見ても、見てない顔
孫二娘でございま〜す。
夜のうちに客の声が消えても、朝になれば店は開く。
卓を拭いて、飯を出して、何事もなかった顔で次の客を迎えるんだ。
父ちゃんに言わせりゃ、それも仕事らしいよォ。
そんな朝に、昨日帰ったばかりの姉ちゃんがまたやって来た。
アタイとしては、少しくらい味方が増えた気分だったんだけどねェ。
ところがこの姉ちゃん、店の中を一目見ただけで何かを察して、それ以上聞きもしない。
さて――
頼れる姉ちゃんが、昨夜消えた客を最初から朝飯の人数に入れてなかったら、どうする?
朝、珍しく父ちゃんに起こされた。
最初は何の音か分からなかった。
足音でも店の声でもなく、戸を短く二度叩く音がして、その向こうから「二娘」と呼ばれる。
目を開けると、部屋が明るかった。
灯りではない。
戸の隙間から白い朝の光が差し込み、壁の染みや床の傷、昨夜ずっと握りしめていた寝床の端まで見えている。
朝だと気づくまで、少しかかった。
昨夜、身なりのいい旅人は酒を飲むうちに呂律が怪しくなり、常連たちに支えられて寝床へ向かった。
荷物まで運ばれ、それだけなら宿として何もおかしくないのに、男の声は二度と聞こえなかった。
「起きられるか?」
戸の向こうで父ちゃんが言う。
「……起きるよ」
返事をしたあとで、胸の奥が冷えた。
アタシではなく、アタイと言うことすら考えなかった。
昨日までは、口を開く前にどちらを使うか身構えていたはずなのに、もう選択肢として浮かばない。
ここではアタイ。
そういうものになり始めている。
「顔洗ってこい」
父ちゃんはそれだけ言って離れていった。
顔を洗うという、ごく普通の用事だった。
昨夜何があったとしても、朝になれば顔を洗う。
飯を作り、卓を拭いて、次の客を迎える。
その順番だけは途切れないらしい。
戸を開けると、夜とは違う匂いが入ってきた。
酒の湿った匂いは薄れ、代わりに湯気と煮物、それから濡れた布で卓を拭いた匂いがする。
店へ出たところで、足が止まりかけた。
昨夜の男が座っていた卓には、何もなかった。
盃も、酒の染みも、重そうな袋もない。
朝の光が、綺麗に拭かれた木の板へ当たっているだけだった。
そこに男がいたことを示すものは残っていない。
「見るな」
父ちゃんの声がした。
厨房の入口に立っている。
「……何を?」
思わず聞くと、父ちゃんは答えなかった。
代わりに、アタイの顔をじっと見た。
「客の前で、いちいち顔を変えるな。見ても、見てない顔をしろ」
何を見た時なのかは言わない。
昨夜の客なのか、袋なのか、昼間の紙包みなのか、それとも全部なのか。
それでも意味は通じてしまった。
見ても、見てない顔をする。
十字坡では、そうするのだ。
「……接客研修にしては教材が物騒すぎない?」
「何だ?」
「何でもない」
口にした直後、さらに嫌になった。
今の「何でもない」は、父ちゃんに説明しても仕方がないと思ったから出たのか。
それとも、余計なことを口にしない方がいいと覚え始めたから出たのか、自分でも分からなかった。
父ちゃんが厨房へ戻ろうとした時、表の戸が勢いよく開いた。
「父ちゃん、朝の仕込み足りてるかい!」
聞き覚えのある女の声が店いっぱいに響く。
身体が先に振り向いた。
昨日来たばかりの姉ちゃんだった。
大娘は大きな籠を片手に抱え、もう片方の手には野菜を束ねて持っている。
朝から妙に元気で、道中で盗賊が出ても、そのまま籠で殴り倒してここまで来そうな顔をしていた。
「姉ちゃん、昨日帰ったばっかりじゃない」
「昨日の客入りなら、今日の昼には菜が足りなくなると思ってね。ついでに持ってきた」
大娘は籠を置きながら厨房を覗き込んだ。
「肉は?」
「ある」
「酒は?」
「昼までは持つ」
「薪、昨日より減ってるね」
「宿の方で使った」
そこまで聞いた大娘が店を見回した。
