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よくやった

孫二娘でございま〜す。


数日前、アタイは客を見て「帰さなくていい」と判断しちまった。

で、その男がまた来た。


しかも今日は姉ちゃんが帰った直後。答え合わせしてくれる相手はいないし、父ちゃんはいつも通りだし、常連まで妙に自然に座ってやがる。


こういう時、人間は周りを見て行動を覚える。

心理学じゃ観察学習なんて言うんだけどねェ。

大学では、もっと健全な例を使ってたよ。


さて――

見て覚えただけのつもりだったアタイが、今度はその流れの一部として動き始めたら、まだ「見ていただけ」で通るのかねェ?

姉ちゃんは午前中いっぱい店を手伝い、昼前には嫁ぎ先へ帰っていった。

「次は二、三日したら来るよ」

「もう普通に通勤じゃん」

「父ちゃんだけに任せると在庫が狂うからね」

「実の父親への信頼が経営面だけゼロ!」

最後まで父ちゃんと酒甕の数でもめていた。

戸口を出る時には、アタイの肩を軽く叩いていった。

「ちゃんと働きな」

「はいはい。姉ちゃんも旦那さんのところ帰りなァ」

「言われなくても帰るよ」

そんな、いつもの別れだった。

だから昼を少し過ぎた頃には、もう姉ちゃんがいないことを特に気にしていなかった。

朝の客は引き、夕方にはまだ早い。

店の中には常連が何人か残っているだけで、昼の騒がしさが嘘みたいに静かだった。

アタイは水場のそばで柄杓を桶へ沈める。

その時、戸口の木が鳴った。

足が一歩入る。

まだ顔を上げていない。

それなのに指が止まった。

――あの男だ。

数日前、店の中ばかり見ながら、水を頼んだアタイの手首へ指を伸ばしてきた男だった。

父ちゃんに客の見方を教えられ、姉ちゃんと同じ結論を出してしまった相手でもある。

顔を確認するより先に分かったことに、少し遅れて気づく。

足の置き方と、戸口で一度止まる間。

それから、店へ入る前に中の様子を測るような呼吸まで、耳が覚えていた。

「やってるかい?」

声を聞いて、答え合わせが終わる。

間違っていなかった。

アタイは柄杓を水へ沈めた。

水面が揺れる。

手が震えているのかと思ったけれど、違った。

柄杓を入れた勢いで揺れただけだった。

そのことの方が嫌だった。

父ちゃんが厨房から顔を出す。

「入んな」

いつもの店主の声だった。

男は前と同じように笑いながら店へ入ってきた。

戸口に近い卓へ座っていた常連が、何気なく身体をずらす。

ただ席を空けただけに見える。

けれど、アタイには分かった。

男を奥へ通しやすくした。

外へ逃がすためではない。

厨房から見えて、裏手の戸にも近い卓へ座らせるためだ。

分かってしまった瞬間、胃の奥が重くなる。

今日は姉ちゃんがいない。

数日前なら、姉ちゃんの位置を見れば何となく答え合わせができた。

今は父ちゃんと常連しかいない。

なのに、何をしているのか分かる。

男は案の定、奥から二つ目の卓へ腰を下ろした。

「今日は空いてるな」

常連が笑う。

「昼過ぎはこんなもんさ。夕方になりゃ混むよ」

嘘ではない。

だから余計に自然だった。

アタイは水場へ視線を戻す。

心理学では、人間が周囲の行動を手がかりにして、自分の取るべき行動を学ぶことがある。

観察学習――

大学なら、もっと穏当な例を使って説明していた。

子どもが親を真似するとか、新人が先輩を見て仕事を覚えるとか。

まさか自分が、旅籠兼飲食店らしき場所で「怪しい客をどう帰さないか」を実地研修するとは思わなかったよ。

教育環境が最悪すぎる。

「二娘」

父ちゃんに呼ばれた。

「水」

それだけで身体が動く。

器を取って、水を汲む。

前にこの男へ水を出した時は、手首へ指を伸ばされた。

だから正面には立たない。

腕が来ても外せる位置を取り、こちらからはすぐ下がれる距離で卓へ器を置く。

考えてから動いたわけではなかった。

「水だよォ」

声も普通に出た。

男がこちらを見る。

「お、二娘ちゃん。元気そうだな」

その呼び方が気持ち悪い。

けれど顔には出さなかった。

男の視線は水へ落ちたあと、すぐアタイの手へ移る。

前に逃げられたことを覚えているのか、今日はすぐには伸ばしてこない。

代わりに袖のあたりを見て、足元を見て、また顔へ戻ってきた。

この男も覚えている。

こちらを測っている。

数日前、父ちゃんは言った。

向こうがこっちを測るなら、こっちも測る。

