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場を整えた

孫二娘でございま〜す。

水を出し、酒を運ぶ。

奥へ下がる。

戻って、また水を出す。

それだけなら、ただの店仕事に見えるだろうねェ。

けど十字坡じゃ、それだけで狩りの形が整うんだよォ。

父ちゃんが動き、常連が囲む。

そして、客が鈍る。

その間、アタイは何も知らない顔で立っていた。

怖いのは、何かをしたことじゃない。

何もしていない顔で、ちゃんと役に立っちまったことなのさ。

数日後、その男はまた来た。

昼を少し過ぎた頃だった。

朝の客はもう引いている。

夕方の客には、まだ早い。

店の中は妙に空いていた。

空いている時ほど、音はよく通る。

戸口の木が鳴り、足が一歩入る。

外の光が、床に細く伸びる。

アタイは水場のそばで、柄杓を桶へ沈めかけていた。

指が止まる。

見なくても分かった。

あの男だ。

前に水を頼んだ男。

店を見ていた男。

アタイの手首へ指を伸ばした男。

父ちゃんが、帰さなくていい客だと教えた男。

顔より先に、音で分かった。

足の置き方。

戸口で止まる間。

店の中へ入る前に、少し息を測る感じ。

耳に残っていた。

アタイは柄杓を沈める。

水面が揺れた。

その音で、自分の手が震えていることに気付いた。

「やってるかい」

男の声がした。

前より少し慣れている。

初めて来た客の声ではなかった。

父ちゃんが返す。

「入んな」

いつもの声だった。

低くもなく、硬くもない。

普通の店主の声。

男が店へ入る。

戸口近くにいた常連が、少しだけ身体をずらした。

ただ席を空けたように見える。

でも、違う。

道を作った。

男を奥の卓へ通す道。

外へ戻る道じゃなく、店の奥へ入れる道。

アタイは水場へ視線を戻す。

見た顔をするな。

父ちゃんの声が、耳の奥で鳴った。

男が座る場所は分かっていた。

奥から二つ目の卓。

壁に近い席。

戸口から少し遠い。

厨房からは見える。

裏手へ続く戸にも近い。

そこへ座らせる。

思った通り、男はその卓に腰を下ろした。

「今日は空いてるな」

男が言う。

常連の一人が笑った。

「昼過ぎはこんなもんさ。夕方になりゃ混む」

嘘じゃない。

でも、今日はそういう話じゃない。

空いた店に、残っている常連。

厨房の入口にいる父ちゃん。

水場にいるアタイ。

全部、形になっている。

今日は、帰さない日だ。

そう思ってしまった。

アタイが決めることじゃない。

父ちゃんが決める。

常連たちが動く。

アタイはまだ、何もしていない。

そう思おうとした。

でも、身体はもう水を汲んでいた。

器を取り、男の前へ出る準備をしている。

「二娘」

父ちゃんに呼ばれた。

「水を出せ」

短い声だった。

水――

ただの水。

前にも出した。

あの男に。

アタイは器を持つ。

水面は揺れている。

けれど、手は震えていなかった。

震えていないことが、嫌だった。

男の卓へ向かう。

正面から近づかないように、少し横へ寄る。

手が伸びても、すぐ外せる距離に立つ。

考える前に、足がそう動く。

男は笑っていた。

「お、二娘ちゃん。今日は元気そうだな」

気持ち悪い呼び方だった。

でも、顔には出さない。

アタイは器を卓へ置いた。

「水だよォ」

普通に言えた。

男は器を見る。

それから、アタイの手を見る。

前と同じだった。

ただ、今日はすぐには手を伸ばさない。

前に外されたことを、覚えているようだった。

この男も、見ている。

測っている。

試している。

男は水を飲まず、笑った。

「酒も頼むよ」

「少し待ちなァ」

口が勝手に返した。

客前の声だった。

アタイは厨房へ戻る。

父ちゃんの横を通る時、父ちゃんは何も言わなかった。

それが合図だった。

止まるな。

そのまま動け。

いつものようにしろ。

アタイは酒甕の前に立つ。

一つだけ盃を取る。

棚の奥が視界に入る。

乾いた布巾。

その下にある紙包み。

