乾いた音
孫二娘でございま〜す。
今から話すのは、まだアタイが孫二娘になる前の話だよォ。
十字坡の女将でもない。
包丁を握る女でもない。
客の顔を見て笑える女でもない。
ただ、大学の講義を聞いていた頃の話だねェ。
人は環境で変わる。
役割を与えられると、その役に寄っていく。
そんな話を、アタイは分かった気で聞いていた。
自分なら止められる。
線は引ける。
嫌なものは嫌だと言える。
そう思っていたんだよォ。
でも、机の上で分かることと、知らない身体で目を覚ますことは違う。
知らない部屋。
知らない男。
知らない声。
知らない食べ物。
それだけで、人は簡単に止まる。
今回は、十字坡の主になる前。
まだ何も分かっていなかったアタイが、最初の椀に手を伸ばしてしまう話だよォ。
大学の講義で、人は環境で変わると聞いた。
役割を与えられると、人はそれに従う。
看守は看守らしく、囚人は囚人らしく振る舞う。
スライドが切り替わる。
教授の声は淡々としていた。
特別な怪談を聞いている感じではなかった。
「まあ、そうだよね」
隣の席の子が小さく笑った。
「極端だけどさ、分かるよね」
アタシは頷いた。
仕組みとしては分かる。
人は場に合わせる。
求められた役を、いつの間にか演じる。
教授は言った。
「問題は、どこで止めるかです」
スライドの文字が変わる。
「もちろん、この実験には批判も多いですが」
「人は環境や役割の影響を強く受ける」
「その傾向自体は、今でも否定しきれません」
どこで止めるか。
一瞬だけ考えた。
止められるに決まっている。
環境がどうであれ、線は引ける。
引くべきだと思っていた。
ノートに書く。
環境依存――
少し迷って、下に書き足す。
責任の所在は曖昧になる。
そこまで書くと、興味が薄れた。
隣の子が小さくため息をつく。
「でもさ、やらされる側も悪いよね」
アタシは肩をすくめた。
否定はしなかった。
自分には関係ない。
チャイムが鳴る。
椅子が引かれる。
教室がざわめき始める。
ノートを閉じると、乾いた音がした。
それだけが、妙に耳に残った。
講義が終わり、アパートに帰った。
途中でコンビニに寄る。
夕飯を済ませ、シャワーを浴びる。
ドライヤーで髪を乾かし、スマホを充電器につなぐ。
寝る前に、適当にSNSを見る。
画面の中では、知らない誰かが怒っている。
別の誰かが笑っている。
レポートのことを思い出した。
面倒だな……
明日でいい。
そう思って、布団に入った。
部屋は暗い。
スマホの光だけが、しばらく瞼の裏に残っていた。
ふと、ノートを閉じた音を思い出す。
乾いた音と教授の声。
問題は、どこで止めるかです。
目を閉じる。
そのまま、深く沈んだ。
乾いた音だけが、消えなかった。
目を開けると、天井が低かった。
梁が見える。
暗い。
違う。
息を吸った瞬間、空気の冷たさに喉が詰まった。
少しだけ胸が軽い。
手も少し小さい。
視界の高さも、距離感もおかしい。
何これ――
起き上がると、床が冷たかった。
ここはどこ。
なんで。
いつ。
頭が追いつかない。
声を出そうとしても、喉が動かない。
足音が近づいてくる。
身体が固まった。
扉が開く。
知らない男が入ってきた。
息が止まる。
男は、こちらを見て言った。
「起きたか」
怖い。
逃げたい。
なのに、身体が動かない。
男の手が頭に触れた。
反射で身を引く。
男が少し眉を寄せる。
「……どうした」
温かい声だった。
それが余計に怖かった。
「腹、減ってるだろ」
返せない。
男は卓の上に椀を置いた。
湯気が立つ。
匂いが広がる。
その瞬間、お腹が鳴った。
あり得ない。
こんな状況なのに。
男は卓の向こうに座った。
「熱いから気をつけろ」
食べられない。
食べたくない。
喉が詰まる。
男は急かさなかった。
ただ、時々こちらを見る。
「具合悪いのか」
怖くて返せない。
男は少し困った顔をした。
椀を持ち、少しだけ近づいてくる。
「ほら」
湯気が近い。
匂いが強くなる。
お腹が痛い。
身体が震える。
嫌だ――
でも、身体が熱を欲しがっているのは分かった。
匂いが近い。
お腹が鳴る。
情けないくらい、大きい音だった。
男が匙を近づける。
反射で身体が引いた。
喉が閉まり、息が苦しくなる。
男の手が止まる。
「……食えねぇか」
怒っていない。
責めてもいない。
それが怖い。
男は匙を椀へ戻した。
湯気だけが揺れる。
「熱あるのか……?」
独り言みたいに呟き、手が額へ伸びる。
また身を引く。
男の手が空中で止まった。
「どうしたんだ」
返せない。
部屋が静かになる。
湯気だけが揺れている。
腹が痛い。
空腹なのに、食べたくない。
怖い。
全部怖い。
男は小さく息を吐いた。
「……まあいい」
椀を卓へ戻す。
「腹減ったら食え」
無理に近づいてこなかった。
男は立ち上がる。
灯りが少し揺れる。
扉の前で、一度だけこちらを見た。
困っている顔だった。
鈍い音で扉が閉まる。
