どこで止めるか
孫二娘でございま〜す。
今から話すのは、まだアタイが「母夜叉」なんて呼ばれるより、ずっと前の話だよォ。
この頃のアタイは公認心理師の資格を持った大学助教。
学生には人間の心だの環境だのを偉そうに教えて、男子学生には勝手に「姐さん助教」なんて呼ばれてた。
人は環境で変わる――
もちろん知ってたよォ。
専門だからねェ。
だから、自分だけは変わっても気づけると思ってた。
……知識があることと、止められることは別なんだけどさ。
その日の夜まで、アタイはまだ、それを教える側だったんだよォ。
大学の講義で、人は環境で変わると聞いた。
役割を与えられると、人はそれに従う。
看守は看守らしく、囚人は囚人らしく振る舞う。
スライドが切り替わる。
助教の声は淡々としていた。
特別な怪談を聞いている感じではなかった。
「まあ、そうだよね」
隣の席の子が小さく笑った。
「極端だけどさ、分かるよね」
アタシは頷いた。
仕組みとしては分かる。
人は場に合わせる。
求められた役を、いつの間にか演じる。
助教は言った。
「問題は、どこで止めるかです」
スライドの文字が変わる。
「もちろん、この実験には批判も多いですが」
「人は環境や役割の影響を強く受ける」
「その傾向自体は、今でも否定しきれません」
どこで止めるか?
一瞬だけ考えた。
止められるに決まっている。
環境がどうであれ、線は引ける。
引くべきだと思っていた。
ノートに書く。
環境依存――
少し迷って、下に書き足す。
責任の所在は曖昧になる。
そこまで書くと、興味が薄れた。
隣の子が小さくため息をつく。
「でもさ、やらされる側も悪いよね」
アタシは肩をすくめた。
否定はしなかった。
自分には関係ない。
チャイムが鳴る。
椅子が引かれる。
教室がざわめき始める。
ノートを閉じると、乾いた音がした。
それだけが、妙に耳に残った。
講義が終わり、アパートに帰った。
途中でコンビニに寄る。
夕飯を済ませ、シャワーを浴びる。
ドライヤーで髪を乾かし、スマホを充電器につなぐ。
寝る前に、適当にSNSを見る。
画面の中では、知らない誰かが怒っている。
別の誰かが笑っている。
レポートのことを思い出した。
面倒だな…… 明日でいい。
そう思って、布団に入った。
部屋は暗い。
スマホの光だけが、しばらく瞼の裏に残っていた。
ふと、ノートを閉じた音を思い出す。
乾いた音と助教の声。
問題は、どこで止めるかです。
目を閉じる。
そのまま、深く沈んだ。
乾いた音だけが、消えなかった。
そこで目が覚めた。
見慣れた自宅の天井がある。
枕元ではスマホが充電され、カーテンの隙間から朝の光が差していた。
夢だった。
いや、夢というより昔の記憶だ。
大学生だった頃、本当に受けた講義だった。
あれから心理学を続け、公認心理師の資格を取り、大学院だの論文だの面倒なものを通り抜け、今では自分が大学で心理学を教えている。
よりによって、学生時代の講義を夢に見るとは……
「仕事しすぎかな……」
そう呟きながら起き上がった。
その日の午後、アタシは教壇に立っていた。
講義室の前方には、いつもの顔ぶれが妙に密集している。
履修者の男女比そのものはそこまで偏っていないのに、前二列だけ切り取ると男子学生の比率がおかしい。
理由は知っている。
学生が勝手に呼んでいる「姐さん助教」というあだ名も知っているし、講義のない日にまで研究室の前を通る男子がいることも知っている。
自分の顔や身体が男の目を引くらしいことくらい、この年まで生きていれば分かる。
だからといって、単位まで色気で配るつもりはない。
「そんな前に座っても、試験の点は上がらないわよ」
笑いが起こった。
一人の男子学生が、「先生の話が聞きやすいんです」と苦しい弁解をする。
「後ろまでマイク通ってるけど?」
また笑いが起きた。
スライドを切り替えると、さっきまで緩んでいた空気が少し変わった。
