手首
孫二娘でございま〜す。
手首を取られたら、どう逃げるか。
そんなもん、知らない方が幸せなこともあるんだよォ。
けど十字坡じゃ、知らないままじゃ済まない。
客は酒を飲む。
手を伸ばす。
笑いながら、こっちの間合いに入ってくる。
父ちゃんは、それを教えたかったんだろうねェ。
自分を守るためか、店を荒らさないためか。
そこは、まだ分からない。
ただ一つだけ分かるのは――
アタイの手は、もう覚えちまってたってことさ。
店の合間に、父ちゃんに呼ばれた。
客の声が少し途切れた時だった。
椀は片付けた。
饅頭の湯気も薄くなった。
常連たちは、昼前の眠そうな顔で卓に肘をついている。
朝の店は、少しだけ空いていた。
だからといって、安心はしない。
空いている時ほど、別の音がよく聞こえる。
水場で布を絞る音。
厨房の火が小さく鳴る音。
父ちゃんの足が床を踏む音。
「二娘」
呼ばれた瞬間、身体が反応した。
アタイは振り返る。
父ちゃんは厨房の奥ではなく、裏手へ続く戸の前に立っていた。
「こっちへ来い」
何の用か、聞けなかった。
聞いても、たぶん答えは先に出ない。
十字坡では、聞くより先に動く。
そう思ってしまったことが嫌だった。
アタイは手を拭き、父ちゃんの後へついていく。
裏手は、思ったより明るかった。
高い壁がある。
土の地面がある。
水桶がある。
古い木箱が積まれている。
昼の光が、斜めに落ちている。
店の表とは違う匂いがした。
酒でもない。
湯気でもない。
肉でもない。
土と水と、乾いた木の匂い。
父ちゃんはそこで止まった。
「手ェ出せ」
アタイは動けなかった。
手。
その言葉だけで、胸が固まる。
酒を出した手。
包丁を持った手。
紙包みに伸びかけた手。
何も知らない顔で椀を運んだ手。
今度は何をさせられるのか。
父ちゃんは、急かさなかった。
ただ、待っている。
その待ち方が嫌だった。
できると分かっている者を待つ顔だった。
アタイは、ゆっくり右手を出した。
父ちゃんの手が伸びる。
太い指だった。
その指が、アタイの手首を掴んだ。
息が止まった。
痛いほどではない。
でも、逃げられない位置だった。
親指の場所。
指の圧。
手首の骨にかかる力。
一瞬で分かる。
分かりたくなかった。
手首を掴まれた時、力で引いてはいけない。
それは知っていた。
現代で、そう教わったことがある。
相手の力に逆らわない。
手首だけで逃げない。
肩を固めない。
足を動かす。
正面で受けず、横へ外す。
合気道――
その言葉が、頭の奥に浮かんだ。
知識としては知っている。
でも、今の身体は、思い出すより先に動いた。
足が半歩ずれる。
肘が落ち、手首が返る。
父ちゃんの指の隙間を、手が探す。
違う。
待って。
そう思った時には、もう父ちゃんの手が外れていた。
アタイは一歩下がっていた。
父ちゃんの腕は、少しだけ流れている。
アタイの手首は、父ちゃんの指から抜けていた。
何をしたのか、分からなかった。
いや、分かる。
分かってしまう。
だから嫌だった。
父ちゃんは、アタイの手を見て、ほんの少し目を細めた。
「鈍ってねぇな」
鈍る――
その言い方が嫌だった。
知らないものができたんじゃない。
前からできたものが、まだ残っている。
そう言われた気がした。
アタイは手首を押さえる。
「……今のは」
声が出た。
父ちゃんは、もう一度手を伸ばす。
「もう一回だ」
返事を待たない。
今度はさっきより早かった。
手首を取られる。
体が固まる前に、足が動く。
力で引かず、腕だけで逃げない。
相手の親指側へ抜く。
そんな言葉を、頭が遅れて追いかける。
身体はもう先にいる。
手首が返り、肩が抜ける。
足の位置が変わる。
父ちゃんの掴みが外れる。
今度は、外した後に距離まで取っていた。
正しい。
そう思ってしまった。
その瞬間、喉が詰まる。
正しいって何だ。
父ちゃんは頷いた。
「掴まれたら、力で引くな」
知っている。
そう思った。
「腕だけで逃げるな。足を動かせ」
それも知っている。
「客の前で騒ぐな。顔を変えるな」
そこだけが、違った。
合気道で教わった時、そんな言葉はなかった。
相手を傷つけない。
力をぶつけない。
崩して、逃げる。
そういう話だったはずだ。
でも、ここでは違う。
客に掴まれても、騒ぐな。
顔を変えるな。
店を止めるな。
同じような動きなのに、意味が違う。
父ちゃんはアタイの手首をもう一度取る。
「客が酔ってりゃ、こう来る」
今度は、少し引かれた。
体が前へ持っていかれる。
怖い……
腰の後ろに触れた指を思い出す。
身なりの良い客の笑い方を思い出す。
軽く触られたのに、緊張で動けなかった自分を思い出す。
身体が、一瞬だけ固まる。
父ちゃんの声が落ちた。
「止まるな」
その一言で、足が動いた。
手首を返し、肘を沈める。
半歩、横へずれる。
父ちゃんの力が、正面から外れた。
押さえるのではなく、逃がす。
現代の記憶が、遅れて言う。
そうだった。
力に逆らわない。
でも、十字坡の身体は、その先を知っていた。
外した後、父ちゃんの肘へ手が伸びかける。
肩を崩す位置が見える。
膝を落とせば、相手を地面へ倒せる。
そこまで見えた。
アタイは慌てて手を引いた。
父ちゃんが眉を上げる。