あの時は怖かった言葉なのに、今は意味を考える必要すらなかった。

「酒も頼むよ」

「少し待ちなァ」

返事が勝手に出た。

厨房へ戻る途中、父ちゃんの横を通る。

何も言われない。

けれど、止められもしない。

そのまま酒甕へ向かった。

盃を一つ取る。

棚の奥が視界へ入った。

酒甕の横、乾いた布の下には紙包みがある。

数日前、父ちゃんから「場所は覚えろ」と言われた。

覚えたくなかったのに、もう一度見る必要もないくらい正確に覚えている。

今日は見ないつもりだった。

ところが父ちゃんの手が伸び、布がめくられた。

紙包みが出てくる。

息が詰まる。

父ちゃんはアタイへ見せつけるようなことはしなかった。

隠そうともしない。

ただ店で必要な物を棚から取る時と同じ手つきで、包みを開く。

そこが怖かった。

「見なくていい」

父ちゃんが声を抑えて言った。

見なくていい。

だったら知らなくて済む。

そう思えるはずなのに、耳は勝手に働いた。

乾いた紙が擦れる音と、指先が何かを扱う小さな気配。

酒の匂いの中へ、わずかに違うものが混じった気がする。

目を向けていないのに、父ちゃんがどこへ手を動かしたのかまで想像できた。

「……見なくていいって、便利な言葉だね」

思わず呟いた。

父ちゃんがこちらを見る。

「何だ?」

「何でもない」

見なければ知らない。

知らなければ責任がない。

そんなわけないことくらい、心理学者じゃなくても分かる。

父ちゃんが盃を置いた。

見たところ、普通の酒だった。

色も変わっていない。

匂いも、少なくともアタイには分からない。

「持ってけ」

喉が乾いた。

アタイは盃へ手を伸ばす。

そこで一瞬だけ止まりそうになる。

これを運ぶ。

中に何があるのか、正確には知らない。

でも、知らないという言い訳が使えない程度には分かっている。

数ヶ月前なら、ここで拒絶しただろうか。

分からない。

そんなことを考えている間にも、男は待っている。

父ちゃんも待っている。

店は止まらない。

結局、アタイは盃を持った。

こぼさないように。

そこまで気を使った自分へ腹が立つ。

男の卓へ向かう。

「酒だよォ」

男は嬉しそうに笑った。

「ありがとよ」

今度はアタイへ手を伸ばさず、盃だけを取った。

少しだけ安心した。

直後、その安心が何を意味するのか分かってしまう。

触られなくてよかった。

そう思った。

代わりに、アタイが何を渡したのかは棚へ上げたままで。

心理学には、段階的に小さな要求を受け入れさせると、次の要求も受け入れやすくなるという話がある。

最初は水を運ぶ。

次は客を観察する。

それから、危険な客だと判断する。

今度は、父ちゃんが用意した酒を運ぶ。

教科書にするなら、こんな実例は絶対に載せたくない。

「……実習内容が犯罪寄りなのよ」

「何か言ったかい?」

男が聞いた。

「独り言だよォ」

笑って返せた。

笑えてしまった。

男は盃へ口をつける。

一口。

まだ何も変わらない。

常連が話しかけた。

「旦那、今日はどちらまで?」

「少し先までな。ここを越えりゃ、あとは楽だ」

二口目。

男の声はまだ普通だった。

父ちゃんは厨房の入口にいる。

常連は三人。

一人は戸口に近く、もう一人は男の斜め後ろ、最後の一人は奥に座っている。

偶然ではない。

数日前には、配置を見て怖くなった。

今日は、誰が何をする位置なのかまで想像できる。

そして自分も、その形の中に入っている。

男が三口目を飲んだ。

盃を卓へ置く。

音が少しだけ重かった。

アタイの耳が拾う。

男自身はまだ気づいていない。

「この店は、娘がいるのがいいな」

急にこちらへ話を振られた。

「そう?」

「器量もいい。嫁には出さんのか?」

父ちゃんが答える。

「まだ早ぇ」

紙包みを初めて見つけた時にも、同じことを言われた。

まだ早い――

何が早いのかが違いすぎる。

「父ちゃん、用途が違う同じ台詞を連発するのやめてくれない?」

「何の話だ」

「こっちの話!」

男が笑った。

「惜しいねぇ」

何が惜しいんだ。

アタイを何だと思ってる。

現代なら、妖艶なお姐さん教授だの何だのと言っていた男子学生だって、ここまで露骨には来なかった。

少なくとも大学の廊下で「嫁には出さんのか」と父親へ交渉する学生はいなかった。

現代社会、ありがとう。

失ってから分かる法治国家のありがたさが身に沁みる……

