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安全だった

孫二娘でございま〜す。


知らない場所で、知らない男から飯を出された。

昨日のアタイなら、それだけで全部が怖かったんだよォ。


ところが一晩も経つと、足音を聞けば誰が来たか分かるし、湯気を嗅げば昨日と同じ粥だと分かる。


人間の脳って優秀だねェ。

頼んでもいないのに、勝手に覚える。

しかも困ったことに、怖いものまで「昨日と同じ」にしてくれる。


そして今回は、その男が水を持ってきた。

ただの水だよォ。

飲んだって何も変わらない。


――本当に、何も変わらないならねェ。

目が開いていた。

いつ開けたのか分からない。

眠っていたのかも分からない。

暗い――

灯りだけが、まだ揺れている。

お腹が痛かった。

最初とは違う。

空っぽで鳴る痛みじゃない。

お腹の中を掴まれて、ゆっくり捻られているみたいな痛みだった。

身体を丸めると、少しだけ楽になる。

でも、すぐ戻ってしまう。

息を吐くと、喉が鳴った。

もう驚かなかった。

驚かなかったことに、少し遅れて気付いた。

――嫌だ。

テーブルを見ると、お椀は空になっていた。

一瞬、誰かに食べさせられたのかと思った。

でも違う。

昨日、男がいなくなったあと、自分で匙を持った。

冷え切ったものを少しずつ口へ運び、いつの間にか底が見えるところまで食べていた。

思い出した途端、胃のあたりがきゅっと縮む。

「……食べたんだ」

確認する必要なんてないのに、声に出してしまった。

誰にも強制されていない。

脅されてもいない。

空腹に耐えきれず、自分で食べた。

それだけのことなのに、まるで何か重大な契約書へ署名してしまったような気分だった。

心理学者として考えるなら、こんなのは大げさだ。

食事は生命維持に必要な行動で、危険が確認されていない以上、昨日の選択に異常なところはない。

むしろ食べずに衰弱する方が問題だし、知らない環境に置かれた人間が安全そうなものから利用を始めるのも不自然ではない。

そこまで考えて、嫌になった。

「自分への説明だけ、やたら上手いじゃん……」

認知的不協和を減らす時、人間は自分の行動に合う理由を作る。

講義で何度も話した。

まさか実演担当が自分になるとは思わなかった。

布団を頭まで被ると、視界は暗くなった。

それでも、テーブルがどこにあり、扉がどこにあって、灯りがどの高さにあるのか分かる。

昨日は全部、知らないものだった。

今日は見なくても分かる。

たった一晩で、部屋の配置を覚えている。

普通なら便利な学習能力だ。

今だけは、脳に余計な仕事をしないでほしかった。

外で床板が鳴った。

身体が先に強張る。

足音はゆっくり近づき、扉の前で止まった。

昨日と同じだ。

そう思った瞬間、別の恐怖が背中を這った。

足音だけで、あの男だと分かった。

顔を見る前から、誰が来るのか予測できている。

「……早いって」

何が早いのかは、自分でも分かっている。

こんな場所に慣れ始めるのが早すぎる。

鈍い音を立てて扉が開き、男が入ってきた。

男はまずアタシを見て、それからテーブルの上へ視線を動かした。

空のお椀。

ほんの少し、男の目元が緩んだ。

「……食えたのか?」

胸の奥が詰まる。

返事をしたくない。

けれど、食べたという事実は目の前に置かれている。

言葉にしなくても、空のお椀が全部答えてしまっていた。

男は褒めなかった。

「偉い」とも「よかった」とも言わない。

ただ空のお椀を取り、新しいものを置いた。

白い湯気が上がった。

昨日より先に、匂いが分かった。

粥だ。

そこで息が止まった。

昨日は「知らない食べ物」だったはずなのに、今日は匂いだけで昨日と同じものだと判断している。

分類まで済ませている。

「……頼んでないのに学習が進むわね」

小さく呟いたが、男には聞こえなかったらしい。

いや、聞こえても意味が分からないだろう。

知らない少女が突然「学習が進む」とか言い始めたら、アタシなら別の意味で心配する。

男がこちらを見る。

「今日は、無理そうか?」

返事をせず、布団を握った。

男は近づいてこなかった。

昨日と同じ場所に座り、それ以上何も言わない。

沈黙が続く。

やがて腹が鳴った。

嫌になるほど大きかった。

男は聞こえたはずなのに、何も言わない。

それがつらい。

もし「腹減ってるんだろ、食え」と言われたなら拒否する理由ができる。

強制されたから嫌だ、と相手へ反発できる。

でも、この男は待つだけだ。

決めるのはこちら。

この状況、心理学的に一番嫌なやつじゃない?

