楽な方へ
孫二娘でございま〜す。
人間ってのは不思議なもんで、怖いことから目を逸らして少し楽になると、次も同じことをしやすくなる。
大学じゃ、そういう仕組みを学生に説明してたんだけどねェ。
まさか自分が実習するとは思わなかったよ。
朝には怖くて近づけなかった卓も、昼になれば仕事だからって拭ける。
客に笑って返事をすれば、余計なことを考えずに済む。
しかも姉ちゃんは横で普通に働いてるし、父ちゃんも何も言わない。
さて――
十字坡で一番怖いのが「慣れること」じゃなく、「慣れた方が楽になること」だったら、アタイはどこまで行くんだろうねェ?
昼を回る頃には、朝より客が増えていた。
姉ちゃんは帰らず、そのまま店に残っている。
朝のうちに持ってきた菜を仕込みへ回し、酒甕の残りを見ながら父ちゃんへ「あっちは夕方まで開けるんじゃないよ」と指示まで出していた。
嫁に行った娘が実家へ手伝いに来ているというより、店主が留守の間だけ現場を見に来たような動きだった。
しかも父ちゃんも、文句を言いながら従っている。
「……本当にどっちが店主なの?」
「父ちゃんだよ」
姉ちゃんが即答した。
「今の間に少し迷ってくれてもよくない?」
「肩書きと仕事ができるかどうかは別だろ?」
「父ちゃん、娘に経営能力で刺されてるけど大丈夫?」
厨房の奥から声が飛んでくる。
「聞こえてるぞ!」
「聞かせてんだよ!」
朝から変わらない。
なのに、店の中には昨夜と同じ常連たちがいる。
笑って、飯を食べて、酒を飲んでいる。
その誰も、昨夜ここへ泊まった男のことを口にしない。
姉ちゃんも聞かなかった。
朝飯の人数に入れもしなかった。
そしてアタイも、もう何度かあの空いた卓の近くを通っている。
見なかった。
正確には、見ないようにしなくても通れるようになり始めていた。
それが嫌だった。
「二娘、椀三つ」
姉ちゃんの声が飛ぶ。
返事より先に手が棚へ伸びた。
客に出す椀は手前にあり、少し欠けたものは奥へ避けてある。
三つ重ねても落とさない持ち方まで、考える前に指が決めていた。
昼の客は常連が二人と、街道を歩いてきたらしい旅人が一人だった。
旅人の服は汚れ、荷物も小さい。
卓につくなり店の中を見回すこともなく、出された汁へ顔を近づけている。
腹が減っているだけの人。
そう判断した瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
そして、それに気づいて悪寒が走る。
今、何を判断した?
金を持っていそうか。
面倒を起こしそうか。
昨夜の男と同じ種類の客か。
いつからアタイは、店へ入ってくる人間をそういう目で見るようになったのだろう?
「二娘?」
姉ちゃんに呼ばれ、意識が戻る。
「あ、うん」
「椀」
「分かってるよォ」
口から出た。
自分で直す暇もなかった。
旅人の前へ椀を置くと、男は「ありがとよ」と言ってすぐ汁を飲み始めた。常連の一人がこちらを見て笑う。
「二娘ちゃん、だいぶ戻ったじゃねぇか」
「椀出しただけだよォ」
普通に返した。
相手も普通に笑った。
前なら「アタイ」と言えたか、変な言葉を使わなかったか、そればかり気にしていたのに、今は会話が終わってから自分の語尾に気づく。
「ねェ」や「だよォ」という語尾まで、十七年間この身体が客へ使ってきた声なのかもしれない。
「……発声まで自動更新しないでくれる?」
「何が更新したんだい?」
隣を通った姉ちゃんが聞く。
「姉ちゃんは知らなくていい」
「その台詞だけは本当に昔から変わらないね」
また「昔から」が増えた。
もう驚くより先に嫌になる。
旅人が顔を上げた。
「二娘ちゃん、水もらえるか?」
視線が向く。
身体が少し固まりかけた。
その瞬間、朝の父ちゃんの声が頭に浮かぶ。
客の前で、いちいち顔を変えるな。
見ても、見てない顔をしろ。
アタイは相手の目を見た。
見すぎない。
かといって、露骨に逸らさない。
「待ってなァ」
それだけ言い、水場へ向かう。
床板の浮いた場所を足が避ける。
桶のそばの濡れた場所も踏まない。
最初は部屋から厨房へ来るだけで、どこを歩けばいいのか分からなかった。
今は違う。
店の中に、歩きやすい道ができている。