「今日は、環境と役割の話をします。有名な監獄実験を扱いますが、先に言っておくと、昔みたいに『人は役割を与えられれば自然に残酷になることが証明された』なんて覚え方はしないでください。実験そのものには、かなり大きな批判があります」
学生たちがノートを取る。
昔の自分が座っていた側を見ながら話しているのが、妙な感じだった。
「ただし、人が状況や役割、権威、集団から影響を受けることまでなくなったわけじゃありません。むしろ厄介なのは、本人が『自分で決めている』と思っている時です」
後ろの方で眠りかけていた学生が顔を上げた。
「これは監獄実験とは別に、権威への服従を扱った実験でも見えてくることですが、最初からとんでもないことを命じられたら拒否しやすい。でも、小さな要求を一つ受け入れて、その次を受け入れて、そのたびに理由を作っていたら、いつの間にか最初なら断った場所まで来ていることがあります」
そこで少し間を置いた。
「問題は、どこで止めるかです」
夢の中で聞いた声と、自分の声が一瞬重なった。
気持ちが悪い。
一番前の男子学生が手を挙げた。
「先生なら止められます?」
笑いそうになった。
「それ、心理学の質問?」
「もちろんです」
「今ちょっと間があったわね」
講義室に笑い声が広がる。
男子学生は耳まで赤くなった。
「じゃあ真面目に答えるけど、アタシだって分からないわよ」
予想外だったのか、学生たちが静かになる。
「専門知識があるから自分だけ影響を受けない、なんてことはありません。心理学を勉強すると人間を操れるようになると思ってる子もいるけど、そんな便利な資格じゃないからね」
「じゃあ公認心理師の資格があっても?」
別の学生が聞いた。
「知らない世界に放り込まれた時の対処法までは試験に出ないわ」
笑いが起きた。
自分でも、なぜそんな例えを出したのか分からなかった。
講義を終えて研究室へ戻り、学生からの相談とメールを片づけた頃には、窓の外が暗くなっていた。
帰宅途中、スマホが鳴った。
画面を見て、そのまま通話を取る。
「もしもし、姉さん?」
『今、帰り?』
聞き慣れた姉の声だった。
「そう……今日は講義」
『それは知ってる。大学助教なんだから』
「姉さん、たまにアタシを学生だと思ってない?」
『生活だけ見れば、学生の頃から大して変わってないもの。ちゃんと夕飯食べるのよ』
「公認心理師に生活指導して楽しい?」
『妹に言ってるの』
それを言われると弱い。
職場では学生に「先生」と呼ばれ、男子学生には妙に持ち上げられ、年下の教員から相談までされる。
けれど姉に電話をかけられれば、何歳になっても妹らしい。
『また男の学生に囲まれてたんじゃないでしょうね?』
「囲まれてない。自主的に前へ集まってるだけ」
『もっと悪いじゃない』
「アタシの責任じゃないって」
『そうやって責任の所在を曖昧にしない』
思わず立ち止まった。
「……姉さん、今日の講義聞いてた?」
『何の話?』
「いや、何でもない」
姉が向こうで笑った。
その声を聞きながら、コンビニへ寄るかどうか迷う。
『じゃあ、帰ったら連絡しなさいよ』
「子供じゃないんだから」
『知ってる。でも妹でしょう?』
「はいはい」
『おやすみ』
「まだ寝ないって」
『先に言っておくの』
「何それ」
少し笑ってから、通話を切った。
結局コンビニへ寄り、夕飯を買った。
帰宅してシャワーを浴び、髪を乾かし、スマホを充電器につなぐ。
姉へ「帰った」とだけ送り、ベッドへ入った。
昼間の講義を思い出す。
問題は、どこで止めるかです。
夢で聞いた言葉を、そのまま自分が学生へ話した。
偶然だろう。
そう思って目を閉じた。
次に目を開けた時、天井が低かった。
梁が見える。
最初は、まだ夢の続きを見ているのだと思った。
ところが鼻に入ってくる湿った木と土の匂いが妙に生々しい。
布団の感触も違う。
身体を起こした瞬間、視界の高さまでおかしいことに気づいた。
手を見る。
小さい。
腕も細い。
胸元へ触れ、脚を見下ろし、もう一度手を見る。
「……何これ」
声まで幼かった。
さすがに笑えない。
夢か、解離か、幻覚なのか?
