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顔に出すな

孫二娘でございま〜す。

夜に何があっても、朝は来るんだよォ。

卓は拭かれる。

椀は出される。

客は飯を食う。

店は、何もなかった顔で動き出す。

だから覚えちまう。

空いた席を見るな。

聞いたことを顔に出すな。

止まるな。

それが十字坡の朝の作法さ。

怖いのは、誰かに教えられることじゃない。

自分で、それを選べちまった時なんだよねェ。

朝、珍しく起こされた。

最初、何の音か分からなかった。

足音ではない。

店の声でもない。

戸を叩く音だった。

短く、二度。

「二娘」

父ちゃんの声だった。

アタイは目を開ける。

部屋が明るい。

灯りじゃない。

戸の隙間から入る、白い朝の光だった。

それだけで、息が止まる。

朝だ。

そう気付くまで、少しかかった。

いつもは暗い。

灯りが揺れている。

外の音が先に来る。

誰かが近づいてくる気配で、身体が固まる。

でも、今は違った。

部屋の中が見える。

壁の染み。

床の傷。

寝床の端。

昨夜、手を握りしめていた場所。

見えなくてよかったものまで、朝の光が出していた。

「起きられるか」

戸の向こうで父ちゃんが言う。

返事をしようとして、喉が止まった。

アタイ――

そう言わなければと思った。

アタシ、と出たら駄目だ。

そう考えてしまったことに、胸の奥が冷える。

違う。

駄目じゃない。

本当は、アタシだ……

そう思うのに、口はもう身構えている。

ここでは、アタイ。

そういう場所になっている。

アタイは布を握ったまま、少しだけ身体を起こした。

「……起きる」

声が小さく出た。

父ちゃんは少し黙った。

今の声でよかったのか。

どこか変だったのか。

そんなことまで考えてしまう。

嫌だった。

父ちゃんは戸を開けなかった。

「顔を洗ってこい」

それだけ言うと、足音が離れた。

顔を洗う。

その言葉が、妙に普通だった。

昨夜、身なりの良い客の声が消えた。

袋の音も消えた。

裏の戸が閉まった。

店はまた笑い声を戻した。

なのに、朝になれば顔を洗う。

その順番が、当たり前みたいに続いている。

アタイはゆっくり立った。

足が床につくと冷たかった。

でも、昨日ほどふらつかない。

それも嫌だった。

戸を開けると、朝の店の匂いが入ってきた。

酒の湿った匂いは薄い。

代わりに湯気がある。

水の匂い。

煮えたものの匂い。

濡れた布で卓を拭いた匂い。

夜の店とは違う顔だった。

でも、同じ店だった。

厨房の方では、器が鳴っている。

誰かが湯を注いでいる。

常連の声もした。

昨夜と同じ声。

でも、もう芝居の声ではなかった。

普通に戻っている。

その普通さが、気持ち悪かった。

アタイは戸口に立ったまま、店の中を見た。

身なりの良い客が座っていた卓は、空だった。

盃はない。

酒の跡もない。

重い袋もない。

ただ、拭かれた木の板だけがあった。

朝の光がそこに当たっている。

それだけだった。

昨夜、あの男はそこにいた。

笑っていた。

アタイを見た。

触られた。

酒を飲んだ。

声が鈍った。

袋が鳴った。

でも、今は何もない。

あったことを証明するものが、何もなかった。

アタイはその卓から目を離せなかった。

「見るな」

低い声がした。

父ちゃんだった。

いつの間にか、厨房の入口に立っていた。

「……」

返せない。

父ちゃんは声を荒げない。

怒鳴らない。

近づいてもこない。

ただ、もう一度言った。

「顔に出すな」

息が止まった。

何を、とは言わなかった。

昨日の客のことか。

袋のことか。

紙包みのことか。

裏の戸のことか。

父ちゃんは何も言わない。

でも、アタイが何かを見ていることは分かっていた。

何かを考えていることも、分かっていた。

その上で、顔に出すなと言った。

アタイは唇を噛む。

聞きたいことはあった。

あの客はどこへ行ったのか。 袋はどこへ消えたのか。

紙包みは何だったのか。

昨夜、裏で何をしたのか。

でも、どれも声にならなかった。

声にしてはいけないと、先に身体が知っていた。

それが嫌だった。

父ちゃんは、アタイの目の動きを見ていた。

「客の前で、いちいち顔を変えるな」

静かな声だった。

「見ても、見てない顔をしろ」

胸の奥が重くなる。

見ても、見てない顔。

その言葉が、すぐに入ってきた。

入ってきてしまった。

十字坡では、そうするのだと思った。

思ってしまった。

父ちゃんは厨房へ戻りかける。

「水、使ってこい」

話は終わりだった。

説明はない。

謝罪もない。

確認もない。

ただ、次の用事だけが出される。

アタイは戸口の横を通り、水場へ向かった。

途中で、常連の一人と目が合った。

この前、アタイだろうと笑った男だった。

昨夜は、戸口近くにいた。

荷を持つと言った声も、たぶんこの男だった。

男は椀を持っている。

湯気が上がっている。

朝飯を食っている顔をしていた。

「二娘ちゃん、起きたか」

軽い声だった。

本当に、昨夜のことなど何もなかったみたいに。

アタイは返事をしようとして、また喉が固まる。

アタイ――

ここでは、アタイ。

「……アタイは、起きてるよ」

言った瞬間、胸が冷えた。

言えた。

言えてしまった。

男は何も気にした様子もなく笑う。

「そりゃ見りゃ分かるな」

