いつもの顔
孫二娘でございま〜す。
何も知らない顔をしている方が、楽な時があるんだよォ。
空いた卓を見ない。
消えた声を追わない。
余計なことを聞かない。
客にはいつもの声で返す。
そうすりゃ店は止まらない。
父ちゃんも何も言わない。
常連も笑っている。
怖いのは、我慢できたことじゃない。
知らない顔をした方が楽だって、自分で分かっちまったことなのさ。
朝の店は、昨日より静かに動いていた。
騒がしいわけじゃない。
荒れているわけでもない。
ただ、音が途切れない。
椀が卓に置かれる音。
湯を注ぐ音。
布で木を拭く音。
誰かが喉を鳴らして汁を飲む音。
どれも普通の音だった。
普通の音に戻っていることが、嫌だった。
アタイは厨房の入口に立っていた。
父ちゃんは何も説明しない。 常連たちも何も言わない。
昨夜の客の話は出ない。
あの男の声だけが、店の中から消えている。
それなのに、卓は拭かれている。
椀は並んでいる。
湯気は上がっている。
父ちゃんは店主の顔をしている。
アタイは、空の卓を見ないようにした。
見ない。
顔に出さない。
そう思った瞬間、指先が冷えた。
もう、そう考えている。
父ちゃんに言われたからじゃない。
言われたことを、アタイの中で先に使っている。
それが嫌だった。
「二娘」
父ちゃんの声がした。
身体が反応する。
「椀、三つ」
言われた数を、頭の中で繰り返す前に、手が棚へ向かっていた。
椀は棚の中段。
少し欠けた椀は奥。
客に出すなら手前のもの。
知っている。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
手に取った時、数が合っていることが分かった。
昨夜の客の分はない。
そのことに気付いても、手は止まらなかった。
止まるな。
父ちゃんの声が、まだ耳の奥にある。
アタイは椀を抱えて卓へ向かった。
常連が二人。
旅人らしい男が一人。
旅人は、昨日の身なりの良い客とは違った。
服は汚れている。
荷も小さい。
食べる前から、店の中をあまり見ていない。
ただ腹が減っている顔だった。
それだけで、少し息が緩みかける。
でも、すぐに怖くなった。
今、何を見た。
この客は大丈夫だと思ったのか。
大丈夫じゃない客を、もう分けているのか。
アタイは椀を置く。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
手は震えなかった。
常連の一人が笑う。
「二娘ちゃん、手つきが戻ってきたな」
戻っていない。
そう言いたかった。
でも、口は開かない。
顔に出すな。
アタイは軽く息を吸った。
「椀を出しただけだよォ」
声が出た。
語尾が、少し伸びた。
自分の声なのに、昨日より店に馴染んでいた。
常連が満足そうに笑う。
「そうそう。それでいい」
また、それでいい。
アタイは、椀から手を離す。
それでいいと言われるたび、何かが削られていく気がする。
でも、何が削られているのかは分からない。
父ちゃんは何も言わなかった。
その沈黙で、今の返し方が間違っていなかったと分かってしまう。
胸の奥が冷えた。
間違えたかった。
変だと言われたかった。
今のは違うと、誰かに止めてほしかった。
でも、店は止まらない。
常連は椀を持つ。
旅人は湯気を吹く。
父ちゃんは次の支度をしている。
アタイだけが、止まりそこねている。
「二娘ちゃん」
旅人が声をかけてきた。
知らない声だった。
身体が固まりかける。
でも、客前で顔を変えるな。
その言葉が先に来た。
アタイは旅人を見る。
見すぎない。
目を逸らしすぎない。
少しだけ、相手の顔を見る。
それも、身体が知っているみたいだった。
「水、もう少しもらえるか」
ただの頼みだった。
アタイは一瞬、返事に迷う。
アタシ……
その言葉が喉の奥に浮かびかける。
違う。
ここでは、アタイ。
