殺されなかった男
孫二娘でございま〜す。
十字坡に来る男が、みんな客とは限らないんだよォ。
帰す客。
帰さない客。
沈める客。
そこまでは、少しずつ分かるようになっていた。
けど父ちゃんは、ある夜明け前に別の男を連れてきた。
殺さない男。
帰さない男。
店の中へ入れる男。
助けたようにも見える。
拾ったようにも見える。
でもねェ――
十字坡で「殺さねぇ」と言われることが、本当に救いかどうかは、まだ誰にも分からないのさ。
夜明け前だった。
店はまだ開けていない。
客の声もなく、酒の匂いも薄い。
釜の火も落ちている。
それなのに、裏手で音がした。
荷を置く音じゃなかった。
客を奥へ運ぶ音でもない。
袋を引きずる音でもない。
もっと重くて、乱れていた。
足音が二つ。
ひとつは父ちゃん。
もうひとつは、引きずっている音だった。
生きている人間の音だ。
そう思った瞬間、目が開いた。
嫌だった。
分かるようになっていることが、まず嫌だった。
アタイは布団の中で息を止める。
暗い。
灯りは消えかけている。
戸の向こうから、父ちゃんの低い声がした。
「二娘、起きてるか」
返事をする前に、身体が起き上がっていた。
まただ。
呼ばれたら動く。
考えるより先に。
「……起きてるよォ」
声はかすれていた。
父ちゃんは戸を開けた。
朝の冷たい空気が入ってくる。
その奥に、泥の匂いがあった。
血の匂いも混じっている。
それから、汗と人の息。
父ちゃんは、男を一人連れていた。
担いでいるというより、支えていた。
男の片腕を自分の肩へ回し、半分引きずるようにしている。
男の足は床を擦っていた。
片方の足に力が入っていない。
若い男だった。
泥と血で顔は汚れている。
髪も乱れ、衣服は破れ、袖の端が乾いた血で固まっていた。
ひどい有様だった。
でも、顔立ちは悪くなかった。
そう思ってしまった自分が、少し嫌だった。
死にかけた男を見て、そんなことを考えた。
そのことが、自分の中で遅れて気持ち悪くなる。
男の呼吸は浅かった。
でも、乱れすぎてはいない。 痛みに耐えているようだった。
父ちゃんが、短く言った。
「こいつは殺さねぇ」
息が止まった。
殺さない――
その言葉が、こんなに怖く聞こえるとは思わなかった。
客なら、帰す。
金を落とす客なら、帰す。
帰さなくていい客なら、沈める。
それなら、少しずつ分かってきていた。
でも、殺さない。
それは、帰すという意味じゃなかった。
ここに残すという意味に聞こえた。
男が顔を上げる。
目が合いそうになった。
アタイは、すぐに逸らせなかった。
男の目は死んでいなかった。 怯えてはいる。
痛みもある。
疲れもある。
けれど、ただ助けを待つ目じゃなかった。
店を見ている。
戸と父ちゃんの手。
アタイの位置と水場。
厨房と奥へ続く戸。
見る順番が、早い。
この男も、見ている。
胸の奥が冷たくなった。
前に来た男も、店を見ていた。
あの男は、帰さなくていい客だった。
父ちゃんはそう教えた。
なのに、この男は殺さない。
何が違うのか。
アタイがそう思った時、男の膝が落ちた。
父ちゃんが支える。
床が鈍く鳴る。
「寝かせる。布団を出せ」
父ちゃんの声に、身体が動いた。
布団は奥の押し入れ、下から二段目。
怪我人に使うなら、古いが厚い方。
分かっている。
アタイは布団を取る。
手が迷わず、父ちゃんの前に広げる。
男を寝かせる時、父ちゃんは雑ではなかった。
でも、優しくもない。
扱いに慣れている手だった。
男は歯を食いしばった。
声を出さない。
その我慢の仕方が、少しだけ気にかかった。
父ちゃんが衣の裂け目を開く。
脇腹に傷があった。
深くはない。
けれど、放っておけば悪くなる傷だった。
肩にも切り傷。
脚は打たれ、足首も腫れている。
「水」
アタイは水を入れた器を差し出す。
父ちゃんは受け取らない。
「口、湿らせてやれ」
アタイの指が止まった。
男を見る。
男も、こちらを見ていた。
怯えている。
でも、目だけはまだ動いている。
アタイの手と器。
父ちゃんと、また戸口。
全部を見ている。
嫌だ。
この男は弱っている。
立てない。
逃げられない。
でも、見ている。
アタイは器を近づけた。
「水だよォ」
声は店の声だった。
自分でも分かった。
男は少しだけ目を細める。
その声を聞いた。
そういう顔だった。
「……すまねぇ」
かすれた声で、礼を言われた。
それだけで、少し調子が狂う。
客は礼を言う。
常連も礼を言う。
旅人も礼を言う。
でも、この男の礼は、店の客のものとは違った。
