見るだけでいい
孫二娘でございま〜す。
数ヶ月も十字坡にいりゃ、嫌でも分かることが増えるんだよォ。
酒を飲む客。
飯だけ食って帰る客。
女を見る客。
金の匂いをさせる客。
そして、帰さなくていい客。
父ちゃんは、いきなり包丁を持たせたわけじゃない。
まずは見るだけでいい、と言った。
けどねェ――
客を見る目が変わった時点で、もう狩りは始まってるのさ。
数ヶ月が経った。
そう数えられるくらいには、アタイは十字坡の朝と夜を知っていた。
朝の店は、湯気の匂いがする。
昼は腹を空かせた旅人が来る。
夕方は足を止める客が増える。
夜は、酒の匂いが先に立つ。
盃の音。
椀を置く音。
饅頭を蒸す音。
包丁がまな板に当たる音。
客が笑う声。
父ちゃんが黙って作業している時の間。
最初は全部が怖かった。
今も怖くないわけじゃない。
ただ、どの音で足を止めればいいのか。
どの声は流せばいいのか。
どの客に水を足して、どの客から半歩離れればいいのか。
分かるようになっていた。
それが嫌だった。
「二娘」
父ちゃんに呼ばれたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
客は三人。
ひとりは饅頭を食っている旅人。
ひとりは酒を飲んでいる常連。
もうひとりは、卓に肘をついたまま、外を見ている男だった。
アタイは椀を下げる手を止める。
「こっちへ来い」
父ちゃんの声は低かった。
怒ってはいない。
急いでもいない。
でも、店の表で使う声ではなかった。
アタイは布巾で手を拭く。
それから父ちゃんの方へ行った。
何をするのかは聞かなかった。
聞かなくなっていた。
そのことに気付いて、喉の奥が少し詰まる。
父ちゃんは厨房の奥へは行かなかった。
裏手にも出なかった。
店の柱の陰、表の客席が見える場所で止まった。
「見るだけでいい」
そう言った。
見るだけ――
その言葉が、妙に軽かった。
でも、父ちゃんが軽いことを言う時ほど、軽くない。
それも、もう分かっていた。
アタイは客席を見る。
饅頭を食っている旅人は、椀の中ばかり見ている。
服は汚れている。
荷は小さい。
腰の袋も軽そうだった。
食べ方は少し早い。
腹が減っているだけの客。
常連は、いつもの男だった。
盃を持っているけれど、今日はあまり飲んでいない。
父ちゃんと目を合わせない。
でも、見ていないわけじゃない。
時々、外を向いている男の方へ視線が動く。
最後の男。
外を見ている。
でも、景色を見ている目じゃない。
戸口。
道。
店の中。
それから、アタイ。
順番に見ている。
それなりに大きい荷はある。
けれど、古い旅人の荷ではなかった。
布は汚れているのに、結び目だけが妙にきれいだった。
腰の袋は見えない。
見えないように、上着の内側へ入れている。
目が、そこで止まった。
「見るな」
父ちゃんが小さく言った。
息が止まる。
「見ろと言ったんじゃないの」
声に出そうとして、やめた。
出なかったのではない。
出さない方がいいと思った。
父ちゃんは、客席から目を離さない。
「見るんじゃねぇ。見た顔をするな」
その言葉が入ってくる。
見ても、見ない顔。
聞いても、聞かない顔。
空いた卓を見ない目。
消えた声を追わない耳。
もう知っている。
知っている自分が嫌だった。
アタイは顔を少し下げる。
柱の陰に立つ。
客を見るのではなく、店を見るふりをする。
卓の上の椀。
酒甕の蓋。
常連の盃。
旅人の皿。
その間に、外を見ている男を見る。
見ていない顔で。
男はまだ戸口の方を見ていた。
それから、少しだけ指を動かす。
卓の上を叩くわけではない。 爪で木を触るだけ。
落ち着かない客の癖に見える。
でも、違った。
待っている。
