身体の続き
孫二娘でございま〜す。
身体が覚えてるって言っても、包丁や店仕事くらいなら、まだ手続き記憶で説明できる。
でもねェ。
父ちゃんにいきなり手首を掴まれて、どう外すか考える前に外せたら話が変わってくる。
現代のアタイにも、護身で合気道を習った経験はあるよ。
だから理屈は分かる。
問題は――理屈を思い出すより、この身体の方が早いことなんだ。
しかも姉ちゃんまで横から実戦的な助言を始めやがった。
さて――
頭と身体が別々の記憶から同じ答えを出し始めたら、それはどっちの「アタイ」なんだろうねェ?
昼の客が引き始めた頃、姉ちゃんはまだ帰る気配を見せなかった。
朝から仕込みを手伝い、昼は客をさばき、今は厨房の隅で残った菜を数えている。
嫁ぎ先へ戻る時間を気にしている様子もない。
「姉ちゃん、今日いつ帰るの?」
「帰らないよ」
あまりに普通に返されたので、アタイは持っていた椀を落としかけた。
「はい?」
「今日は泊まる。明日の朝も手伝ってから帰るよ」
「実家への滞在が自由すぎない?」
「実家なんだから自由だろ」
「旦那さんは?」
「言ってある」
「行動が早い!」
姉ちゃんは気にも留めず、残った菜を籠へ戻している。
父ちゃんも驚かなかった。
「なら大娘、夕方の仕込みも見てくれ」
「最初からそのつもりだよ。酒、一本開けるからね」
「勝手に決めんな」
「昼の減り方見りゃ分かるだろ」
また父ちゃんが負けた。
もう店主交代の儀式だけ済ませればいいんじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、父ちゃんがこちらを見た。
「二娘」
嫌な予感がした。
最近、この名前で呼ばれた後に何かが増える。
包丁だったり、接客だったり、見てない顔だったり。
十七歳の女の子に対する教育課程として、だいぶ方向がおかしい。
「何?」
「ちょっと来い」
父ちゃんは厨房ではなく、店の裏へ続く戸を開けた。
アタイは動かなかった。
その戸の向こうへ行ったことは、たぶんある。
身体のどこかがそう言っている。
でも、頭には何もない。
「何するの?」
「確認だ」
「その説明で安心できると思った?」
姉ちゃんが籠を抱えたまま笑った。
「行っといで。父ちゃん、二娘がどれくらい戻ってるか見たいんだろ」
アタイは姉ちゃんを見る。
「何の?」
「さあね」
「姉ちゃん絶対知ってるよね!?」
「行けば分かる」
「十字坡の人間、説明責任って概念知らないの!?」
父ちゃんは先に出ていった。
姉ちゃんまで平然としているなら、少なくともいきなり殺されるような話ではない。
そう判断した自分に、一瞬遅れて腹が立った。
比較対象がおかしくなっている。
アタイは手を布で拭き、父ちゃんの後へ続いた。
裏手には高い壁があり、土の地面へ午後の光が斜めに落ちていた。
水桶と古い木箱が置かれ、店の表とは匂いが違う。
酒でも湯気でもない。
乾いた土と木、それに水の匂いだった。
父ちゃんが振り返る。
「手ェ出せ」
「何で?」
「いいから」
嫌だ。
そう思ったのに、右手を差し出してしまった。
父ちゃんの太い指が手首を掴んだ瞬間、胸の奥が強張る。
痛いほどではない。
けれど、逃げにくい位置だった。
親指の場所と指の圧、それが骨のどこへかかっているのかまで妙にはっきり分かる。
手首を掴まれた時、力任せに引いてはいけない。
その知識は現代のアタイにもあった。
大学で心理学を教えていたからって、二十七年間ずっと研究室へ引きこもっていたわけじゃない。
護身のつもりで合気道を習った時期くらいある。