いや、道ができたんじゃない。
アタイが覚えたのだ。
「……知覚学習、仕事が早すぎない?」
柄杓を水へ沈める。
水の音は普通だった。
その音へ昨夜の記憶が重なる。
盃を置く音が重くなり、袋が一度だけ鳴って、奥の戸が閉じた。
手に持った器が止まりかける。
でも、止まらなかった。
顔に出さない。
考えるなら後でいい。
今は水を持っていく。
そう自分で判断したことに気づく。
父ちゃんに命じられたわけではない。
姉ちゃんにも急かされていない。
アタイ自身が、仕事を続ける方を選んだ。
旅人の前へ水を置く。
「ありがとよ」
「いいよォ」
相手はもうこちらを見ていなかった。
ただ水を飲む。
何も起きない。
それで済んだことに、少し安心した。
安心してしまったことまで怖かった。
「二娘、そこ拭いて」
今度は姉ちゃんだった。
渡された布巾を受け取り、空いた卓を拭く。
木目に沿って動かし、端だけ少し力を入れる。
姉ちゃんが隣の卓を片づけながら言った。
「そこ、もう一回」
「え?」
「酒残ってるだろ」
よく見ると、木の継ぎ目に少しだけ染みが残っていた。
拭き直す。
「……細かい」
「客が肘ついた時に袖が汚れたら、次から来なくなるだろ」
「経営者の発想が現代のレビュー対策みたいで嫌なんだけど?」
「何だい、れびゅうって」
「客が陰で店を採点する地獄」
「そんなもん、今だってやってるよ」
「文明が進んでも人間変わってなかった!」
姉ちゃんが笑う。
その時、常連の一人が隣へ座ろうと近づいてきた。
アタイは場所を空けようとして、無意識に半歩ずれた。
男の手が肩へ伸びる前に、ちょうど届かない距離へ。
止まったのは男の方だった。
「何だ二娘ちゃん、避けなくてもいいだろ」
「避けてないよォ。次の仕事に向かうから退いただけ」
口が先に答えた。
男は「言うねぇ」と笑い、そのまま座った。
アタイは自分の足を見る。
今の位置。
昨夜、腰へ触れられた時にはできなかった。
相手の腕が届く距離から、自然に外れている。
姉ちゃんが少し離れたところから見ていた。
「今のは悪くないね」
「……何が?」
「距離の取り方」
「採点しないで!」
「客に触らせてから怒るより、最初から触らせない方が楽だろ」
正論だった。
怖いくらいに。
「姉ちゃんって、こういう客どうしてたの?」
「あたい?」
姉ちゃんは少し考え、こちらへ近づいてきた常連の肩を片手で押し戻した。
男が「うおっ」と声を出す。
「これくらい」
「物理!」
「一番早いよ」
「接客技術の分類に入れないで!」
常連本人まで笑っている。
どうやら昔からこうだったらしい。
姉ちゃんが妖艶な女なのは、アタイにも分かる。
嫁に行った今でも客が色っぽいなどと言って手を出そうとするくらいには目立つ。
けれど、その色気に釣られて近づけば、普通に腕を捻られる。
客寄せと防犯が同じ人間に搭載されていた。
「……姉ちゃん一人で業務が完結しすぎなのよ」
「便利だろ?」
「便利って言うな!」
父ちゃんが厨房から笑った。
「大娘は昔から客扱いで失敗しなかったからな」
「また比較した!」
「事実だろ」
反論できないのが腹立たしい。
姉ちゃんは笑いながら蒸し器を確認し、残っている饅頭を数えた。
「昼のうちにもう一段作っといた方がいいね」
その言葉で、指先が少し固くなる。
饅頭という言葉から、包丁で刻んだ肉と棚の奥の紙包みまで、頭の中で勝手につながりかける。
姉ちゃんはアタイの顔を見た。
一瞬だけだった。
「二娘」
「……何?」
「饅頭、客に出して」
それだけ。
中身については何も言わない。
アタイも聞かなかった。
蒸し器の蓋を開けると、熱い湯気が顔へ当たる。
白い饅頭が並んでいる。
布を使って二つ取る。
どの皿へ載せるか分かる。
何も考えなければ簡単だった。
考えなければ。
「饅頭まだあるか?」
旅人が聞く。
アタイは皿を持ったまま答えた。
「あるよォ。熱いから気をつけなァ」
自然に言えた。
旅人は嬉しそうに饅頭を割った。
湯気が上がる。
中身を見ない。
そう決めたわけでもないのに、視線は客の水差しへ移っていた。
足りなくなりそうだ。
次に頼まれる前に水を足しておけばいい。
そう考える。
仕事が先へ進む。