今日は見ない。

そう決めていた。

でも、父ちゃんの手がそこへ伸びた。

布巾が少し持ち上がり、紙包みが取られる。

前より、ずっと自然な動きだった。

隠すでもなく、見せるでもなく、必要な物を取る手。

その手つきが、一番怖かった。

父ちゃんは紙包みを開く。

アタイには中身を見せない。

掌の陰で、小さく動かす。

「見なくていい」

低い声だった。

見なくていい。

その言葉で、余計に分かる。

見なくても、何をしているのか覚えろ。

そう言われている気がした。

アタイは盃を持ったまま、目を伏せる。

父ちゃんの指の動きは見ない。

紙の音も、聞かないふりをする。

でも、聞こえた。

乾いた紙が擦れる音。

酒の匂いに混じる、ほんの少し違う匂い。

父ちゃんが息を止める間。

盃が置かれる位置。

目を背けているのに、分かってしまう。

「持っていけ」

父ちゃんが言った。

盃を見ても、ただの酒に見えた。

色も匂いも、変わらない。

何も入っていないみたいだった。

だから怖かった。

アタイは冷たい手で、盃を持つ。

この酒を、あの男に出す。

そう思った瞬間、足が止まりかけた。

「二娘」

父ちゃんの声が落ちる。

それだけだった。

アタイは、酒をこぼさないように歩く。

顔色を変えない。

盃を見ない。

男の目を見すぎない。

常連を見ない。

父ちゃんを振り返らない。

男の卓へ行く。

「酒だよォ」

声は出た。

男は満足そうに笑う。

「ありがとよ」

盃へ手を伸ばす。

その指は、今度はアタイの手には来なかった。

盃だけを取る。

少し、ほっとした。

その瞬間、自分が嫌になった。

触られなかったからよかった。

そう思った。

その代わりに、何を出したのか。

アタイは一歩下がる。

男は盃を口へ運ぶ。

常連の一人が、何でもない顔で話しかけた。

「旦那、今日はどちらまで」

男は酒を飲みながら答える。

「少し先までな。ここを越えれば、あとは楽だ」

父ちゃんは厨房の入口にいる。

常連は三人。

一人は戸口。

一人は男の斜め後ろ。

一人は奥の卓。

前と同じようで、少し違う。

今日は、最初から配置されている。

アタイも、その中にいた。

水を出し、酒も出した。

男の手元を見ないようにした。

いつもの声で話した。

ただ、それだけ――

でも、それだけでは済まなかった。

男がもう一口飲む。

盃を置く音は、まだ普通だった。

声もはっきりしている。

笑い方も変わらない。

「この店は、娘がいるのがいいな」

男が言った。

喉が詰まる。

常連が笑う。

「二娘ちゃんは働き者だからな」

「嫁には出さんのか」

男の声は軽い。

アタイは動かない。

動くな。

顔に出すな。

父ちゃんが答えた。

「まだ早ぇ」

その言葉に、紙包みの時の声が重なった。

まだ早ぇ――

あの時は、紙包みだった。

今は、アタイの話みたいだった。

男は笑う。

「惜しいねぇ」

惜しい――

その言葉が嫌だった。

何が惜しいのか。

誰のものだと思っているのか。

聞きたくなる。

でも、聞かない。

知らない顔をする方が楽だと、もう知っている。

男がまた酒を飲む。

三口目だった。

盃を置く音が、少し変わった。

ほんの少しだけ重い。

アタイの耳が、それを拾った。

父ちゃんは動かない。

常連も笑っている。

誰も反応しない。

だから、分かった。

男は話し続ける。

けれど、言葉の終わりが少し丸くなった。

まだ気のせいで済むくらい。

本人も気付いていない。

「二娘ちゃん、水をもう一つ」

男が言った。

アタイは父ちゃんを見るところだった。

でも、見るのをやめた。

見ればおかしい。

聞かれたのはアタイだ。

水を出すのは、店の娘の仕事だ。

水場へ向かい、器を取る。

水を汲む。

その間に、常連の一人が笑いながら男へ話しかける。

「旦那、酒に強いんだな」

「当たり前だ」

男は笑う。

その笑いが、少し遅れた。

アタイは水を持って戻る。

今度は、前より少し遠くに置いた。

男の手は届く。

