姉ちゃんの袖
孫二娘でございま〜す。
姉ちゃんが実家に泊まるってんで、久しぶりに姉妹で風呂へ入ることになった。
まあ、それだけなら普通だよねェ。
問題は、服を脱いだ姉ちゃんの腹筋が見事に六つへ割れてたことと、背中にどう見ても平穏な人生じゃできない傷があったことだよ。
……アタイの姉、どんな二十年を生きてきたんだ?
ところが本当に困ったのは、その後だった。
覚えてないはずのアタイの手が、姉ちゃんより先に昔のことを知ってやがる。
さて――
怖い記憶なら拒めるけど、優しかった記憶まで戻ってきたら、それも「昔の自分」だって切り捨てられるのかねェ?
夜の営業が終わった。
最後の客を送り出し、父ちゃんが戸を閉めると、さっきまで店を埋めていた声が急に消える。
卓には空いた椀が残り、酒の匂いだけがまだ漂っていた。
姉ちゃんは朝から働いていたくせに疲れた顔ひとつせず、残った皿を厨房へ運んでいる。
「姉ちゃん、本当に泊まるんだね」
「昼にも言っただろ」
「確認しただけ。嫁いだ娘が朝から晩まで実家の店を回して、そのまま泊まるって自由すぎない?」
「実家なんだからいいじゃないか」
姉ちゃんは皿を重ねながら、父ちゃんへ振り返った。
「父ちゃん、今日は泊まりいないんだろ?」
「ああ」
「じゃあ、客用の湯使うよ」
「好きにしろ」
話が早い。
十字坡には旅人を泊める部屋があるから、客が身体を洗える広めの浴場もある。
アタイにはまだ使った記憶がない。
正確には、中のアタイにはないだけで、身体の方はどうだか分からない。
最近は、その区別を考えるだけで疲れるようになってきた。
姉ちゃんがアタイの肩を叩く。
「二娘、先に入るよ」
「え?」
「何だい」
「姉ちゃんも一緒?」
今度は姉ちゃんが変な顔をした。
「泊まるんだから、一緒に入ればいいだろ」
「いや、そうなんだけど……」
「昔は普通に入ってたじゃないか」
また出た。
昔は。
この家の人間は、記憶喪失の人間へ「昔は」を投げることに何の躊躇もない。
「アタイ、その昔を知らないんだけど」
「なら今日からまた入ればいいだろ」
「解決方法が豪快すぎる!」
父ちゃんが厨房の奥で笑った。
「大娘に背中でも流してもらえ」
「父ちゃんは黙ってて!」
姉ちゃんに腕を引かれ、客用の浴場へ向かう。
湯気のこもった広い部屋だった。
壁際に桶が並び、奥には何人か入れそうな湯が張ってある。
思ったより立派だ。
「……宿としての設備だけ見ると、普通に評価高そうなのが腹立つ」
「何の評価だい?」
「気にしないで」
姉ちゃんはさっさと帯を解き始めた。
アタイも自分の支度をしようとして――止まった。
姉ちゃんが上着を脱いだ。
「……姉ちゃん」
「何だい?」
もう一枚脱ぐ。
「待って」
「何を?」
服を着ていても、姉ちゃんが妖艶な美女なのは分かっていた。
顔立ちは派手だし、店へ立てば客の視線も集める。
嫁いだ今でも、十字坡の看板娘として十分通用するくらいには目立つ。
問題は、服を脱いだ後だった。
肩も背中も思った以上に締まっている。
そして腹。
「……割れてる」
「何が?」
「腹筋」
姉ちゃんが自分の腹を見る。
「これ?」
「これじゃないよ! 何で六つあるの!?」
きれいに六つだった。
現代でも鍛えている人間なら珍しくはない。
だがアタイの姉は、朝から菜を数え、昼は客をさばき、酔っ払いを片手で押し返し、夕方には在庫を管理していた女である。
その全部を支えていた身体が、脱いだ途端に答え合わせを始めやがった。
「働いてりゃつくだろ」
「つかない! 普通の飲食店勤務でシックスパックは完成しない!」
「しっくす?」
「腹が六つに割れてるってこと!」
姉ちゃんは腹へ手を当て、少し考えた。
「便利だよ」
「何に!?」
「重い甕持つ時とか」
「腹筋を店舗設備みたいに言うな!」
姉ちゃんが笑った。
アタイは妙な敗北感に襲われた。
現代では二十七歳。
大学で心理学を教え、男子学生がなぜか前列へ集まり、妖艶なお姐さん教授だの何だのと言われていた。
自分が見られる側の女なのは知っていた。
それなのに今は、実の姉の腹筋へ完全に負けている。
「……姉ちゃん、服着てる時より情報量多くない?」