それだけだった。

前みたいに突っ込まれない。 変な顔もされない。

笑われもしない。

正しく言えたから……

そう思った瞬間、吐き気がした。

正しいって何だ。

アタイは水場へ逃げるように歩いた。

桶の水は冷たい。

顔を洗うと、皮膚が少し痛んだ。

それでも、頭は晴れない。

水面に自分の顔が映る。

見慣れない顔。

でも、昨日より見慣れている顔。

それが怖かった。

目の下に少し影がある。

唇が乾いている。

髪が乱れている。

でも、十七の娘の顔だった。

二娘の顔。

アタイは水をすくい直す。

考えるな。

顔に出すな。

その言葉が、もう父ちゃんの声だけではなくなっていた。

自分の中で繰り返されている。

嫌だ。

教わったばかりなのに、もう使おうとしている。

店へ戻ると、父ちゃんが卓を拭いていた。

昨夜、身なりの良い客が座っていた卓ではない。

隣の卓だった。

拭き方は普通だった。

布を濡らし、木目に沿って動かす。

角を押さえる。

端を少し強く拭く。

何もおかしくない。

それなのに、昨夜の音が重なる。

盃が重くなる音。

袋が一度だけ鳴る音。

戸が閉まる音。

アタイは無意識に、空の卓を見そうになった。

その前に、目を逸らした。

見ない。

顔に出さない。

そうした自分に気付いて、指先が冷たくなる。

今、やった。

身体が覚えている。

父ちゃんは何も言わなかった。

でも、見ていた気がした。

常連の一人が笑う。

「二娘ちゃん、今日は顔色いいじゃねぇか」

アタイは息を吸う。

何を返せばいいのか分からない。

でも、黙っているのも変だ。

変に見られる。

また何か言われる。

店の空気が止まる。

それが嫌で、口が動いた。

「寝たからねェ」

自分の声だった。

でも、昨日より少し違った。

語尾が軽く伸びた。

客に返す声になっていた。

常連は満足そうに笑う。

「そうそう、それでいい」

それでいい。

その言葉が嫌だった。

何がいいのか。

誰にとっていいのか。

聞きたかった。

でも、聞かない。

聞かないことも、もう覚え始めている。

父ちゃんが厨房から声をかける。

「二娘、椀を出せ」

身体が先に動いた。

棚の位置は分かる。

椀の高さも分かる。

何個出すかも、店の中の人数で分かる。

ひとつ。

ふたつ。

みっつ。

昨夜、飲んでいるふりをしていた男たちの分。

父ちゃんの分。

あとから来た旅人の分。

身なりの良い客の分はない。

数えてから、気付いた。

ない。

その分を入れないことに、迷わなかった。

アタイは椀を持ったまま、少しだけ動けなくなる。

父ちゃんが低い声で言った。

「止まるな」

短い声。

叱る声じゃない。

教える声だった。

店の中で止まるな。

顔に出すな。

見ても見ない顔をしろ。

そういう意味に聞こえた。

アタイは椀を運んだ。

常連の前に置く。

湯気のある汁を注ぐ。

手が震えないようにする。

震えているかどうかを、自分で気にしている。

それも嫌だった。

常連の一人が、何気ない顔で言う。

「昨夜は騒がしくして悪かったな」

アタイの手が止まりかける。

父ちゃんの声が飛ぶより早く、アタイは椀を置いた。

「別に」

声が出た。

自分でも驚くほど、普通に。

常連は少しだけ目を細めた。

「強くなったな、二娘ちゃん」

違う。

強くなってない。

ただ、止まったら駄目だと思っただけだ。

顔に出したら駄目だと思っただけだ。

知らないふりをしなきゃいけないと思っただけだ。

でも、そう思ってしまうこと自体が、もうおかしい。

アタイは厨房へ戻る。

棚の奥が目に入る。

昨日、紙包みがあった場所。

布がかかっている。

何も見えない。

でも、そこにある気がした。

アタイの手は伸びない。

伸ばさなかった。

父ちゃんに言われたからじゃない。

今は触る時ではないと思った。

そう思ってしまった。

息が止まる。

今は。

その言葉を、自分で使った。

まだ早い。

父ちゃんの声が蘇る。

まだ。

アタイは手を握る。

違う……

知りたいわけじゃない。

触りたいわけでもない。

でも、触ってはいけないものがある。

見るべきではないものがある。

聞いたことにしない音がある。

空の卓を見ない目がある。

それを、少しずつ覚えている。

十字坡の朝は、何も教えなかった。

ただ、やり方だけを渡してくる。

誰も説明しない。

誰も謝らない。

誰も昨夜のことを口にしない。

でも、椀は出る。

湯は注がれる。

卓は拭かれる。

客は笑う。

店は動く。

その中で止まるな。

顔に出すな。

見ても、見てない顔をしろ。

アタイは、息を小さく吐いた。

昨夜の客が座っていた卓に、朝の光が当たっている。

もう見ない。

そう決めた瞬間、胸の奥が冷えた。

見ないことを、選べてしまった。

何もなかった顔をする。

それが、この店の作法だった。

そしてアタイは、その作法を一つ覚えた。

それが、一番嫌だった。

孫二娘でございますよォ。

朝ってのは、残酷だねェ。

夜に誰かが消えても、卓は拭かれる。

盃は片づく。

椀は並ぶ。

客は飯を食う。

店は、何もなかった顔に戻る。

その中で一番嫌なのは、空いた席を見ない目を覚えちまうことさ。

知らないふりは、誰かにさせられるだけじゃない。

自分でやれちまう時が来るんだよォ。

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