「止めたな」
返せない。
止めた。
たしかに止めた。
外すだけでよかったはずなのに、その先まで行けると思った。
倒せると思った。
父ちゃんは言った。
「店の中じゃ、倒すな。場が荒れる」
店が荒れる。
その理由が、嫌だった。
相手が怪我をするからじゃない。
危ないからでもない。
店の中が荒れるから……
父ちゃんは淡々と続ける。
「外す。離れる。顔を戻す。それでいい」
顔を戻す。
また顔――
見ても、見ない顔。
聞いても、知らない顔。
掴まれても、何でもない顔。
今度は、手首までそこに入る。
父ちゃんがアタイの腕を軽く叩いた。
「もう一度」
アタイは息を吸う。
嫌だ。
そう思うのに、足は位置を探している。
地面の硬さ。
父ちゃんとの距離。
手を出す角度。
逃げる方向。
全部、見えている。
合気道は知っていた。
それは確かだ。
けれど、知っていたことと、できることは違う。
今のアタイは、思い出して動いているわけじゃない。
身体が先に動く。
頭が後から理由をつける。
それが怖かった。
父ちゃんが掴み、アタイは外す。
また掴み、また外す。
何度か繰り返すうちに、息が上がった。
でも、動きは乱れなかった。
乱れないことが嫌だった。
父ちゃんは、急に反対の手を伸ばした。
手首じゃなく、袖を取ろうとした。
アタイの身体が、勝手に半歩下がる。
袖を取らせないように、正面に立たない。
相手の手が伸びきる前に、外へ逃げる。
父ちゃんの指が空を掴んだ。
アタイはそこまで動いてから、ようやく息をした。
父ちゃんは小さく笑った。
「そこは覚えてるか」
覚えている。
そう言われるたびに、アタイの中から何かが離れていく。
アタイは知らない。
でも、身体は知っている。
中の人も、理屈は知っている。
だから余計に逃げ場がない。
全部が別々に、同じ答えへ向かう。
手首を取られたら外す。
腕を引かれたら流す。
袖を掴まれたら距離を切る。
分かる。
できる。
できてしまう。
父ちゃんは、今度は少しだけ声を低くした。
「客に掴まれて、悲鳴を上げるな」
胸が冷える。
「客の前で泣くな。怒るな。手を乱すな」
アタイは唇を噛む。
「外したら、笑え」
笑え――
その言葉が、一番嫌だった。
父ちゃんは、アタイの顔を見ていた。
「笑えねぇなら、何でもない顔をしろ」
何でもない顔。
それなら、もう少し分かる。
分かってしまう。
アタイは、手首を押さえた。
父ちゃんの指の感触より、自分の手が動いた感触の方が強く残っている。
掴まれた嫌さより、外せた感覚が残っている。
それが嫌だった。
父ちゃんは店の方へ目をやった。
「客が来たみたいだ」
店の表から、遠い声がした。
旅人の声だった。
本当に来たらしい。
父ちゃんは、もう稽古を終えた顔をしていた。
「戻るぞ」
それだけ言って、戸へ向かう。
アタイはその背中を見る。
聞きたいことがあった。
昔から、こういうことをしていたのか。
誰に掴まれた時のためなのか。
客から身を守るためなのか。
それとも、客を逃がさないためなのか。
でも、聞かなかった。
聞かない方が、店へ戻りやすい。
そう思ってしまった。
アタイは手首をもう一度見る。
赤くはなっていない。
痛くもない。
ただ、熱が残っている。
酒を出す手。
包丁を持つ手。
紙包みに伸びかけた手。
椀を運ぶ手。
何も知らない顔で饅頭を出す手。
その手が、掴まれた時の外し方まで知っていた。
店へ戻ると、すぐに客の声が入ってきた。
「やってるかい」
父ちゃんが返事をする。
「入んな」
いつもの声だった。
アタイは厨房の入口に立つ。
さっきまで裏手にいたことが、もう店の空気に紛れていく。
客が入る。
椀を出す。
水を運ぶ。
顔を変えない。
何もなかったように。
でも、手首だけが熱い。
アタイは布巾を取る。
指が自然に動く。
父ちゃんが横を通りながら言った。
「手首、忘れるな」
忘れるな――
それは、覚えろという意味だった。
アタイは返事をしなかった。
できなかった。
でも、手は布巾を絞っている。
客の椀を見ている。
足は水場の方へ向いている。
止まらない。
顔に出さない。
手首を取らせない。
また、ひとつ増えた。
十字坡の作法が。
アタイは客の前へ出る。
声が震えないようにする。
「水だよォ」
普通に言えた。
普通に……
それが嫌だった。
怖いのは、父ちゃんに手首を取られたことじゃない。
合気道を知っていたことでもない。
十字坡の動きが、アタイの知っている理屈と重なってしまったこと。
そして、店に戻った時には、もうそれを使おうとしていたこと。
アタイは、客の手元を見すぎないようにした。
でも、見なくても分かる。
この手が伸びたら、どこへ逃げるか。
掴まれたら、どう外すか。
外した後、どんな顔をするか。
そこまで考えている。
それが、一番嫌だった。
孫二娘でございますよォ。
手首を取られたら、外せばいい。
口で言えば、それだけの話なんだけどねェ。
嫌なのは、できることじゃない。
できちまった後で、何でもない顔をすることさ。
十字坡じゃ、痛い目を見る前に覚える。
泣く前に動く。
怒る前に、店を回す。
アタイはまた一つ、ここで生きる作法を覚えちまった。
それが役に立つのが、いちばん嫌なんだよォ。