まだ自分の立場が分かっていない者の声だった。
アタイが器を近づけると、男は少しだけ水を飲んだ。
喉が動く。
勢いよくは飲まない。
痛みで息を詰めながら、必要な分だけ飲んでいる。
水の飲み方にも、性格が出るのだと思った。
思ってしまった。
父ちゃんが傷を洗う。
男の身体が強張る。
でも、逃げようとはしない。
「名は」
父ちゃんが聞いた。
男は少し間を空けた。
「……張青」
張青――
男は、痛がりながらも、名乗った。
父ちゃんは、聞き直さない。
ただ、傷の具合を見ている。
「どこから来た」
「孟州の方から」
「追われてるな」
張青は答えなかった。
答えないことで、答えていた。
父ちゃんは鼻を鳴らす。
「盗みか」
張青は少しだけ笑おうとした。
痛みで、笑いにはならなかった。
「盗まれる側だったら、もう少し綺麗な格好をしてる」
父ちゃんの手が止まる。
アタイも、張青を見る。
この男、口が回る。
死にかけているのに。
血と泥で汚れているのに。
まだ、返す余裕がある。
父ちゃんは短く笑った。
「まだ喋れるか」
「喋れなくなったら、死ぬ気がするんでね」
張青はそう言って、少しだけ息を吐いた。
父ちゃんは傷へ布を当てる。 張青の眉が動く。
でも、声は出さない。
「何人だ」
「三人」
「殺したか」
「一人は」
アタイの手が止まった。
張青は、それに気付いたようだった。
目だけが少し動く。
父ちゃんは淡々と聞く。
「残りは」
「追ってきた。たぶん、途中で諦めた」
「荷は」
「ない」
「金は」
張青は口の端を少しだけ動かした。
「あるように見えるかい」
父ちゃんは答えない。
張青もそれ以上は言わない。
会話だけ聞けば、ただの取り調べだった。
でも、父ちゃんは張青を探っている。
張青も父ちゃんを探っている。
それが分かった。
張青は弱っている。
それなのに、ただ助けられていない。
父ちゃんの言葉を聞き返し、少しずつ自分の位置を探っている。
この男は、生きる気がある。
そう思った。
父ちゃんがアタイへ目を向ける。
「粥を持ってこい。薄いやつでいい」
「……食べられるの」
言ってから、しまったと思った。
父ちゃんは少しだけアタイを見て、張青も見る。
余計なことを聞いた。
店の中なら、聞かない方がいいことだった。
でも父ちゃんは怒らなかった。
「食えなきゃ、死ぬ」
それだけだった。
アタイは厨房へ向かう。
粥の鍋はまだ残っている。
朝に温めるつもりだったものだ。
水を少し足し、火を入れる。
焦げないように混ぜる。
手が勝手に動く。
怪我人に出すなら濃くしない。
塩も少しだけ。
熱すぎると飲めない。
器は浅いもの。
知らないはずではない。
もう、何度もやっている。
客にも、常連にも、父ちゃんにも、自分にも……
けれど、張青へ出す粥は、どれとも違う気がした。
客じゃない。
常連でもない。
獲物でもない。
でも、まだ身内でもない。
アタイは器を持って戻る。
父ちゃんは傷を縛り終えていた。
張青は壁へ背を預け、半分起き上がっている。
顔色は悪い。
でも、目は動いていた。
アタイが粥を持って近づくと、張青は器より先にアタイの手を見た。
まただ。
手を見る男。
アタイは一瞬、器を遠くへ置きそうになった。
届くけれど、自分には届かない場所へ。
この前の男に水を置いた時と同じ位置。
でも、張青の手は伸びなかった。
目で測っただけだった。
その違いが分かった。
分かりたくなかった。
「熱いよォ」
アタイは器を置いた。
張青は小さく頷く。
「助かる」
客の礼とは違う。
でも、弱い男の媚びでもなかった。
アタイは返事をしない。
父ちゃんを見る。
「こいつ、置くの」
聞いてしまった。
父ちゃんは張青を見る。
張青も父ちゃんを見る。
少しの沈黙があった。
父ちゃんは言った。
「使える」
使える――
その言葉が嫌だった。
人間を見て、使えると言った。
でも、それを嫌だと思う前に、アタイの頭の中でも、同じようなものが動いた。
目は死んでいない。
口も回る。
怪我をしていても、周りを見る。
水を飲む時も、粥を受ける時も、手順を見ている。
逃げるより先に、状況を測る。
使える。
そう思いかけた。
喉の奥が冷たくなる。
違う。
アタイが決めることじゃない。
この男が何に使えるかなんて、アタイが考えることじゃない。
でも、考えた。
考えられてしまった。
父ちゃんは続ける。
「帳場も見られそうだ。口も立つ。馬鹿じゃねぇ」
張青は苦笑した。
「褒めてるのかい」
「生き残った分はな」
父ちゃんはそう言った。
張青は少し黙る。