考えたくないことから目を逸らすほど、店の動きがよく見える。
そのことに気づいた時、胸の奥が重くなった。
見ない方が働きやすく、聞かない方が止まらずに済む。
知らない顔をしていれば客も安心するのだから、嫌になるほど合理的だった。
大学でなら、回避行動が不安を下げ、それによって行動が維持される仕組みを説明できる。
「……負の強化、こんなところで実演しなくていいんだけど」
姉ちゃんが横から聞いた。
「何が強いって?」
「姉ちゃんはそろそろ心理学に入門しない?」
「店が回るなら考えるよ」
「経営判断で学問選ぶな!」
「役に立たないなら覚える暇ないだろ」
強い。
腕力じゃなくて経営者として強い。
アタイは言い返せず、水差しを持った。
客が頼む前に水を足す。
「お、気が利くじゃねぇか」
旅人が笑った。
胸が少しだけ軽くなった。
褒められたからではない。
客が何も疑わず、普通に飯を食べているからだ。
その普通の中へ入ってしまえば、昨夜のことを考えなくて済む。
楽だった。
その感覚に気づいた瞬間、足が止まりそうになる。
姉ちゃんが何も言わず、こちらを見た。
朝なら「止まるんじゃないよ」と言われただろう。
今は言われない。
言われる前に、アタイがまた歩き始めたからだ。
姉ちゃんはほんの少しだけ頷き、別の客へ向かった。
また褒められた。
言葉もないのに、それが分かる。
父ちゃんも何も言わない。
常連も気にしない。
店が止まらないこと自体が、正解だと教えてくる。
アタイは空いた椀を下げ、水を運び、卓を拭いた。
昨夜の男が座っていた卓の前まで来る。
朝は避けた場所だった。
布巾を持った手が、一瞬だけ止まりかけた。
けれど、その卓も客が使う。
汚れていれば拭く。
それだけだ。
アタイは布巾を置き、木目に沿って動かした。
姉ちゃんに言われた通り、端まできちんと拭く。
何も出てこない。
血も、袋も、昨夜の男がいた証拠もない。
ただの卓だった。
拭き終わる。
「二娘、次こっち」
姉ちゃんが呼ぶ。
「はいはい、今行くよォ」
返事をしてから、自分が何をしたのか気づいた。
昨夜の男が座っていた卓を、普通に拭いた。
止まらなかった。
顔にも出さなかった。
そして、その直後に姉ちゃんへ普通に返事までした。
朝なら怖くて見ないことを選んだ場所だった。
昼には、仕事だからという理由だけで触れられた。
アタイは布巾を握る。
姉ちゃんがこちらを振り返る。
「どうした?」
「……何でもない」
また、それが言えた。
何でもなくない。
でも、その方が店は動く。
その方がアタイも動ける。
十字坡は、怖い顔でアタイを脅しているわけではなかった。
怒鳴って従わせてもいない。
ただ、動けば何も言われない。
止まれば声をかけられる。
客に合わせれば笑われ、仕事ができれば次の仕事が来る。
少しずつ、楽な方へ押されていく。
アタイは心理学者だった。
そういう仕組みを知っている。
知っているのに、布巾を置いて逃げることはできなかった。
姉ちゃんがもう一度呼ぶ。
「二娘、水なくなるよ」
「分かってるって!」
アタイは水場へ向かった。
床板の浮いた場所を避け、桶の横を抜ける。
もう迷わない。
昼の店は騒がしく、客の声も、椀の音も、姉ちゃんの笑い声も途切れなかった。
その中を歩いていると、昨夜のことを考えずに済む。
その方が楽だった。
そしてアタイは、楽な方へ進めるようになっていた。
それが、一番嫌だった。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、客に触られそうになった時の対処法、もう少し文化的なのない?」
「届く前に避ける。それでも来たら押し返す」
「二段目が腕力なんだよ!」
しかも昼には、昨夜の客が座っていた卓まで普通に拭けるようになっちまった。
「仕事なんだから、汚れてたら拭くだろ?」
「姉ちゃん、その正論が今いちばん怖い!」
おまけに何も言われなくても動けば、姉ちゃんは頷くし、父ちゃんも止めない。
「上達してるじゃないか」
「何の上達か説明してから褒めろォ!」
さて――
次に父ちゃんが「そろそろいい」と判断するのは、いったい何なんだろうねェ?
「その時になれば分かるよ」
「姉ちゃんまで含みを持たせるな!」