アタイには届かない位置。

男は気付かず、水を取る。

飲むと、喉が鳴った。

その音を聞いてしまった。

酒が回り始めた人間の、少し鈍い飲み方。

身なりの良い客の夜が戻る。

声が鈍るところ。

盃が重くなるところ。

椅子が軋むところ。

今日も、そこへ向かっている。

父ちゃんの声がした。

「二娘、奥の椀を取ってこい」

奥の椀。

そんな用事はない。

椀なら手前にある。

でも、アタイは返事をした。

「はいよォ」

奥へ行けという意味だ。

今からは、見なくていい。

でも、聞こえる場所にはいろ。

そういう意味でもある。

アタイは厨房へ戻る。

奥の棚へ向かい、椀を取るふりをする。

客席は見えない。

でも、音は聞こえる。

男の声。

常連の声。

父ちゃんの短い返事。

盃の音。

少しずつ、形が崩れていく。

返事が遅れ、笑いが濁る。

椅子が軋み、水の器が卓に当たる。

アタイは椀を持ったまま立っている。

手の中の椀は軽い。

でも、指は強く握っていた。

何もしていない。

そう思いたい。

でも、水を出した。

酒を出した。

距離を取った。

父ちゃんの合図で奥へ下がった。

全部、した――

父ちゃんの声が低くなる。

「少し休んでいきな」

前にも聞いた言葉だった。

男が何か答える。

言葉になっていない。

常連二人が椅子を引く。

位置が浮かぶ。

戸口を塞ぐ男。

背中側に回る男。

荷に手を伸ばす男。

男が笑おうとする。

でも、声が崩れた。

「なんだ……少し、酒が……」

父ちゃんが言う。

「疲れが出たんだろう」

常連が合わせる。

「奥で寝ていきな。道中、無理はよくねぇ」

芝居の声ではない。

もう、終わりに向かう声だった。

アタイは椀を棚に戻す。

音を立てないように。

なぜそうしているのか、自分で分かってしまう。

邪魔をしないためだ。

店の流れを乱さないためだ。

男の足が床を擦る。

椅子が大きく動き、布が擦れる。

誰かが肩を支え、荷が卓から持ち上がる。

袋の音は、前より小さかった。

でも、はっきり聞こえた。

アタイは目を閉じる。

裏の戸が開き、重いものが奥へ運ばれる。

父ちゃんの声がする。

「静かにしろ」

戸が閉まった。

店が一度、沈黙する。

アタイは息を止めていた。

気付いた時には、胸が痛かった。

少しして、常連の声が戻る。

「二娘ちゃん、水、もらえるかい」

何でもない声だった。

店は戻る。

戻らなければいけない。

アタイは水場へ行き、器を取る。

水を汲み、常連の前へ持っていく。

男が座っていた卓は見ない。

見ないまま、水を置く。

「水だよォ」

声は震えなかった。

常連は、少しだけアタイを見る。

それから、何もなかったように器を取る。

「ありがとよ」

それだけ――

父ちゃんはまだ裏から戻らない。

でも、店は止まらない。

空いた卓を見ない。

盃の重さも、声が鈍ったことも、裏の戸が閉まったことも、顔には出さない。

できた――

できてしまった。

水を出した。

酒を出した。

奥へ下がった。

音を立てなかった。

戻って、水を出した。

アタイは、ただ立っていただけじゃない。

知らない顔で、場を整えた。

そのことに気付いた瞬間、胃の奥が冷たくなった。

父ちゃんが裏から戻ってくる足音がした。

いつもの足音だった。

店主の足音だった。

父ちゃんは、アタイを見る。

何も言わない。

でも、言われた気がした。

よくやった、と――

アタイはそれが一番嫌だった。

孫二娘でございますよォ。

何もしていない、って言い方は便利だねェ。

酒に何かを入れたのは父ちゃん。

客を囲んだのは常連。

奥へ運んだのも、アタイじゃない。

けど、水を出し、酒を運んだ。

邪魔にならない場所へ下がった。

終わった後、普通の顔で戻った。

それで店は回った。

怖いのは、手を汚したことじゃない。

手を汚していない顔のまま、狩りに加わっていたことなのさ。

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