「知らないよ」
「色っぽいのに腹筋割れてるって、属性盛りすぎでしょ」
「何だい、ぞくせいって」
「現代人だけが分かればいい言葉!」
姉ちゃんは先に身体を流し始めた。
アタイも隣へ行こうとして、なぜか足が自然に奥へ向かった。
桶はいくつもあるのに、迷わず一つを取る。
姉ちゃんが振り返った。
「それ、あんたがいつも使ってたやつだよ」
手が止まった。
「……これ?」
「そう」
見た目は他とほとんど変わらない。
少し縁が欠けているくらいだ。
「何で分かったの?」
「何が?」
「アタイが、これ取った理由」
姉ちゃんが笑う。
「知らないよ。あんたが取ったんだろ」
そうだった。身体が選んだのだ。
包丁や椀の扱い、店の中を歩く時と同じように。
ただ、今回は仕事じゃない。
客もいないし、父ちゃんもいない。
誰にも急かされていないのに、それでも身体は知っていた。
姉ちゃんが湯を肩へかける。
「二娘、背中やるよ」
「え?」
「座んな」
「ちょっと待って」
「何だい」
「心の準備が」
「背中流すだけだろ」
正論だった。
それなのに、アタイは二十七歳の意識で二十歳の姉に背中を流してもらうという状況を処理しきれていない。
「姉ちゃん、アタイの中身だけ考えると妹より年上なんだけど」
「何言ってんだい?」
「そうだよね。説明不能だよね!」
姉ちゃんが桶を置いた。
その音を聞いた瞬間、アタイは考える前に身体をずらし、姉ちゃんへ背中を向けて座っていた。
髪まで邪魔にならないよう片側へ寄せている。
自分でやった。
でも、やろうとは思っていなかった。
「……そこは変わってないね」
「何が?」
「昔から、あたいが背中洗う時はそうやって座ってたよ」
喉が詰まった。
「今のも?」
「身体が覚えてるんじゃないのかい?」
姉ちゃんは何でもないことみたいに言う。
背中へ湯がかかる。
怖くはなく、むしろ気持ちいいと感じたことが、少し嫌だった。
「昔もこうしてたの?」
「してたよ。あんた、髪洗うの面倒くさがったからね」
「十七歳のアタイ、意外とズボラ!」
「意外じゃないだろ」
「今のアタイを何だと思ってんの!?」
「口だけ達者な妹」
「評価が雑!」
姉ちゃんが背中を軽く叩いた。
「はい、次あたい」
交代する。
今度は姉ちゃんが前へ座った。
アタイは布を持ち、どう洗えばいいのか考えようとした。
ところが、手の方が先に動いた。
肩から背中へ布を滑らせ、力を入れる場所と抜く場所まで自然に変えていく。
姉ちゃんの右肩へ近づいた時だった。
手が、不自然なほど大きく横へ逸れた。
「……え?」
自分で止めたわけではない。
そこだけ避けるように動いた。
何があるのかと目を凝らして――アタイは少し身を引いた。
「……姉ちゃん」
「ん?」
「ちょっと待って。それ、何?」
右肩の後ろから背中へ斜めに、古い傷跡が走っている。
細い擦り傷ではない。
かなり昔のものらしく色は薄れているが、形を見れば分かる。
刃物だ。
それも、小さな刃で切った程度には見えない。
「姉ちゃん、それ刀で斬られた跡じゃない?」
「そうだったかね」
「そうだったかね、で流す傷!?」
思わず声が大きくなった。
「いやいやいや、待って! アタイ昼間、姉ちゃんを『強いなあ』くらいで処理してたけど、実戦の意味が思ってたより物騒なんだけど!?」
「昔ちょっとね」
「この長さで『ちょっと』を使うな!」
姉ちゃんは笑っている。
笑い事じゃない。
腹筋が六つに割れているところまでは笑えた。
これは無理だ。
「何と戦ったの?」
「いろいろ」
「回答まで雑!」
「昔の話だよ。もう痛くない」
「そういう問題!?」
思わず傷をもう一度見る。
その瞬間、別の違和感に気づいた。
アタイの手は、傷を見つける前にそこを避けていた。
背中に何があるか確認するより先に。
「……待って」
「今度は何だい?」
「アタイ、今これ見て避けたんじゃない」
姉ちゃんが振り返る。
「そうだろうね」
「何で当然みたいに言うの?」
「昔から、そこ避けて洗ってたから」
心臓が強く鳴った。
「アタイが?」
「傷に当たると痛いだろって、あんたが勝手に避けてたよ」