身体表象そのものに異常が起きている可能性まで考えた。
けれど、目の前の梁も、小さくなった自分の身体も、何一つ消えてくれない。
最後に残ったのは、公認心理師として口に出すのが一番恥ずかしい仮説だった。
転生――
「資格、役に立たないにも程があるでしょ……」
廊下から足音が近づいてきた。
古い床板が軋む。
扉が開いた。
知らない男が入ってくる。
日に焼けた顔に太い腕。
見慣れない服を着た男は、アタシを見ると当然のように言った。
「起きたか?」
向こうはアタシを知っている。
その瞬間、喉が詰まった。
男が近づいて頭へ触れようとする。
反射的に身を引くと、男は困った顔をした。
「……どうした?」
怒っていない。
むしろ心配している。
それが余計に怖かった。
敵意なら危険と判断できる。
暴力なら逃げればいい。
けれど、知らない相手から向けられる親しさには、どう応じれば正解なのか分からない。
男は卓へ椀を置いた。
「腹、減ってるだろ?」
湯気と一緒に温かい匂いが広がった。
腹が鳴った。
こんな時でも胃袋は働くらしい。
「身体だけ適応早すぎない……?」
男が首を傾げた。
「何だ?」
言葉まで通じる。
怖い材料が一つ増えた。
男は椀を持ち、匙ですくったものを差し出した。
「ほら」
身を引く。
男の手が止まった。
「……食えねぇか」
無理に食べさせようとはしない。
今度は額へ触れようとしたので、それも避ける。
男は本気で分からないという顔をした。
そこで気づいた。
この身体の持ち主なら、避けなかった。
頭を撫でられることも、この男から食事を受け取ることも、きっと普通だったのだ。
アタシだけが、この場で要求されている役割を知らない。
役割――
昼間、自分が学生へ教えたばかりの言葉だった。
「……実習なら倫理審査通してよ」
もちろん誰も笑わない。
男はしばらくこちらを見ていたが、やがて椀を卓へ戻した。
「腹減ったら食え」
そう言って出ていく。
扉が閉じた。
一人になった途端、呼吸が浅くなった。
専門知識があれば恐怖を消せるわけではない。
不安反応だと理解していても、不安は不安だ。
むしろ自分の身体がどんな反応をしているのか分かるせいで、実況中継を聞かされているみたいだった。
卓を見る。
食べない方がいい。
何が入っているのか分からない。
相手の意図も、この場所も分からない。
その判断は正しい。
時間が経ち、椀から湯気が消えた。
すると、少しだけ近づきやすく感じた。
背筋が冷えた。
状況は何も変わっていない。
変わったのはアタシの方だ。
さっきまで「知らない食べ物だから食べない」と思っていたのに、もう「冷めているなら触れてもいい」に変わっている。
順応――
教壇から説明する時は、便利な言葉だった。
当事者になると、笑えない。
外から何かを引きずる音が聞こえた。
重いものが床を擦り、止まり、また動く。
男たちの声が混じり、そのあと何かを置くような鈍い音がした。
宿屋なのかもしれない。
料理屋なのかもしれない。
そう考えた直後、正常性バイアスという言葉が浮かんだ。
「知識が全部ホラー演出に回ってるんだけど……」
姉へ電話したくなった。
スマホはない。
姉の声も聞こえない。
ついさっきまで、「妹でしょう」と笑われていたのに……
その記憶だけが、急に遠く感じた。
先生なら止められます?
昼間の学生の声まで戻ってくる。
今なら答えられる。
知らないわよ。
人は、いきなり別人になるわけではない。
小さなことを一つ受け入れる。
その次も、「これくらいなら」と受け入れる。
後から理由を作り、自分で選んだと思いながら、その場所に合った人間になっていく。
その最初の一歩が、こんなものだとは思わなかった。
息を吐く。
身体を起こす。
自分で動いたことに、一瞬遅れて気付く。
止まる。
戻ろうとする。
腹が鳴る。
身体が動かない。
視線が、椀へ向く。
冷めている。
もう湯気はない。
怖くない。
そう思いたい。
震える手を伸ばす。
指先が、椀に触れた。
冷たい。
少しだけ安心する。
でも、そのまま引けない。
喉が鳴る。
匙を持つ。
知らない部屋。
知らない身体。
知らない食べ物。
なのに、口元まで運んでいる。
止めたい。
止まらない。
唇が触れる。
冷えていた。
少しだけ、口に入れる。
味がした。
身体が反応して、胃が動いた。
その瞬間、泣きそうになった。
食べている。
自分で。
部屋は静かだった。
誰もいない。
なのに、乾いた音だけが、まだ耳の奥に残っていた。
孫二娘でございますよォ。
いやァ、公認心理師でも腹が減れば飯は食う。
当たり前なんだけどねェ。
問題は、あの一口を「自分で選んだ」と分かってしまったことさ。
誰にも命令されてない。
脅されてもいない。
それでも身体は、知らない場所で生きる方へ勝手に動き始めた。
こういうの、教壇から眺めてるぶんには面白いんだよォ。
自分が教材になると、ちっとも笑えないけどねェ。
しかも、この時のアタイはまだ知らない。
椀を持ってきたあの男が誰なのか?
ここが、どこなのか?
そして――
自分が誰になったのかもねェ。