ほんの一瞬で、卓から戸口、奥へ続く通路、厨房の水瓶まで見回し、最後に昨夜の男が使っていた卓へ目をやった。
そこでだけ、ほんの少し視線が止まる。
「昨夜、泊まりが入ったのかい?」
「ああ」
父ちゃんが答える。
大娘はそれ以上聞かなかった。
聞かないのに、何か分かった顔をした。
アタイは黙って姉を見る。
大娘がこちらへ気づいた。
「何だい、朝から変な顔して」
「……姉ちゃん」
「うん?」
昨夜の男をどうしたのか、姉ちゃんも知っているのか、それとも今までにも同じことをしてきたのか、聞きたいことはいくらでもあった。
けれど、父ちゃんの言葉が頭をよぎった。
顔に出すな。
大娘はアタイをしばらく見てから、急に父ちゃんへ顔を向けた。
「父ちゃん、二娘に何教えた?」
「何って?」
「その顔だよ。考えてること隠そうとして、余計に丸分かりになってる」
「えっ」
思わず自分の頬を押さえると、大娘が吹き出した。
「ほら、それだよ」
「接客スキル判定が厳しすぎない!?」
「客の前でそれやったら一発だね」
「一発って何が!?」
大娘は答えず、持ってきた菜を厨房へ運んだ。
父ちゃんまで妙な顔で笑っている。
「大娘なら、もっと上手かったぞ」
「何の比較!?」
「何でもだよ」
姉ちゃんが横から平然と答える。
その言い方が妙に引っかかった。
大娘は棚を開け、器の数を確認し、次に水瓶を覗き込んだ。
酒甕の残りを見てから父ちゃんへ何か二つ三つ指示し、昼までに必要な仕込み量まで勝手に決めていく。
父ちゃんも反論しない。
昨日はずっと口喧嘩していたのに、店のことになると判断が噛み合っていた。
「……姉ちゃん、店主みたいね」
「昔から父ちゃんより店見てたからね」
「聞こえてるぞ!」
「聞かせてんだよ!」
大娘は即答したあと、今度は卓の数を数えた。
「昨夜の泊まり、一人だけ?」
「ああ」
「なら朝飯はいつもの数でいいね」
あまりに自然だった。
昨夜泊まったはずの男を、朝飯の人数へ入れていない。
アタイは大娘を見る。
大娘もこちらを見た。
ほんの一瞬、目が合った。
その瞬間、分かった。
姉ちゃんは知っている。
何があったのか全部聞いたわけではないはずなのに、宿泊客が朝飯を食べないことを疑問にすら思っていない。
「二娘」
呼ばれて、肩が動く。
「椀、出して」
身体が勝手に棚へ向かった。
店にいる人数を見ながら、父ちゃん、常連たち、姉ちゃん、アタイの分を取っていく。
昨夜の男の椀だけは、最初から数に入らなかった。
手が止まりそうになる。
「止まるんじゃないよ」
今度は姉ちゃんだった。
父ちゃんと同じ言葉ではない。
でも、意味は同じだった。
アタイはゆっくり振り向く。
「……姉ちゃんも、それ言うの?」
大娘の顔から笑いが消えた。
父ちゃんが何か言おうとしたが、大娘は手を上げて止める。
「あんた、昨日何か見たのかい?」
「見てない」
すぐに答えた。
本当に見てはいない。
音を聞いただけだ。
大娘は少し考えたあと、「そう」とだけ言った。
「なら、見てないんだろ」
「それで終わり?」
「終わりだよ」
「気にならないの?」
「気になることと、仕事を止めることは別だろ?」
あまりに即答だった。
そこには迷いも、強がりもなかった。
大娘にとって、本当にそうなのだ。
アタイは昨日、姉ちゃんが酔っ払いの腕を簡単に捻り上げるところを見た。
あれは気の強い女だからできたのだと思っていた。
でも違うのかもしれない。
この人は、客を押さえることそのものに慣れている。
「姉ちゃん……前にもやったことあるの?」
大娘の手が止まった。
父ちゃんも黙る。
聞いてはいけなかったのかと思った。
けれど大娘は、少し困ったように眉を下げただけだった。
「二娘……あたいが何年ここで働いてたと思ってんだい?」
答えになっていない。
でも、それで十分だった。