相手の力へ真っ向から逆らわず、腕だけで逃げようとしない。
肩を固めず、足を使って位置を変える。
そこまでは知識として分かる。
でも――身体は、思い出すより早かった。
足が半歩ずれ、肘が落ちる。
手首が返り、父ちゃんの親指と指の間へ抜ける角度を探した。
待って。
そう思った時には、父ちゃんの手が外れていた。
アタイは一歩離れ、父ちゃんの腕だけが少し前へ流れている。
自分でやったのに、一瞬何が起きたのか分からなかった。
父ちゃんはアタイの手首を見た。
「鈍ってねぇな」
その一言で、ぞっとした。
できるようになった、ではない。
まだできる。
つまり、前からできた。
「……今の、アタイが?」
「他に誰がいる」
「いや、そういう意味じゃなくて」
父ちゃんがまた手を伸ばした。
「もう一回だ」
「ちょっと待って、心の準備くらい――」
待ってくれなかった。
今度はさっきより早く手首を取られる。
でも、身体は固まらない。
足を動かし、肘を下げ、相手の親指側へ手を抜く。
頭の中では現代の知識が手順を追っているのに、十七歳の身体はその説明を待ってくれない。
父ちゃんの手が外れた時には、距離まで取っていた。
正しい。
そう思った瞬間、喉の奥が詰まる。
何が正しいんだ。
父ちゃんは頷いた。
「掴まれたら力で引くな。腕だけで逃げようとせず、足を動かせ」
知っている。
現代でも教わった。
ところが、その次が違った。
「客の前で騒ぐな。外した後も顔を変えるな」
「……はい?」
合気道では聞いたことがない。
少なくともアタイが習った時、接客業との複合科目ではなかった。
「待って。今これ、護身の話じゃないの?」
「護身だ」
「最後に接客マニュアル混ざったよね?」
父ちゃんは気にせず、今度は手首を掴んだまま少し引いた。
身体が前へ持っていかれる。
その感覚で、昨夜の男が腰へ触れたことを思い出した。
笑いながら伸びてきた手。
軽く触れられただけなのに、緊張して動けなかった自分。
一瞬だけ身体が止まる。
「止まるな」
父ちゃんの声が飛ぶ。
その言葉で足が出た。
正面から力を受けず、半歩ずれる。
手首を返せば掴みが外れる。
そこまでは現代のアタイも知っている。
問題は、その先だった。
父ちゃんの肘へ手が伸びかけた。
そこを押さえて体勢を崩せる位置が見えた。
さらに足を入れれば、父ちゃんを地面へ落とせる。
一つ先どころではない。
身体の中に、続きがある。
アタイは慌てて手を引いた。
父ちゃんが眉を上げる。
「止めたな」
「止めるよ!」
「店の中ならそれでいい。倒すと場が荒れる」
アタイは父ちゃんの顔を見た。
「相手が怪我するから、じゃなくて?」
「怪我させる必要がなきゃ、させねぇよ」
「そこまでは普通なのに!」
「店で客をひっくり返しゃ、椀は割れるし卓もずれる。他の客も騒ぐだろ」
「経営上の損失で護身術を語らないで!」
戸の方から吹き出す声がした。
振り返ると、姉ちゃんが立っていた。
いつの間に来た。
「姉ちゃん!」
「何だい」
「何で見物してんの!?」
「仕込み終わったから」
「それで妹の護身訓練を娯楽にするな!」
姉ちゃんは壁へ肩を預け、腕を組んだ。
「父ちゃん、それじゃ二娘が混乱するだろ」
味方が来た。
そう思った。
「最初に掴む場所を変えな。手首ばっかりじゃ客もそんな親切じゃないよ」
敵だった……
「姉ちゃん!?」
「袖もあるし、肩もある。酔っ払いなら腕ごと抱えようとする奴もいるだろ」
「実戦経験を教材にするな!」
「経験ある方が教えやすいじゃないか」
……姉ちゃん、やっぱり強すぎない?