そう思ってしまった。
「何を待ってるんだと思う」
父ちゃんが言った。
答えたくなかった。
分かりたくなかった。
でも、頭が先に動く。
道。
戸口。
店の中。
アタイ。
常連。
父ちゃん。
誰かを待っているんじゃない。
何かが足りるのを待っている。
人の数。
店の空き具合。
父ちゃんの位置。
アタイがどこにいるか。
そういうものを測っている。
「……空くのを」
小さく言った。
父ちゃんは何も返さない。
沈黙が答えだった。
胸の奥が冷える。
当たった。
当たりたくなかった。
外を見ていた男が、ようやくこちらへ顔を向けた。
アタイと目が合いそうになる。
すぐに外す。
水場の方へ歩くふりをして、視線を切る。
足が勝手に動いた。
客の正面に立たない。
近づきすぎない。
背中を見せすぎない。
逃げ道を塞がない。
でも、こちらの動きを読ませない。
いつの間に、そんなことを覚えたのか分からない。
父ちゃんが低く言う。
「今の男は、飯だけじゃ帰らねぇ」
喉が鳴る。
「何で」
聞いてしまった。
父ちゃんは少しだけアタイを見る。
すぐに客席へ戻した。
「腹が減ってる客は、食い物を見る。酒が欲しい客は、盃を見る。女が欲しい客は、お前を見る。金が欲しい客は、店を見る」
淡々とした声だった。
「じゃあ、あれは」
「店を見てる」
店――
その言葉が重かった。
あの男は、アタイを見た。
でも、アタイだけじゃなかった。
戸口を見た。
奥を見た。
父ちゃんを見た。
常連を見た。
水場を見た。
酒甕の位置を見た。
店を見ていた。
「盗人?」
父ちゃんは答えない。
答えないことで、また分かる。
ただの盗人なら、まだ軽い。 もっと別のものを見ている。
父ちゃんが言う。
「客には三つある」
アタイは息を止める。
「腹を満たして帰す客」
「金を落として帰す客」
「帰さなくていい客」
背中が冷たくなった。
帰さなくていい客。
言葉が、店の床へ落ちたみたいだった。
なのに、外では椀の音がする。
饅頭を食っている旅人が汁をすすっている。
常連が盃を少し動かしている。
外を見ていた男が、何も知らない顔で座っている。
店は止まらない。
父ちゃんの声も変わらない。
「間違えるな」
アタイは父ちゃんを見る。
「腹を空かせてるだけの奴を沈めるな。道に迷った奴から取りすぎるな。酒癖が悪いだけの奴で店を荒らすな」
言っていることは、ひどいはずだった。
なのに、決まり事みたいに聞こえた。
包丁の置き場。
椀の数。
水を足す順番。
空いた卓を見ない目。
それと同じように、父ちゃんは話している。
「じゃあ、帰さなくていい客って」
聞きたくないのに、口が動いた。
父ちゃんは、外を見ている男から目を離さない。
「向こうが先に、こっちを獲物にしてる奴だ」
息が止まる。
獲物――
その言葉が、胸の奥で引っかかる。
今まで、アタイは見られる側だった。
呼ばれる側だった。
触られる側だった。
知らない顔をする側だった。
でも、父ちゃんは今、向こうを見ている。
獲物として――
「こっちを測る奴は、こっちも測る」
父ちゃんが言う。
「道で襲うつもりかもしれねぇ。夜に戻るつもりかもしれねぇ。仲間を呼ぶつもりかもしれねぇ。お前を攫うつもりかもしれねぇ」
アタイは声が出なかった。
父ちゃんは続ける。
「だから、見る」
見るだけ。
最初の言葉が戻ってくる。
見るだけじゃない。
選ぶために見る。
息が苦しくなる。
客席で、男が立った。
「水をもらえるかい」
声は普通だった。
アタイに向いていた。
身体が固まりかける。
でも、固まる前に足が動く。
水場へ行く。
器を取り、水を汲む。
父ちゃんは止めない。
止めないということは、行けということだ。
アタイは器を持って客席へ向かう。
