使える
孫二娘でございま〜す。
父ちゃんが夜明け前に、血まみれの男を拾ってきた。
いや、普通はそこで「大丈夫か」とか「医者を呼べ」とかになると思うんだけど、うちの父ちゃんが最初に言ったのは、
「こいつは殺さねぇ」
だった。
安心していい台詞のはずなのに、十字坡だと妙に怖いんだよねェ。
しかも、その男は傷だらけのくせに周りをよく見て、口まで回る。
父ちゃんはさっそく何かを見定めてるし、嫌なことにアタイまで同じ目で見始めてやがる。
さて――
客でも獲物でもない人間を「使えそうだ」と思った時、それはただの観察なのか、それともアタイも人を選ぶ側へ回ったってことなのかねェ?
夜明け前だった。
店はまだ開けていない。
客の声もなければ、酒の匂いも薄く、厨房の火も昨日の名残を抱いているだけだった。
その静けさの中で、裏手から妙な音がした。
荷を運ぶ時とは違う。
昨日みたいに酔った客を奥へ連れていく時とも違っていて、重いものを無理に引きずりながら歩くような、不揃いな足音だった。
ひとつは父ちゃんの足音で、もうひとつは自分ではまともに歩けていない誰かのものだった。
そこまで分かったところで目が覚めた。
「……嫌だなァ」
布団の中で呟く。
顔も見ていないのに、生きた人間が引きずられている音だと分かってしまった。
数ヶ月前なら、ただ怖がっていただけだと思う。
今は音の違いから状況まで推測できる。
十字坡生活、順調に技能が伸びております。
履歴書には絶対書けない。
戸の向こうから父ちゃんが呼んだ。
「二娘、起きてるか?」
返事を考える前に身体が起き上がる。
これもすっかり馴染んだ。
「……起きてるよォ」
戸を開けると、冷たい朝の空気と一緒に泥の匂いが入り込んできた。
その中に血と汗の匂いも混じっている。
父ちゃんは男を一人支えていた。
片腕を肩へ回させ、ほとんど引きずるようにしている。
男は片脚にまともな力が入らないらしく、足先が床を擦るたびに衣へついた泥が落ちた。
若い男だった。
髪は乱れ、服はあちこち破れている。
袖には乾いた血がこびりつき、脇腹にも赤黒い染みが広がっていた。
かなり酷い。
それでも父ちゃんは、いつもの店仕事みたいな顔をしている。
「父ちゃん、その人どうしたの?」
「拾った」
「人間拾ってきたの!?」
思わず声が大きくなる。
父ちゃんが眉を寄せた。
「朝っぱらからうるせぇ」
「人間拾ってきた側に言われたくないんだけど!」
男の口元がほんの少し動いた。
笑ったらしい。
死にかけてるくせに、そこは反応するのか。
父ちゃんは男を支え直してから言った。
「こいつは殺さねぇ」
アタイの口が止まった。
前なら、その言葉だけ聞けば安心したはずだ。
でも今は違う。
帰す客がいる。
金を落として帰す客がいる。
そして、帰さなくていい客もいる。
その分類を覚えたばかりのアタイには、「殺さない」が必ずしも「助けて帰す」と同じ意味ではないことが分かってしまった。
「……じゃあ、どうするの?」
「寝かせる。布団出せ」
答えになっていない。
けれど身体はもう動いていた。
押し入れを開けると、手は迷わず下段の古い布団を選んだ。
客用より見栄えは悪いが厚く、血がついても困らない。
そんな基準まで知っている自分に腹が立つ。
布団を広げると、父ちゃんが男を横たえた。
その扱いは乱暴ではない。
ただし病人を慈しむような優しさでもなかった。
怪我人を壊さず置く方法を知っている手だった。
「水」
言われる前から器へ手が伸びかけていた。
「はいはい、分かってますよォ」
水を持って戻ると、父ちゃんは受け取らずに顎で男を示す。
「口湿らせてやれ」
アタイの手が止まった。
男もこちらを見た。
弱っている。
それなのに視線は死んでいなかった。
アタイの顔だけを見ていない。
器を持つ手から戸口へ移り、父ちゃんの位置を確かめたあと、厨房へ続く方角まで短く探っている。
この男も店を見ている。
一瞬、数日前の客が頭に浮かんだ。
あの男も同じだった。
こちらの人数や出口を測り、アタイへ手を伸ばした。
なのに父ちゃんは、目の前の男を殺さないと言った。
何が違う?
