乾いた音
環境で人は変わる。
そんな話を、大学の講義で聞いた。
役割を与えられれば、人はそれに従う。 看守は看守らしく、囚人は囚人らしく振る舞う。
でも、どこか他人事だった。
自分なら止められる。 線は引ける。
そう思っていた。
大学の講義。
人は環境で変わると聞く。
役割を与えられると、人はそれに従う。
看守は看守らしく、囚人は囚人らしく振る舞う。
スライドが切り替わる。
淡々とした説明。
特別な話ではない。
「まあ、そうだよね」と流す。
隣の席が小さく笑う。
「極端だけどさ、分かるよね」
頷く。
仕組みとしては分かる。
教授が言う。
「問題は、どこで止めるかです」
「もちろん、この実験には批判も多いですが」
「人は環境や役割の影響を強く受ける」
「その傾向自体は、今でも否定しきれません」
一瞬だけ考える。
どこで止めるか。
止められるに決まっている、と思う。
環境がどうであれ、線は引ける。
引くべきだと思っている。
ノートに書く。
「環境依存」
少しだけ考えて、書き足す。
「責任の所在は曖昧になる」
ペンを止める。
そこまで書いて、興味が薄れる。
隣が小さくため息をつく。
「でもさ、やらされる側も悪いよね」
肩をすくめる。
否定はしない。
――自分には関係ない。
チャイムが鳴る。
椅子が引かれる音。
ざわめき。
ノートを閉じる。
その音が、少し長く続く。
――耳に残る。
講義が終わり、アパートに帰る。
途中でコンビニに寄る。
夕飯を済ませ、シャワーを浴びる。
ドライヤーで髪を乾かす。
スマホを充電器につなぐ。
寝る前に、適当にSNSを見る。
画面の中では、知らない誰かが怒っていて、別の誰かが笑っている。
レポートのことを考えると面倒だな、と思う。
明日でいいや、と布団に入る。
部屋は暗い。
でも、スマホの光だけが残っている。
ノートを閉じた音が、ふと思い出される。
乾いた音。
教授の声。
「問題は、どこで止めるかです」
目を閉じる。
そのまま、深い眠りに落ちる。
――乾いた音だけが、消えない。
目を開けると、天井が低い。
梁が見える。
暗い。
――違う。
息を吸うと、空気が冷たい。
胸が軽いし、手が小さい。
視界を動かすと、距離感がおかしい。
息が詰まる。
――何これ。
起き上がると、床が冷たい。
ここはどこ。
なんで。
いつ。
頭が追いつかない。
喉が乾く。
声を出そうとしても出ない。
足音が近い。
身体が固まる。
扉が開くと、知らない男が入ってくる。
息が止まる。
でも、向こうは近づいてくる。
「起きたか」
怖い。
逃げたい。
でも――
身体が動かない。
男の手が頭に触れる。
反射で身を引く。
男が少しだけ眉を寄せる。
「……どうした」
温かい声を掛けてくる。
余計に怖い。
「腹、減ってるだろ」
声が出ない。
男はテーブルにお椀を置く。
湯気が立ち、匂いが広がる。
お腹が鳴る。
――あり得ない。
こんな状況なのに……
男はテーブルの向こうに座る。
「熱いから気をつけろ」
食べられない。
食べたくない。
喉が詰まる。
男は急かさない。
ただ、時々こちらを見る。
「具合悪いのか」
怖くて返せない。
男は少し困った顔をする。
お椀を持ち、少しだけ近づいてくる。
「ほら」
湯気が近い。
匂いが強くなる。
お腹が痛い。
身体が震える。
――嫌だ。
でも、身体が熱を欲しがっているのは分かる。
匂いが近い。
お腹が鳴る。
情けないくらい大きい音。
――嫌だ。
男がスプーンを少し近づける。
反射で身体が引く。
喉が閉まり、息が苦しい。
男が止まる。
少しだけ困った顔をする。
「……食えねぇか」
怒っていないし、責めてもいない。
それが余計に怖い。
男はスプーンをお椀へ戻す。
湯気だけが残る。
「熱あるのか……?」
独り言みたいに呟き、手が額へ伸びる。
また反射で身を引く。
男の手が止まる。
「どうしたんだ」
返せない。
声が出ない。
男はしばらく黙っている。
部屋が静かだ。
湯気だけが揺れている。
お腹が痛い。
空腹なのに、食べたくない。
怖い。
全部怖い。
男は小さく息を吐く。
「……まあいい」
お椀をテーブルへ戻す。
「腹減ったら食え」
無理に近づいてこない。
立ち上がると、灯りが少し揺れる。
男は扉の前で止まり、一度だけ、こちらを見る。
困っている顔だ。
鈍い音で扉が閉まる。