その音に、ノートを閉じた時の音が重なった。
違う。
全然違う。
なのに、耳に残った。
部屋が静かになる。
息を吐く。
身体の震えは止まらない。
卓を見る。
椀から湯気が立っている。
温かそうだった。
でも、近づけない。
横になっても、眠れるわけがないと思った。
それなのに、身体は重い。
講義、コンビニ、スマホ、SNS。
思い出そうとしても、遠い。
ここだけが妙に近い。
男の声、湯気、温かさ。
知らないのに……
目を閉じても、乾いた音だけが、まだ消えていなかった。
眠ったつもりはなかった。
でも、目を開けると、灯りが小さくなっていた。
部屋は暗いまま。
卓の上の椀から、もう湯気は出ていない。
冷めている。
それだけで、少しほっとした。
温かくないなら、近づかなくていい。
そう思ったのに、お腹が鳴る。
さっきより小さい。
でも、はっきり聞こえた。
嫌だ――
身体を丸める。
何も考えたくない。
でも、考えてしまう。
ここはどこ。
この身体は誰。
あの男は誰。
どうして、アタシに普通に話しかけるの。
どうして、頭を撫でるの。
どうして、怖いのに温かかったの。
喉が詰まる。
泣きそうになる。
でも、涙は出ない。
目だけが熱い。
扉の外で、何かが動く音がした。
身体がまた固まる。
足音ではない。
何かを引きずるような、低く重い音。
止まって、また動く。
腹が鳴った。
その音に、自分で驚く。
今じゃないでしょ。
息を殺す。
外の音が近づく。
鈍い音。
床に何かが置かれたような音。
また、乾いた音を思い出した。
ノートを閉じた音。
講義の終わりのチャイム。
教授の声。
問題は、どこで止めるかです。
違う。
全然違う。
でも、耳の奥で混ざる。
扉は開かない。
男の声もしない。
ただ、外で何かが動いている。
布団の中で、手を握った。
小さい手だった。
自分の手じゃない。
それなのに、痛みだけは本物だった。
爪が食い込み、痛い。
痛いのに、安心する。
これは分かる。
ここにいる。
分からない場所で。
分からない身体で。
でも、痛い。
それだけは、自分のものだと思えた。
しばらくして、外の音が止んだ。
部屋が静かになる。
卓を見る。
椀がある。
冷めたまま、そこにある。
食べない。
食べられない。
そう思う。
でも、目が離れない。
喉が鳴り、唾を飲み込んだ。
自分の音が大きい。
嫌だ。
目を閉じる。
乾いた音だけが、まだ消えない。
どれくらい経ったのか分からない。
部屋は暗いまま。
灯りだけが小さく揺れている。
眠れない。
でも、起き上がる気にもなれない。
空腹で腹が痛い。
分かる。
それだけは分かる。
視線が、何度も卓へ向く。
冷めた椀。
もう湯気はない。
怖くない。
そう思う。
でも、怖い。
あの男が触った。
あの男が持ってきた。
知らない場所の食べ物。
知らない。
何も分からない。
なのに、腹だけが鳴る。
布団を被る。
暗い。
でも、椀の場所だけは分かる。
見えていないのに、分かる。
喉を鳴らしながら、唾を飲む。
身体が熱を欲しがっている。
嫌なのに。
怖いのに。
また、教授の声が浮かぶ。
問題は、どこで止めるかです。
止められる――
そう思っていた。
でも今は、椀から目を逸らすだけで精一杯だった。
息を吐く。
身体を起こす。
自分で動いたことに、一瞬遅れて気付く。
止まる。
戻ろうとする。
腹が鳴る。
身体が動かない。
視線が、椀へ向く。
冷めている。
もう湯気はない。
怖くない。
そう思いたい。
震える手を伸ばす。
指先が、椀に触れた。
冷たい。
少しだけ安心する。
でも、そのまま引けない。
喉が鳴る。
匙を持つ。
知らない部屋。
知らない身体。
知らない食べ物。
なのに、口元まで運んでいる。
止めたい。
止まらない。
唇が触れる。
冷えていた。
少しだけ、口に入れる。
味がした。
身体が反応して、胃が動いた。
その瞬間、泣きそうになった。
食べている。
自分で。
部屋は静かだった。
誰もいない。
なのに、乾いた音だけが、まだ耳の奥に残っていた。
孫二娘でございますよォ。
……最初は、椀ひとつだったんだねェ。
知らない部屋。
知らない身体。
知らない男。
知らない食べ物。
それだけで、アタイは止まった。
大学の講義では、人は環境で変わると聞いていた。
役割に染まることも、頭では分かっていた。
でも、分かっていることと、耐えられることは違う。
線は引けると思っていた。
嫌なものは嫌だと言えると思っていた。
けれど、あの時のアタイは、椀から目を逸らすだけで精一杯だった。
誰かに無理やり食べさせられたわけじゃない。
手を伸ばしたのは、アタイだ。
匙を持ったのも、アタイだ。
口に入れたのも、アタイだ。
そこが嫌なんだよォ。
人が変わる時ってのは、大げさな音を立てるとは限らない。
冷めた椀に手を伸ばす。
ただ、それだけのことから始まる時もある。
今回は、まだ何も知らなかったアタイが、最初に十字坡へ手を伸ばしてしまった話だねェ。