その疑問を抱えたまま、器を近づける。
「水だよォ。ゆっくり飲みな」
男は少しだけ口をつけた。
喉が動く。
欲張って飲もうとはしなかった。
必要なだけ口を湿らせ、痛みで呼吸が乱れる前に離れる。
「……すまねぇ」
声は掠れていた。
「礼を言える元気はあるんだね」
「言えるうちに言っといた方が得だろ」
「死にかけてる割に計算高いなァ」
また口元が動いた。
父ちゃんが服の裂け目を広げる。
脇腹には刃物で切られた傷があった。
深手ではないが、汚れたままではまずそうだ。
肩にも浅い傷があり、足首はひどく腫れている。
「名は?」
父ちゃんが傷を洗いながら聞いた。
男は少し間を置いた。
「……張青」
「どこから来た」
「孟州の方だ」
「追われてるな?」
張青は答えなかった。
父ちゃんも聞き返さない。
沈黙が答えになる会話、十字坡では本当に多い。
「盗みか?」
張青は痛みに顔をしかめながら、それでも口だけは動かした。
「盗まれる側なら、もう少し綺麗な格好してると思わねぇか?」
父ちゃんの手が止まった。
アタイも張青を見る。
「……口回るね、アンタ?」
「喋れなくなったら、そのまま死にそうなんでな」
「医学的根拠はないよォ」
「じゃあ気合いの話だ」
「もっと根拠なくなった!」
父ちゃんが鼻で笑った。
「何人いた?」
「三人」
「殺したか?」
「一人は」
アタイの指がわずかに動いた。
張青はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。
父ちゃんは傷へ布を当てながら続きを聞く。
「残りは?」
「追ってきたが、たぶん途中で諦めた」
「荷は?」
「ない」
「金は?」
張青は泥だらけの自分を見下ろした。
「あるように見えるか?」
「見えねぇな」
「正直な親父だ」
「父ちゃん、一応そこ褒められてる?」
「知らん」
取り調べなのか世間話なのか、分からなくなってきた。
ただ、一つだけ分かる。
父ちゃんは張青を測っている。
そして張青も、弱った身体で父ちゃんを測っている。
質問に全部答えず、余計な嘘もつかない。
どこまで言えば生き残れるのかを、その場で探っている。
この男、生きる気が強い。
そう思った。
父ちゃんが傷を縛り終える。
「二娘、粥」
「薄いやつ?」
聞いてから、自分で驚いた。
父ちゃんは何も説明していない。
なのに怪我人へ出すなら薄くして、塩も控えめにするのが自然だと思った。
「それでいい」
褒めてもいない返事なのに、正解した気分になる。
それが嫌で、アタイは厨房へ逃げた。
昨日の粥へ水を足し、火へかける。
焦げないよう混ぜながら、ふと思う。
張青は客じゃない。
常連でもない。
帰さなくていい客として奥へ消えた男とも違う。
なのに、父ちゃんは食わせようとしている。
十字坡に来てから、人間が店の中で分類されることには慣れ始めていた。
今度は、新しい分類が増えたらしい。
教育課程の更新が早すぎる。
粥を持って戻ると、張青は壁へ背中を預けていた。
顔色は悪いが、意識ははっきりしている。
アタイが近づくと、張青は器より先にこちらの手を見た。
まただ。
反射的に、一歩分遠い位置へ置きそうになる。
前の男に水を出した時と同じように、自分へ手が届かない距離を取ろうとした。
でも張青は手を伸ばさなかった。
目で確認しただけだった。
そこが違う。
「熱いよォ」
「助かる」
張青は器を受け取ると、すぐ食べずに温度を確かめた。
それから少しずつ口へ運ぶ。
父ちゃんはその様子を見ている。
「こいつ、どうするの?」
結局、聞いてしまった。
父ちゃんはあっさり答えた。
「使える」
嫌な言葉だった。
人間相手に使う言葉じゃない。
そう思ったのに、その直後、アタイの頭も勝手に張青を査定し始めた。
怪我をしていても周囲を見る余裕があり、口も回る。
父ちゃんに探られても必要以上に怯えず、自分の立場を考えながら返事をしている。
確かに、使えそうだ。
「……最悪」
「何が?」
張青が粥を食べながら聞いた。
「こっちの話」
人を「使える」と考えた父ちゃんより、その意味を理解できた自分の方が嫌だった。
父ちゃんは続ける。
「字は?」
「読める」
「勘定は?」
「多少なら」
「馬は?」
「乗れる」
父ちゃんが頷く。
それを見て、張青が眉を寄せた。
「何だ。雇う気か?」
「生きてたらな」
「採用条件が重いな」
アタイは思わず吹き出した。
「アンタ、面接されてたの?」
「そうらしい」
「十字坡、福利厚生に傷の手当てはあるけど、退職制度についてはアタイも知らないよォ」