アタイは口の中を乾かしたまま、頷いた。
「待ってなァ」
言えた。
言えてしまった。
旅人は何も気にせず椀へ視線を戻す。
常連も突っ込まない。
父ちゃんも見ない。
つまり、合っている。
アタイは水場へ向かう。
足の運び方が、昨日より滑らかだった。
床板の浮いているところを避ける。
桶の横を通る。
濡れている場所を踏まない。
最初は、そんなこと分からなかったはずだ。
今は、考える前に避けている。
水を汲む。
柄杓が桶に沈む音。
水が器へ落ちる音。
その音は普通だった。
普通の音なのに、昨夜の音が混じる。
盃が重くなる音。
袋が鳴る音。
戸が閉まる音。
アタイは器を持つ手に力を入れた。
顔に出すな――
水を持って戻る。
旅人の前に置く。
「ありがとよ」
ただの礼だった。
アタイは小さく頷く。
「いいよォ」
また言えた。
店の娘みたいに。
そう思った瞬間、背筋が冷える。
店の娘みたい、じゃない。
この身体は、最初から店の娘だった。
十字坡の二娘。
アタイが嫌でも、周りはそう見ている。
父ちゃんも。
常連も。
旅人も。
その中で、アタイだけが違う顔をしていれば、浮く。
浮けば、見られる。
見られれば、直される。
直されれば、また二娘に近づく。
だから、顔を作る。
作らなければ、もっと怖い。
そう考えてしまったことが、嫌だった。
「二娘」
父ちゃんが短く呼ぶ。
「布巾」
アタイは返事をする前に動いた。
布巾は水場の横。
濡れたものと乾いたものがある。
卓に使うなら濡れた布。
椀を拭くなら乾いた布。
今、父ちゃんが欲しいのは濡れた方。
そう分かった。
布を取って渡す。
父ちゃんは受け取るだけで、何も言わない。
褒めない。
驚かない。
確かめない。
当然みたいに受け取る。
それが嫌だった。
できるのが当たり前。
分かるのが当たり前。
動けるのが当たり前。
アタイは、できないふりをする機会を失っていく。
父ちゃんは卓を拭いた。
昨夜の客が座っていた卓じゃない。
その隣だった。
でも、アタイは視線を動かさなかった。
見ない。
見るな。
顔に出すな。
その三つが、同じ場所に並ぶ。
アタイは息を殺して、厨房へ戻る。
棚の奥に布がかかっている。
紙包みがあった場所。
今日は見ない。
そう思った。
思っただけでは足りない。
本当に見なかった。
器を取る。
湯を入れる。
椀を戻す。
手順を先に進める。
見ないで済むように、仕事をする。
それができてしまう。
アタイは椀を持ったまま、ほんの少し立ち止まる。
すぐに父ちゃんの声が飛んだ。
「二娘」
強くはない。
でも、止まるなと言っていた。
アタイは動いた。
叱られる前に動けた。
それが、また嫌だった。
常連の一人が、汁をすすりながら言う。
「今日は静かだな」
アタイの肩が固まる。
昨日のことを言っているのかと思った。
でも男は笑っている。
「朝から騒ぐ奴がいねぇと、飯がうまい」
もう一人が笑う。
「昨日の旦那みたいなのは、たまにでいい」
空気が、ほんの少し揺れた。
アタイは椀を持つ手に力を入れる。
父ちゃんは厨房の奥にいる。 でも、聞いているはずだった。
顔に出すな。
アタイは目を伏せず、笑いもしない。
ただ、椀を置いた。
「冷めるよォ」
声が出た。
自分でも驚いた。
何も聞いていない顔。
何も知らない声。
常連が笑う。
「お、言うようになったな」
言うようになった。
それが褒め言葉みたいに響く。
アタイは胸の奥が重くなる。
言えるようになりたくなかった。
でも、言えなければ変に見られる。
黙れば止まる。
止まれば父ちゃんに見られる。
だから、言った。
言った方が楽だった。
そのことが、何より嫌だった。
旅人が饅頭を頼んだ。
「饅頭、まだあるか」
アタイの手が一瞬だけ止まる。
饅頭。
具。
包丁。
肉。
指の腹に残った脂の感触が蘇る。
でも、顔には出さない。
「あるよォ」
声が普通に出た。
厨房へ向かう。