喉の奥が詰まる。
大娘はそんなアタイを見て、溜息をついた。
「父ちゃん」
「何だ」
「まだ二娘にやらせるんじゃないよ」
「分かってる。だから昨日も奥へ戻した」
「ならいい」
また、「ならいい」だ。
どうしてこの家族は、判断が怖いほど早いのだろう。
「……姉ちゃん、ちなみにその『やらせる』って何を?」
「知らなくていいなら、まだ知らなくていいだろ」
「質問への回答になってない!」
大娘は笑った。
「元気あるじゃないか」
「元気判定の基準が雑なのよ!」
常連たちまで笑い始める。
その笑い声の中で、大娘は何事もなかったように朝飯の支度へ戻った。
菜を刻む速度は父ちゃんより速い。
器の置き方に無駄がなく、客が増えそうな時間を見越して湯まで先に足している。
荒事ができるだけじゃない。
店そのものを見ている。
父ちゃんが何かを探す前に渡し、常連が追加を頼む前に酒の残りを見ている。
昨日までなら、頼れる姉ちゃんだと思っただろう。
今は、その有能さまで怖かった。
この人なら失敗しない。
昨夜みたいなことが起きても、父ちゃんや常連たちより手際よく終わらせる気がする。
そして父ちゃんも、それを知っている。
「大娘」
「何だい?」
「嫁に行ってなきゃ、お前に店任せてたんだけどな」
父ちゃんが何気なく言った。
大娘は菜を刻む手を止めもしない。
「今さら言うな。もう嫁に出しただろ」
「だから言ってんだよ」
「二娘がいるじゃないか」
話を振られ、心臓が跳ねる。
「そこでアタイに継承フラグ立てないで!」
「何だい、ふらぐって」
「知らなくていい!」
大娘が腹を抱えて笑った。
父ちゃんも呆れた顔をしている。
店の中には朝の光が入っていた。
昨夜の男が座っていた卓にも、同じ光が当たっている。
アタイはそこを見なかった。
見ないようにしたことに気づいた。
そして今度は、そのことを顔に出さないようにした。
大娘がちらりとこちらを見る。
何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ頷いた。
褒められた。
そう理解してしまった。
それが怖かった。
見ても見てない顔をして、途中で止まらず、余計なことを客の前では聞かない。
昨日まで知らなかった十字坡の作法を、父ちゃんに教わり、今日は姉ちゃんに確認された。
大娘は怖くない。
昨日よりずっと姉ちゃんだと思える。
だからこそ、逃げ道が一つ減った気がした。
この家で一番頼れそうな人まで、完全にこちら側だった。
しかも父ちゃんより仕事ができる。
「……せめて姉ちゃんくらい、ポンコツでいてくれない?」
「喧嘩売ってんのかい?」
「違う! 有能すぎるって褒めてんの!」
「ならもっと分かりやすく褒めな!」
大娘が笑いながら布巾を投げてきた。
考えるより先に受け取る。
そのまま、近くの卓を拭き始めた。
昨夜の男が座っていた卓ではない。
けれど、次にそこを拭く番が来ても、たぶん止まらない。
そう思った。
そして、その予想が当たりそうなのが――一番嫌だった。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、父ちゃんより店回すの上手くない?」
「今さら気づいたのかい?」
「そこは謙遜しろ!」
仕込みを見りゃ足りないものが分かるし、客の数を見りゃ飯の量も決まる。 おまけに荒事まで経験済みって、姉ちゃん一人で店が完成してんじゃないのォ?
「嫁に行ってなきゃ、あたいが継いでたかもね」
「じゃあ今から戻って継がない?」
「嫌だよ」
「即答すんな!」
しかもアタイが「見てない顔」をできたら、姉ちゃんまで頷きやがった。
さて――
次に褒められる時、アタイはいったい何が上手くなってるんだろうねェ?
「店主業じゃないかい?」
「継承フラグを立てるな!」




