少しだけ息を吐く。
その音が耳に残る。
アタシは器から離れる。
呼吸が上手く出来ない。
違う。
こんなの。
違う。
でも、 喉の痛みだけが、 少しだけ消えている。
喉の奥が、少しだけ楽になる。
さっきまで焼けるみたいに痛かったのに、 今は違う。
呼吸が通る。
そのことに気付いた瞬間、 背筋が冷える。
――嫌だ。
違う。
ただ、水を飲んだだけだ。
それだけ。
でも、 身体ははっきり覚えている。
冷たさ。
喉を通った感覚。
身体の奥へ落ちていった感触。
思い出した瞬間、 喉が小さく動く。
息が詰まる。
――嫌だ。
男はまだしゃがんだまま、 こちらを見ている。
何も言わない。
それが逆につらい。
褒めない。
責めない。
急かさない。
ただ、 静かに見ている。
アタシは視線を逸らす。
でも、 器だけは見えてしまう。
水が少し残っている。
灯りが揺れている。
喉が熱い。
身体が、 もう一口を欲してしまう。
――違う。
違う。
飲みたいわけじゃない。
ただ、 少し楽になっただけだ。
頭の中で、講義の声が浮かぶ。
「人は環境や役割の影響を強く受ける」
教授の顔を思い出そうとする。
でも、 上手く浮かばない。
代わりに、 唇へ触れた水の冷たさが先に浮かぶ。
息が止まる。
――嫌だ。
男が小さく息を吐く。
その音に、 身体が反応する。
びくっと肩が跳ねる。
でも、 逃げる力が入らない。
身体が重い。
男はゆっくり立ち上がる。
「少しは飲めたな」
静かな声。
怒っていない。
安心したみたいでもない。
ただ、 確かめるみたいな声。
アタシは返せない。
声が出ない。
男は器を置く。
「無理すんな」
昨日と同じ言葉。
鈍い音。
男が立ち上がる。
扉へ向かう。
その背中を、 目で追いそうになった瞬間、 息が止まる。
――嫌だ。
違う。
こんなの。
違う。
でも、 喉の奥だけは、 さっきより少し楽だった。
喉が渇く。
お腹が痛い。
寒い。
それだけの事なのに、 身体は、勝手にそっちを優先し始める。
講義で聞いた言葉を、 何度も思い出そうとした。
でも、 教授の顔より先に、 水の冷たさや、湯気の匂いが浮かんでしまう。
それが、怖い。
まだ、何も受け入れてなんかいない。
そう思っている。
でも、 “少し楽になった” を、身体が覚えてしまった。