アタシは顔を伏せた。

粥の匂いが鼻へ入る。

意識して息を浅くしても、匂いまでは止められない。

身体が温かいものを認識し、胃が勝手に反応する。

「無理すんな」

男が言った。

静かな声だった。

その瞬間、昨日と同じだと思ってしまった。

昨日も、この男は無理に近づかなかった。

昨日も、腹が減ったら食えと言って出ていった。

昨日も――

そこで考えるのをやめた。

昨日と今日を比較している時点で、すでにこの場所で時間を積み始めている。

男はしばらく座っていたが、やがて立ち上がった。

「腹減ったら食え」

やっぱり昨日と同じ言葉だった。

扉が閉じる。

アタシはしばらく動かなかった。

テーブルでは、まだ湯気が揺れている。

目を逸らしても、少し経つとまた見てしまう。

何度か繰り返しているうちに、どれくらい時間が過ぎたのか分からなくなった。

腹の痛みは消えない。

寒さもある。

頭までぼんやりしてきた。

現代のことを考えようとする。

大学。

研究室。

学生。

スマホ。

姉さん。

最後に話した声を思い出したかった。

『ちゃんと夕飯食べるのよ』

そこで、目の前の粥の匂いが入り込んだ。

「……姉さん、タイミング悪すぎ」

笑えない。

夕飯を食べろと言われた翌日に、こんな場所で飯を拒否している。

もし姉がここにいたら何と言うだろう。

食べられるものなら食べなさい、と言うかもしれない。

その想像をした瞬間、慌てて頭から追い出した。

駄目だ。

姉まで、自分を説得する材料に使い始めている。

人間の脳、本当に仕事が早い。

講義なら学生にそう説明して笑えたかもしれないが、今は自分の頭の中で起きている。

気持ちが悪い。

身体を丸める。

少しだけ痛みが和らぎ、また戻る。

喉も渇いていた。

昨日から、ほとんど何も飲んでいない。

そこに気付いた途端、今まで意識していなかった渇きが一気に前へ出てきた。

舌が口の中へ張りつくような感覚まで気になる。

「気付いたら悪化するの、何なの……」

注意を向けることで感覚が強調される。

そんな説明まで頭に浮かぶ。

知識が全部、今のアタシを実況するためだけに働いていた。

講義料を返してほしい。

誰に言えばいいのか分からないけど……

外で床板が鳴った。

今度は驚くより先に、「来た」と思った。

そのことの方が怖かった。

足音が近づき、扉の前で止まる。

もう誰なのか分かっている。

扉が開くと、やはり昨日から何度も見ている男だった。

男はアタシの顔を見るなり眉を寄せる。

「顔色悪ぃな」

返事をする力がなかった。

男の視線がお椀へ向かう。

ほとんど減っていない。

怒られるかと思った。

でも男は何も言わなかった。

ただ、お椀を見てからアタシへ視線を戻し、少し考えるような顔をした。

それから近づいてくる。

身体は反射的に縮んだが、昨日ほど大きく動けなかった。

逃げるだけの力が残っていない。

男がしゃがむ。

「水、飲めるか」

差し出された器の中で、水が揺れていた。

灯りが映っている。

その瞬間、視線が止まった。

喉が痛い。

さっきまで我慢できていたはずなのに、水を見た途端、渇きが形を持ったみたいに苦しくなる。

「……飲むか?」

男は器を少し近づけた。

アタシは返事をしなかった。

返事をしなかったのに、目だけは水を追っていた。

男もそれに気付いているはずだ。

なのに急かさない。

無理に口元へ押しつけもしない。

ただ待っている。

またこれだ。

選ぶのはアタシ。

「そういうの、一番困るんだけど……」

声になったかどうかも分からない。

もしこの男が命令してくれたら、まだ責任を押しつけられる。

飲めと言われた。

仕方なかった。

そう言える。

でも男は何も言わない。

ただ器を持って待っている。

公認心理師としては、その態度の方が相手の自己決定を尊重していると評価するところだ。