男がまた盃へ手を伸ばす。

指の動きが、少し遅かった。

笑うまでにも、一拍余計な間がある。

アタイはそれを見ていない顔をした。

「二娘ちゃん、水もう一つ」

父ちゃんを見そうになり、やめた。

聞かれたのはアタイだ。

水場へ行き、器を取る。

手は震えない。

今度は男から少し遠い位置へ水を置いた。

男の手は届く。

アタイには届かない。

男は気づかなかった。

水を飲む音が鈍い。

その音を聞いた瞬間、数ヶ月前の夜が蘇った。

金を持っていた旅人。

少しずつ声が変わり、やがて聞こえなくなった男。

同じだ。

違うのは、今のアタイには何が起きているのか分かっていることだった。

「二娘、奥の椀取ってこい」

父ちゃんが言った。

手前にも椀はある。

だから意味が分かった。

ここから先は奥へ下がれ。

アタイは返事をする。

「はいよォ」

厨房の奥へ入り、棚の前へ立った。

客席は見えない。

でも音は届く。

男の返事が遅くなり、笑いが濁っていく。

椅子が軋み、水の器が卓へ当たった。

アタイは適当な椀を一つ取った。

何もしていない。

そう思いたかった。

ところが頭の中では、さっきまでの自分の動きが勝手につながっていく。

水を出し、男との距離を測り、父ちゃんが用意した酒を運び、もう一度水を出した。

そして合図を理解して、今は邪魔にならない場所へ下がっている。

全部、店の流れの一部だった。

男の声が聞こえる。

「なんだ……少し、酒が……」

父ちゃんが答えた。

「疲れが出たんだろ」

常連も続ける。

「奥で休んでいきな。無理して歩くことはねぇよ」

親切な店にしか聞こえない。

そこが最悪だった。

椅子が大きく動く。

誰かが男の身体を支え、別の誰かが荷を持つ。

戸が開く音。

重い足音が奥へ消えていく。

しばらくして、戸が閉まった。

店が静かになった。

アタイは椀を握っていた。

少し力を入れすぎたらしい。

指の下で、木が小さく軋んだ。

慌てて力を抜く。

「……そっちまで育たなくていいんだけど」

自分の手へ言った。

怪力まで、こんな時に自己主張しなくていい。

やがて客席から常連の声がした。

「二娘ちゃん、水もらえるかい」

何でもない声だった。

営業再開――

アタイは椀を戻し、水場へ向かった。

男がいた卓を見ない。

器を取り、水を汲む。

常連の前へ置く。

「水だよォ」

声は震えなかった。

「ありがとよ」

常連も何も聞かない。

父ちゃんはまだ裏にいる。

それでも店は止まらない。

アタイは自分の立っている場所を見た。

水場も卓も酒甕も、さっきまでと何も変わっていない。

違うのは、一人いなくなったことだけだった。

いや、もう一つある。

数ヶ月前のアタイなら、何が起きているのか分からず怯えていた。

今日は違う。

何をするのか分かっていて、水を出した。

中身を見なかっただけで、酒も運んだ。

父ちゃんの合図を理解して、邪魔にならないよう奥へ下がり、終わったら何もなかった顔で店へ戻った。

ただ見ていたわけじゃない。

アタイは、場が滞りなく進むように動いていた。

その事実に気づいた時、胃の奥が冷えた。

裏の戸が開く。

父ちゃんが戻ってきた。

いつもの足音で店へ戻り、何事もなかったように厨房へ立つ。

一度だけ、アタイを見た。

何も言わなかった。

褒めもしなかった。

それなのに――

よくやった。

そう言われた気がした。

そしてアタイは、その言葉を少しだけ嬉しいと思いかけた。

それが、一番怖かった。

孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!


「姉ちゃん、帰った日に限って例の客が来たんだけど!」

「そりゃ間が悪かったね」

「しかも父ちゃん、アタイに酒を運ばせた!」

「ちゃんとこぼさなかったかい?」

「心配する場所そこ!?」


おまけに客が奥へ消えたあと、父ちゃんに何も言われてないのに、褒められたような気までしやがった。


「嬉しかったんだろ?」

「言うな! そこが一番怖いんだよォ!」


さて――

今日は父ちゃんが用意した酒を運んだだけ。

じゃあ次に紙包みが出てきた時、父ちゃんはどこまでアタイにやらせるつもりなんだろうねェ?


「その時になれば分かるよ」

「姉妹そろって父ちゃんと同じこと言うな!」

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