一瞬だけ――
ノートを閉じた音が浮かぶ。
違う、全然違う。
なのに、耳に残る。
部屋が静かになる。
息を吐く。
身体の震えが止まらない。
テーブルを見ると、お椀から湯気が立っている。
温かそうだ。
でも、近づけない。
横になっても、眠れるわけがないと思う。
でも、身体が重い。
講義、コンビニ、スマホにSNS……
思い出そうとしても、中々思い出せない。
ここだけが妙に近い。
男の声。
湯気。
温かさ。
知らないのに。
目を閉じる。
乾いた音だけが、消えない。
眠ったつもりはなかった。
でも、目を開けると、灯りが少し小さくなっている。
部屋はまだ暗い。
テーブルの上のお椀から、もう湯気は出ていない。
冷めている。
それだけで、少しほっとする。
温かくないなら、近づかなくていい。
そう思ったのに、お腹が鳴る。
さっきより小さい音。
でも、はっきり聞こえる。
――嫌だ。
身体を丸める。
何も考えたくない。
でも、考えてしまう。
ここはどこ。
この身体は誰。
あの男は誰。
どうして、私に普通に話しかけるの。
どうして、頭を撫でるの。
どうして、怖いのに温かかったの。
喉が詰まる。
泣きそうになる。
でも、涙は出ない。
目だけが熱い。
扉の外で、何かが動く音がする。
身体がまた固まる。
足音ではない。
何かを引きずるような低く重い音。
止まっては、また動く。
お腹が鳴る。
その音に、自分で驚く。
――今じゃないでしょ。
息を殺す。
外の音が近づく。
鈍い音。
床に何かが置かれたような音。
一瞬だけ、ノートを閉じた音が浮かぶ。
違う、全然違う。
でも、乾いている音。
耳の奥に残っている。
扉は開かない。
男の声もしない。
ただ、外で何かが動いている。
布団の中で、手を握る。
小さい手。
自分の手じゃない。
それなのに、痛みだけは本物だ。
爪が食い込み、痛い。
痛いのに、安心する。
これは分かる。
ここにいる。
分からない場所で。
分からない身体で。
でも、痛い。
それだけは、自分のものだと思える。
しばらくして、音が止む。
部屋が静かになる。
テーブルを見る。
お椀がある。
冷めたまま、そこにある。
食べない。
食べれない。
そう思う。
でも、目が離れない。
喉が鳴り、唾を飲み込む。
自分の音が大きい。
――嫌だ。
目を閉じる。
乾いた音だけが、まだ消えない。
どれくらい経ったのか分からない。
部屋は暗いまま、灯りだけが小さく揺れている。
目を閉じても眠れない。
でも、起き上がる気にもなれない。
空腹でお腹が痛い。
分かる。
それだけは分かる。
視線が、何度もテーブルへ向く。
冷めたお椀。
もう湯気はない。
怖くない。
そう思う。
でも、怖い。
あの男が触った。
あの男が持ってきた。
知らない場所の食べ物。
知らない。
何も分からない。
なのに、お腹だけが鳴る。
小さい音。
静かな部屋だと、やけに大きく聞こえる。
――嫌だ。
布団を被る。
暗い。
でも、お椀の場所だけ分かる。
見えていないのに、分かる。
喉が鳴り、唾を飲む。
身体が熱を欲しがっている。
嫌なのに。
怖いのに。
また、ノートを閉じた音が浮かぶ。
乾いた音。
講義。
教授の声。
「問題は、どこで止めるかです」
止められる。
そう思っていた。
でも今は、
お椀から目を逸らすだけで、精一杯だ。
息を吐く。
身体を起こす。
自分で動いたことに、一瞬遅れて気付く。
止まる。
戻ろうとする。
お腹が鳴る。
身体が動かない。
視線が、お椀へ向く。
冷めている。
もう湯気はない。
怖くない。
そう思いたい。
震える手を伸ばす。
指先が、お椀に触れる。
冷たい。
少しだけ、安心する。
でも、そのまま引けない。
喉が鳴る。
スプーンを持つ。
知らない部屋、知らない身体、知らない食べ物。
なのに、口元まで運ぶ。
止めたい。
止まらない。
唇が触れる。
冷えている。
少しだけ口に入れる。
味がする。
身体が反応して、胃が動く。
その瞬間、泣きそうになる。
――食べてる。
自分で……
部屋は静かだ。
誰もいない。
なのに――
乾いた音だけが、まだ耳の奥に残っている。
「自分なら大丈夫」
そう思っている時が、一番危ういのかもしれません。
環境は、急には人を変えません。
温かさや空腹みたいな、小さな当たり前から、少しずつ形を変えていく。
――まだ、その途中。