男は笑っている。
悪い人間には見えない。
そう思いたい。
そう思おうとする。
でも、目が違う。
水ではなく、アタイの手を見る。
それから、袖の奥を見る。
足元を見る。
後ろに父ちゃんがいるかどうかを測る。
器を置く。
「水だよォ」
声は震えなかった。
男が笑う。
「ありがとうよ、二娘ちゃん」
その呼び方を、どこで聞いたのか。
喉が詰まる。
常連か。
さっき誰かが呼んだのか。
それとも、最初から知っていたのか。
男の手が、器ではなくアタイの手首に近づいた。
ほんの少し。
まだ触れていない。
でも、身体が先に動いた。
半歩外す。
器を卓に残す。
袖を取らせない。
相手の指が届く前に、手を引く。
顔は変えない。
男の指が空を掴んだ。
一瞬だけ、男の目が変わる。
笑ったまま、奥が冷える。
それを見た瞬間、分かった。
この客は、帰さなくていい客だ。
そう思ってしまった。
頭が真っ白になる。
違う――
アタイが決めることじゃない。
アタイはまだ何も知らない。
紙包みにも触っていない。
薬の名前も聞いていない。
裏で何をするのかも見ていない。
でも、分かってしまった。
父ちゃんの言った意味が。
常連たちの位置が。
水を頼ませた理由が。
アタイに器を運ばせた理由が。
見るだけじゃなかった。
試された。
男も。
アタイも。
アタイは一歩下がる。
男は何もなかったように水を飲む。
でも、笑い方が変わっている。
さっきより薄い。
父ちゃんが厨房から声をかける。
「二娘、奥へ」
短い声だった。
アタイは、客に背を向けすぎず、横へ抜ける。
厨房へ戻る。
棚の奥が目に入った。
布の下……
紙包みがあった場所。
今日は見ないつもりだった。
でも、父ちゃんがそこへ手を伸ばした。
布を少しだけ持ち上げる。
古い紙が見えた。
白くない。
薄汚れた、小さな包み。
父ちゃんはそれを取らなかった。
ただ、アタイに見せるように、そこにあることだけを示した。
「まだ触るな」
声は低かった。
「だが、場所は覚えろ」
息が止まる。
まだ早い。
前はそう言った。
今日は違う。
場所は覚えろ。
アタイは紙包みを見る。
見たくないのに、目が離れない。
あれを使うのだと思った。
あの男に。
帰さなくていい客に。
そう分かった。
喉の奥が冷たくなる。
父ちゃんは布を戻す。
紙包みは見えなくなる。
でも、場所はもう覚えた。
棚の奥。
酒甕の横。
乾いた布の下。
覚えてしまった。
父ちゃんは客席を見る。
「今日は見るだけだ」
また、その言葉。
でも、もう最初とは違って聞こえる。
見るだけ。
見る。
見分ける。
覚える。
そして、いつか自分で動く。
その順番が、はっきり見えた気がした。
外では、男が水の器を置く音がした。
少し重い音だった。
常連が笑う。
父ちゃんは黙っている。
店の空気が、少しずつ静かになる。
アタイは厨房の入口に立つ。
あの男を見ない。
でも、どこにいるかは分かる。
どの手で器を持ったかも。
どの目でアタイを見たかも。
手首へ指を伸ばした角度も。
全部、覚えている。
知らない顔をする。
顔に出さない。
止まらない。
それだけなら、もうできる。
でも、今日はそれだけじゃない。
あの客は、帰さなくていい客。
そう思った自分がいる。
それが、一番嫌だった。
孫二娘でございますよォ。
見るだけ――
そう言われると、まだ何もしてない気がするだろう?
けどねェ。
十字坡じゃ、見ることから狩りが始まるんだよ。
腹を満たして帰す客。
金を落として帰す客。
帰さなくていい客。
それを見分けた時点で、もうただの看板娘じゃいられない。
怖いのは、父ちゃんに教えられたことじゃない。
あの客は帰さなくていい。
そう思った自分が、ちゃんといたことなのさ。