「急に不安になる情報を出すな」
父ちゃんがアタイを見る。
「何言ってんだ?」
「現代人だけ分かればいい話!」
張青は意味が分からないまま笑って、すぐ脇腹を押さえた。
「痛ぇ……」
「笑うからだよ」
しばらくして、張青が部屋を見回した。
「ここ、普通の店じゃねぇな?」
アタイの背中が少し固くなる。
父ちゃんは顔色を変えない。
「普通に見えるか?」
「普通の店なら、朝っぱらから血まみれの男を拾ってきて、名前と殺した人数を聞いたあとに粥は出さねぇだろ」
「それはそう!」
ものすごく納得してしまった。
十字坡基準に慣れすぎるところだった。
父ちゃんは張青を見る。
「普通じゃねぇと分かって、どうする?」
張青はすぐには答えなかった。
戸口から厨房、父ちゃんへと順に視線を動かし、最後にアタイを見たが、そこでは長く止めなかった。
「今は立てねぇ」
それだけだった。
逃げるとも、恩返しするとも、ここで働くとも言わず、ただ今の自分にできることだけを答えた。
父ちゃんの目が少し細くなる。
「立てるようになったら?」
「その時考える」
正直だ。
少なくとも、今の言葉は嘘じゃないように見えた。
父ちゃんは立ち上がる。
「二娘」
「何?」
「こいつ見てろ」
「アタイが!?」
「逃げたら呼べ。暴れたら押さえろ。死にそうなら俺を呼べ」
張青が器を持ったまま眉を寄せる。
「扱い雑じゃねぇか?」
父ちゃんは戸へ向かいながら答えた。
「殺さねぇだけ丁寧だ」
張青の表情が止まった。
アタイも黙る。
冗談ではない。
この店では本当に、殺さないことが最低限の親切になり得る。
父ちゃんが出ていく。
戸が閉まると、張青と二人きりになった。
血と粥の匂いが混じっている。
張青はしばらく器を見ていたが、やがてこちらへ顔を向けた。
「二娘、でいいのか?」
「好きに呼びなァ」
「じゃあ二娘」
「何?」
「ここで『殺さねぇ』って言われたら、喜んでいいのか?」
アタイは答えられなかった。
数ヶ月前なら、「もちろん」と言ったかもしれない。
今は、この店のことを少しだけ知っている。
殺されず、帰されもしないうえ、父ちゃんからは「使える」と判断された。
それが何を意味するのか、まだ全部は分からない。
「さあねェ」
結局、それしか言えなかった。
張青は少し笑った。
「じゃあ、まだ死なねぇようにするか」
「それはそうして。目の前で死なれると困る」
「心配してくれてんのか?」
「店の掃除が増えるから」
「親父さんに似てるぞ、お前?」
「撤回しろ!」
脇腹を押さえながら張青が笑う。
こいつ、軽い。
死にかけてるくせに、もう軽口を叩く余裕がある。
でも不思議と、数日前の男のような気持ち悪さはなかった。
張青もこちらを見ている。
ただ、その見方が違う。
何が違うのか、説明できない。
アタイは心理学者だった。
人間の行動を観察し、そこから意図や心理を考える仕事をしていた。
なのに、今の違いを専門用語できれいに説明できない。
それでも身体のどこかでは、すでに区別していた。
外から店を狙っていた男と、傷だらけで拾われてきた張青。
どちらも周囲を測り、生き残ろうとしているのに、一方は「帰さなくていい客」で、もう一方は「殺さずに残す男」になった。
外で戸が開く。
朝一番の客が来たらしい。
父ちゃんの声が聞こえる。
店が動き始める。
アタイもそろそろ戻らなければならない。
張青は粥を食べながら、戸の向こうの音を聞いていた。
その目はまだ周囲を見ている。
でも、もう出口だけを探しているようには見えなかった。
父ちゃんがこいつを殺さず、帰しもせず、ここへ置いた理由が、アタイにも少しだけ分かる気がした。
そして、理解できてしまった自分が――一番嫌だった。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、父ちゃんが男拾ってきた」
「へえ……使えそうなのかい?」
「第一声がそれ!? 姉妹そろって人材評価から入るなよォ!」
しかも張青って男、傷だらけなのに口だけは元気で、気づけば父ちゃんに字だの勘定だの聞かれてた。
「帳場ができるなら助かるね」
「まだ働くって言ってないから!」
「飯食って寝床まで借りてるんだろ?」
「その理屈、父ちゃんと同じなんだよ!」
姉ちゃんは少し考えてから笑った。
「まあ、次に行った時に見れば分かるさ」
「何を見るの?」
「うちで使える男かどうか」
……張青。
たぶんアンタ、次に姉ちゃんが来た時が本当の面接だよォ。