「今だけ尊重しないでよ……」

自分でも無茶苦茶だと思う。

男が少し眉を寄せた。

「何だ?」

「……何でもない」

昨日より自然に返事をしてしまった。

言ってから気付く。

昨日はほとんど話せなかった。

今日は、この男へ返事をした。

また一つ増えた。

昨日は食べ、今日は足音や粥の匂いを覚え、この男へ自然に返事までしてしまった。

そこまで頭の中で数えたところで、怖くなってやめる。

こんなものを尺度にしたくない。

器の水が揺れる。

喉が焼けるように痛い。

講義室で学生へ言った言葉が蘇った。

小さな要求を一つ受け入れて、その次を受け入れて、そのたびに理由を作っていたら――

「いや、水だから」

思わず口に出た。

男がまた首を傾げる。

そうだ。

ただの水だ。

昨日は食事。

今日は水。

命令でも犯罪でもない。生きるために必要なものを口へ入れるだけだ。

そこまで理屈を組み立ててから、自分でぞっとした。

また説明している。

自分が次にすることを、自分自身へ納得させようとしている。

止める場所を探しているのではない。

進んでもいい理由を探している。

「……助教、これ試験に出ましたっけ?」

昔の助教に聞いても答えは返ってこない。

目の前にいる男も、もちろん答えない。

水だけが揺れていた。

喉が鳴る。

男は待っている。

どれだけ待つつもりなのか分からない。

やがて痛みが思考を押し退けた。

ほんの少し身体が前へ傾く。

止めようと思う。

なのに喉の方が早い。

器へ唇が近づく。

冷たい水が触れた。

身体が震える。

一口だけ入った水を、喉が勝手に飲み込んだ。

冷たさが身体の内側へ落ちていく。

楽になった。

その事実が、一番怖かった。

喉の痛みが和らいだ――

嫌な状態が消えれば、その直前の行動は強化される。

「……負の強化まで実演しなくていいんだけど」

そこまで理解した瞬間、泣きそうになった。

「……最悪」

水を飲んだだけなのに……

男は何も言わない。

器を引くこともせず、まだ持っている。

水は残っている。

喉も、まだ乾いている。

さっきの一口が冷たかったことを、身体がもう知っている。

もう一口飲めば、もっと楽になる。

その予測までできてしまう。

昨日まで何も知らなかった場所で、名前さえ知らない男の手から受け取った水を、身体はもう「安全だった」と覚えてしまった。

それを専門用語で説明できてしまう自分が嫌だった。

男が小さく息を吐いた。

その音に、身体が反応する。

肩が跳ねる。

でも、逃げる力が入らない。

身体が重い。

男はゆっくり立ち上がる。

「少しは飲めたな」

静かな声だった。

怒っていない。

ただ、水の減った器を見ていた。

アタシは返せない。

声が出ない。

男は器を置いた。

「無理すんな」

昨日と同じ言葉。

鈍い音。

男が立ち上がる。

扉へ向かう。

その背中を、目で追いそうになった。

息が止まる。

違う。

こんなの。

違う。

でも、喉の奥だけは、さっきまでより少し楽だった。

孫二娘でございますよォ。


水を一口飲んだだけで、ずいぶん大げさだと思うだろ?

アタイもそう思うよォ。


でもねェ、怖かったのは水じゃない。

飲めば喉が楽になるって、身体の方が先に覚えちまったことさ。


それだけなら、まだよかった。

あの男が立ち去る時、アタイはその背中を目で追いそうになった。

まだ名前も知らない。

信用した覚えもない。


なのに、あの男が来れば何が起きるのか、少しずつ予測できるようになっていた。


人間ってのは、不思議だねェ。

怖い相手でも、分かる相手になれば少しだけ楽になる。


さて――

次にアタイが覚えるのは、何だと思う?

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