それから、部屋の中を見た。
戸、水場、厨房。
そして、アタイと父ちゃん。
また見ている。
「ここは、普通の店じゃねぇな」
空気が少し止まった。
アタイの指が冷たくなる。
父ちゃんは張青を見る。
顔色は変えない。
「普通の店に見えるか」
張青は粥を少しだけ口へ運ぶ。
熱かったのか、ほんの少し眉を動かした。
それから答えた。
「普通の店なら、俺は今ごろ表へ放り出されてる」
父ちゃんは笑わない。
「普通じゃねぇと分かって、どうする」
張青は器を置く。
まだ力はない。
それでも、目だけは逃げなかった。
「どうするも何も、今は立てねぇ」
正直だった。
逃げるとも言わない。
残るとも言わない。
恩に着るとも言わない。
ただ、今は立てないと言った。
父ちゃんは少しだけ目を細める。
「立てるようになったら」
張青は戸の方を見た。
それから、店の方を見た。
最後にアタイを見て、すぐに目を逸らした。
「その時考える」
この男は、嘘をつくのが下手じゃない。
でも、今の言葉はたぶん本当だった。
先を約束しない。
今を生きる方を選んでいる。
父ちゃんは立ち上がった。
「二娘」
身体が反応する。
「こいつを見てろ」
「アタイが?」
「逃げたら呼べ。暴れたら水をかけろ。死にそうなら俺を呼べ」
張青が少し笑った。
「扱いが雑だな」
父ちゃんは張青を見下ろす。
「殺さねぇだけ丁寧だ」
その言葉で、張青の笑いが止まった。
アタイも、息を止めた。
殺さない――
また、その言葉。
父ちゃんは本気で言っている。
張青も、それを聞いた。
この店では、殺さないことが情けとは限らない。
残されることも、選ばれることも、同じくらい怖い。
父ちゃんは部屋を出ていった。
戸が閉まり、張青と二人になる。
部屋の中に、粥の匂いと血の匂いが残った。
張青は少しだけ息を吐く。
痛みを逃がすような息だった。
「二娘ちゃん、でいいのか」
アタイは顔を上げた。
その呼び方が、客の声とは違った。
軽くもない。
馴れ馴れしくもない。
ただ、確かめる声だった。
「……勝手に呼びなァ」
張青は少し目を細める。
「じゃあ、二娘ちゃん」
「何だい」
「ここで、殺さねぇって言われるのは、喜んでいいことか」
答えられなかった。
アタイは張青を見る。
泥だらけの顔。
血のついた衣服。
痛みに耐える肩。
でも、まだ動いている目。
この男は、分かっている。
少しだけ。
十字坡が普通の店ではないことを。
父ちゃんがただの店主ではないことを。
アタイがただ水を出す娘ではないことを。
それでも、全部はまだ知らない。
知らないまま、ここへ置かれる。
それは、前のアタイに少し似ていた。
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
嫌だ。
似ているなんて思いたくなかった。
アタイは目を逸らす。
「さあねェ?」
そう答えた。
張青は少しだけ笑った。
「そうか」
「そうさ」
「じゃあ、まだ死なないようにするさ」
その言い方が変だった。
強がりでも、命乞いでもない。
帳尻を合わせるみたいな声だった。
アタイはその声を聞いて、思ってしまった。
この男は、残る。
たぶん、逃げない。
逃げられないのではなく、残る理由を見つける。
父ちゃんは、それを見た。
アタイも、今、少し見た。
そのことが嫌だった。
外で、店の戸が開く音がした。
朝の客が来たらしい。
父ちゃんの声がする。
「入んな」
いつもの声だった。
店は動き始める。
水を出す。
椀を出す。
粥を温める。
客を見分ける。
その奥の部屋に、張青がいる。
殺さなかった男。
帰さなかった男。
店の中へ入れられた男。
アタイは張青を見る。
張青は粥を少しずつ食べている。
手は震えているが、こぼさない。
痛みで顔をしかめながらも、器の持ち方を見ている。
やっぱり、見ている。
でも、前の男とは違う。
何が違うのか、まだ言えない。
言えないのに、違うと分かってしまう。
父ちゃんが殺さなかった理由も。
この男が残される理由も。
少しだけ、分かってしまう。
それが一番嫌だった。
孫二娘でございますよォ。
殺さねぇ――
そう言われたら、助かったと思うだろう?
でも十字坡じゃ、それだけじゃ済まないんだよねェ。
帰されるわけでもない。
逃がされるわけでもない。
店の中へ置かれる。
張青は、客じゃない。
獲物でもない。
けど、まだ身内でもない。
怖いのは、父ちゃんが残すと決めたことじゃない。
アタイまで少しだけ、この男が残る理由を分かっちまったことなのさ。