姉ちゃんが斬られた時のことも、傷がまだ新しかった頃のことも、アタイは何ひとつ覚えていない。
なのに手だけは、そこへ触れれば姉ちゃんが痛がるから避けることを知っていた。
それは包丁の使い方でも、客から手首を外す護身の技術でもない。
姉ちゃんを痛がらせないために身についた癖だった。
「……手続き記憶って、ここまで生活に侵入してくる?」
「また難しいこと言ってるね」
「今、専門家として若干困ってるの!」
姉ちゃんが笑った。
「じゃあ、思い出せばいいじゃないか」
「簡単に言うなァ!」
でも、その言葉に以前ほど強く反発できなかった。
十字坡の二娘が何をしていたのかは、まだ全部知りたくない。
紙包みの中身も、昨夜消えた客のことも、父ちゃんや姉ちゃんが何を当たり前として生きてきたのかも、まだ知るのが怖い。
でも、姉ちゃんの傷を避けていた記憶まで拒絶する必要があるのだろうか。
それだけは分からなかった。
二人で湯へ入る。
広い浴場なのに、姉ちゃんは当然のように隣へ座った。
アタイも離れなかった。
「……姉ちゃん」
「何だい」
「アタイ、昔もここ?」
「そこ」
「姉ちゃんは?」
「ここ」
今と同じだった。
「何でそこまで同じなのよ」
「姉妹だからじゃないか?」
心理学的説明を全部投げ捨てる回答だったけれど、アタイは少しだけ笑ってしまい、姉ちゃんもつられて笑った。
湯気の向こうで見ると、店に立っている時より普通の姉に見えた。
妖艶な看板娘でも、酔っ払いを片手で押し返す女でもない。
腹筋が六つに割れていて、背中には刀傷まであるけれど――そこを除けば、姉ちゃんだった。
「いや、除く情報が重いのよ」
「何が?」
「独り言!」
風呂から上がる頃には、姉ちゃんがどの布を使うかまで何となく分かっていた。
手を伸ばす前に一枚渡す。
「ほら」
「ああ、ありがと」
姉ちゃんが受け取ってから、こちらを見る。
「それも昔からだね」
「……言わなくていい」
「何で?」
「怖くなるから!」
姉ちゃんはまた笑った。
夜も遅くなり、二人で部屋へ戻る。
姉ちゃんは本当に一緒に寝るつもりらしい。
「二娘、そっち」
指されたのは壁側だった。
ところが、言われる前からそこへ行こうとしていた。
アタイは布団へ入り、姉ちゃんも隣に横になる。
変な感じはする。
でも、嫌ではなかった。
「おやすみ、二娘」
「……おやすみ、姉ちゃん」
灯りが消える。
暗くなった瞬間、身体へ少しだけ力が入った。
その時、右手の指先へ布の感触が伝わった。
何だろうと思って確かめる。
暗くても分かった。
アタイの手が、姉ちゃんの袖を掴んでいた。
自分から掴んだ覚えはない。
姉ちゃんが小さく笑う。
「そこまで戻ったか」
「……何?」
「あんた、昔から寝る時だけ、あたいの袖掴むんだよ」
手を離そうとした。
でも、一瞬だけ迷った。
怖かったからじゃない。
離さなくてもいいと思ったからだ。
そのことに気づいて、指先が止まる。
昼間は、客の手から逃げる方法を身体が思い出した。
夜になれば、刀傷のある姉ちゃんの背中を痛がらせない洗い方を知っていて、眠る時には袖まで掴んだ。
十字坡の二娘は、怖いものばかり残していたわけじゃない。
姉ちゃんを好きだった記憶まで、身体の中に残している。
それが分かってしまった。
だからこそ――どこまでが昔の二娘で、どこからが今のアタイなのか、ますます分からなくなった。
それが、一番怖かった。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、まず聞きたいんだけど、その腹筋どうなってんの?」
「働いてりゃつくって言っただろ」
「だから普通は六つに割れないの!」
しかも背中には刀傷まである。
「昔ちょっとね」
「その『ちょっと』、たぶん普通の人の一生分より重いよねェ!?」
それなのに、アタイの手は傷を見つける前から、そこだけ避けて洗ってやがった。
「昔からそうだったよ」
「そこだけ優しい思い出で殴ってくるな!」
さて――
明日の朝、目が覚めた時もアタイは姉ちゃんの袖を掴んでるんだろうかねェ?
「たぶんね」
「予言みたいに言うな!」