妖艶な美女が実家へ帰ってきて、在庫を管理し、客をさばき、妹の護身訓練へ実戦的な助言まで入れてくる。
姉ちゃん一人で店が回る理由がまた増えた。
父ちゃんも納得したらしく、今度はアタイの袖へ手を伸ばす。
「ちょっと、姉ちゃんの提案を即採用しないで!」
袖を掴まれる寸前、身体が斜めへ逃げた。
指が布をかすめる。
正面に立たず、腕が伸びきる前に距離を切った。
父ちゃんの手が空を掴む。
姉ちゃんが頷いた。
「そこは残ってるね」
まただ。
残っている、戻っている、覚えている――そんな言い方をされるたび、知らない十七年間が身体の側からこちらへ近づいてくる。
アタイは知らない。
でも身体は知っている。
現代のアタイにも護身術の理屈がある。
別々だったはずの二人が、同じ動きを正解だと判断してしまう。
「……こういう記憶の統合、本人の同意を取ってくれない?」
姉ちゃんが首を傾げる。
「誰に言ってるんだい?」
「世界」
「大きく出たね」
父ちゃんが再び腕を伸ばせば外し、次に肩へ来れば身体をずらす。
袖を取られそうになれば、今度は距離を切った。
何度か繰り返すうち、息は上がったのに動きそのものは乱れなくなった。
それが怖かった。
父ちゃんが手を止める。
「これだけ覚えとけ。外す、離れる、それから顔を戻す」
「最後の一個、本当に必要?」
「必要だ」
「何で?」
「客だからだ」
簡潔すぎて余計に怖い。
父ちゃんは続けた。
「掴まれて悲鳴上げりゃ店が止まる。怒鳴りゃ相手も意地になる。外せるなら外して、何でもなかった顔しろ」
何でもなかった顔。
それは朝に教わったものと同じだった。
見ても見てない顔をして、聞いても知らない顔をする。
そして今度は、客に掴まれても何でもなかった顔をする。
十字坡の作法が、身体へ増殖している。
「笑えりゃ笑ってもいい」
「要求レベル上げないで!」
姉ちゃんが笑った。
「無理なら笑わなくていいよ。あたいみたいに押し返してもいい」
「姉ちゃん方式は参考にすると店内戦闘が始まりそうなの!」
「加減すりゃいいだろ」
「そこじゃない!」
父ちゃんは店の方へ顔を向けた。
表から客の声がした。
「やってるかい!」
訓練終了の合図みたいだった。
父ちゃんは戸へ向かう。
「戻るぞ」
姉ちゃんも続く。
アタイだけが少し遅れた。
手首を見る。
赤くもないし、痛くもない。
それなのに、父ちゃんに掴まれた感触より、自分で外した時の感覚の方が鮮明に残っている。
酒を出す手も、包丁を持つ手も、椀を運ぶ手も、客に掴まれれば逃げ方を知っている。
知らなかった手が、どんどんアタイの手になっていく。
店へ戻ると、姉ちゃんはもう客へ声をかけていた。
「そこ空いてるよ。座んな」
切り替えが早すぎる。
父ちゃんは酒を出し、姉ちゃんは卓を片づける。
さっきまでアタイの腕の取り方を相談していた二人が、何事もなかった顔で普通の店をやっている。
アタイも水差しを持った。
客の前へ行く。
「水だよォ」
声は震えなかった。
客が礼を言い、その手が椀へ伸びる。
アタイは見すぎないようにした。
でも、分かる。
その手がこちらへ来れば、どこへ足を出せばいいのか。
手首を取られたら、どちらへ抜けばいいのか。
袖なら距離を切り、肩なら身体をずらす。
そして外した後、どんな顔をすればいいのかまで考えている。
「二娘、ぼーっとしてないで次」
姉ちゃんが呼ぶ。
「分かってるよォ!」
返事をして、次の卓へ向かった。
夕方になっても姉ちゃんは帰らない。
今夜はここへ泊まり、明日の朝も普通に店を手伝うらしい。
少し前なら、頼れる人が一晩いてくれることに安心したと思う。
今も、たぶん安心している。
ただ、その頼れる姉ちゃんが十字坡の作法を父ちゃん以上に自然に使い、アタイがそれを覚え直すのを当然のように手伝っている。
味方が増えたのか。
逃げ道が減ったのか。
もう、よく分からなかった。
アタイは水場へ向かう。
床板の浮いた場所を避ける。
客の腕が届かない側を通る。
頼まれる前に空いた器へ気づく。
どれも意識しなくてもできた。
十字坡で働くための動きに、今日また一つ、掴まれた時の逃げ方が加わった。
怖いのは父ちゃんに手首を取られたことじゃない。
現代で合気道を習っていたことでもない。
この身体の動きと、アタイの知っている理屈が、少しずつ同じ場所へ重なっていくことだった。
そして店へ戻った時には、もう新しく覚えた動きを使うつもりで客を見ていた。
それが、一番嫌だった。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、普通は妹が護身術を習ってたら、もう少し心配しない?」
「心配してるから、袖も肩も掴ませたんだろ?」
「心配の方向が実戦的すぎる!」
しかも父ちゃんまで、客を倒すなって理由が「店が荒れるから」だよォ。
「椀割れたら困るだろ?」
「姉ちゃんまで経営側に立つな!」
そして今夜は、その姉ちゃんが実家にお泊まり。
「久しぶりに一緒に寝るかい?」
「その誘いだけ聞けば普通の姉妹なのにねェ……」
さて――
夜まで姉ちゃんと一緒なら、アタイの知らない「昔の二娘」が、まだ何か出てくるんじゃないだろうねェ?
「出たら教えてやるよ」
「寝かせる気ある!?」