蒸し器の湯気が上がっている。
蓋を取る。
熱が顔に当たる。
饅頭が並んでいる。
何個出すか。
どの皿に乗せるか。
手で持たず、新しい布巾で取る。
分かる。
分かってしまう。
アタイは饅頭を皿に乗せる。
中身を考えない。
考えたら止まる。
止まるな。
アタイは皿を持って戻る。
旅人の前に置く。
「熱いから気をつけなァ」
自然に出た。
自然すぎた。
旅人は笑う。
「助かる」
それだけ……
ただの飯屋みたいだった。
朝の光。
湯気。
饅頭。
水。
椀。
どこにでもある街道沿いの店みたいだった。
でも、昨夜の声はもうない。
あの袋もない。
紙包みは棚の奥にある。
アタイは、その全部を知らない顔で通り過ぎている。
常連の一人が、饅頭を割った。
湯気が上がる。
「二娘ちゃん、今日はよく働くな」
アタイは返事をしなかった。
しなかったのではない。
返す言葉を探した。
冗談にするか。
軽く流すか。
黙って笑うか。
その選び方を、もう考えている。
怖い。
でも、口は動いた。
「働かないと、父ちゃんが怖いからねェ」
常連たちが笑った。
父ちゃんが、厨房の奥で小さく息を吐いた気がした。
怒っていない。
止めてもいない。
今のも、合っていた。
アタイは笑っていない。
でも、笑ったように見えたかもしれない。
そう思った。
それで良かったのかもしれない。
そう思いかけて、手の中が冷たくなった。
良かったって何だ。
何に合っているんだ。
誰の顔をしているんだ。
アタイは厨房へ戻る。
棚の奥を見ない。
空の卓を見ない。
常連の目を見すぎない。
旅人の荷を見ない。
見ないものが増えていく。
その分だけ、店の中を歩きやすくなる。
おかしい。
見ない方が歩きやすい。
聞かない方が動きやすい。
知らない顔をした方が、店に引っかからない。
アタイは息を小さく吐く。
父ちゃんが近くで言った。
「それでいい」
声は低かった。
常連に言われた時より、もっと深く刺さった。
アタイは振り返れない。
何が、とは聞けなかった。
椀を出したことか。
饅頭を運んだことか。
空の卓を見なかったことか。
客の話を流したことか。
たぶん、全部だった。
父ちゃんは続けない。
それだけで、話は終わる。
アタイは、手元の椀を見た。
湯気が薄く揺れている。
普通の朝。
普通の店。
普通の客。
その中にいるためには、普通の顔をしなければならない。
どんな音を聞いても。
どんな卓が空でも。
誰の声が消えていても。
普通の顔。
アタイは、空の卓を見なかった。
見ないまま、次の椀を取った。
身体は止まらない。
声も震えない。
何も知らない顔をして、店の中を歩く。
それができた。
できてしまった。
アタイは、少しだけ息を吐く。
楽だった。
その一瞬で、胸の奥が凍った。
楽だった。
知らない顔をしている方が。 何も聞かない方が。
客に合わせて声を出す方が。
楽だった。
十字坡は、そうやって身体に入り込んでくる。
怖い顔で脅すのではなく。
怒鳴って押さえつけるのでもなく。
動け。
止まるな。
顔に出すな。
そうして、動けた時だけ、店では何も言われない。
何も言われないことが、合図になる。
アタイは椀を置く。
常連が笑う。
旅人が汁を飲む。
父ちゃんが布巾を絞る。
店は動いている。
その中で、アタイも動いている。
昨夜の客が座っていた卓に、朝の光が当たっていた。
もう見ない。
そう決めたのに、どこにあるかは分かっている。
見なくても分かる。
それが、一番嫌だった。
孫二娘でございますよォ。
知らない顔ってのは、便利なんだよねェ。
空いた卓を見ない。
消えた客の話をしない。
聞こえた音を、聞かなかったことにする。
そうしていれば、店は普通に回る。
客も飯を食う。
父ちゃんも何も言わない。
だから怖いんだよ。
無理に黙らされたんじゃない。
知らない顔の方が楽だって、アタイが先に覚えちまったんだからねェ。




