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聞いている男

孫二娘でございま〜す。

動けない男でも、耳は動くんだよォ。

張青は奥に寝たまま、店の音を聞いていた。

椀の置き方。

盃の重さ。

父ちゃんの声。

客が黙る間。

知らないから聞く。

怖いから覚える。

十字坡で生きるなら、目を閉じていても、何も知らないままじゃいられないのさ。

張青が十字坡へ来て、三日が経った。

逃げなかった。

逃げられなかったのかもしれない。

脇腹の傷はまだ塞がっていない。

足首も腫れたままだ。

立てるとしても、戸口まで行くのがやっとだろう。

でも、逃げようとしている顔じゃなかった。

それが嫌だった。

逃げたいのに逃げられない顔なら、まだ分かる。

怯えて、父ちゃんの足音に身を固くするなら、まだ客に近い。

水を出され、粥を出され、それでも何も分からずにいるなら、まだ外の人間だった。

でも張青は違った。

奥の部屋に寝かされたまま、店の音を聞いている。

アタイには、それが分かった。

朝、粥を持っていくと、張青は壁に背を預けていた。

顔色はまだ悪い。

唇も乾いている。

けれど、目だけは動いていた。

戸の方。

水場と厨房。

そして、アタイの手。

「粥だよォ」

アタイは器を置いた。

張青は小さく頷く。

「助かる」

毎回、礼を言う。

軽い。

でも、媚びていない。

それが少し調子を狂わせる。

「別に……父ちゃんが持ってけって言っただけだよォ」

「それでも、持ってきたのは二娘ちゃんだろ」

そう返されると、黙るしかない。

客なら、礼を言われても流せる。

常連なら、軽く返せる。

旅人なら、次の仕事へ移ればいい。

でも張青は、どれでもない。

客じゃない。

獲物でもない。

まだ身内でもない。

だから、返し方が分からない。

アタイは戸口へ戻ろうとした。

その時、店の方で椀が鳴った。

朝飯の音だった。

常連が二人。

旅人が一人。

父ちゃんが湯を注いでいる。

いつもの音だ。

そう思った時、張青が言った。

「今の客、長居しねぇな」

アタイの足が止まる。

「……何が」

「椀の置き方が軽い。腹を満たしたら出る」

張青は粥を少しだけ口へ運ぶ。

熱かったのか、眉がほんの少し動いた。

「飯だけの客だろ」

アタイは張青を見る。

「見えてないだろォ」

「見えちゃいねぇよ」

張青は平気な顔で言う。

「聞こえるだけだ」

その言い方が嫌だった。

聞こえるだけ――

そう言って、もう分けている。

飯だけの客。

長居しない客。

店を見ていない客。

それは、アタイが嫌々覚えたものだった。

音で分かるようになってしまったものだった。

張青は、奥に寝ているだけで、それを聞いていた。

「アンタ、何聞いてるんだい」

「聞こえるんだよ」

「聞くなよォ」

言ってから、自分でも変だと思った。

聞こえるものを、聞くな。

それは無理な話だ。

アタイだって、できなかった。

張青は少しだけ笑った。

痛みのせいで、すぐ顔をしかめる。

「聞かねぇで済む店じゃねぇだろ、ここ」

喉の奥が詰まった。

その通りだった。

十字坡は、聞かずにいられる店じゃない。

床板の音。

盃の重さ。

椀の置き方。

父ちゃんの声。

常連が笑う間。

客が黙る間。

全部、何かを教えてくる。

聞きたくなくても、耳が拾う。

拾ったものは、残る。

「知ったような口きくねェ」

アタイは囁くような声で言った。

張青は器を置く。

「知っちゃいねぇよ。だから聞いてる」

その答えが、また嫌だった。

知っているから聞くのではない。

知らないから聞く。

生きるために――

張青はそういう顔をしていた。

外で、父ちゃんの声がした。

「二娘、湯を足せ」

アタイは返事をする。

「はいよォ」

いつもの声が出た。

客の前にいる時の声だった。

張青が少しだけこちらを見る。

その目が嫌だった。

今の声を聞いた。

そういう目だった。

アタイは睨む。

「何だい」

「いや」

「言いなァ」

張青は少し迷いながら、素直に言った。

「店に出る声と、ここで喋る声が違うんだな」

息が止まる。

違う――

そんなこと、言われなくても分かっている。

水を出す声。

酒を運ぶ声。

常連へ返す声。

父ちゃんに返事をする声。

全部、少しずつ違う。

アタイは、それを使っている。

使えるようになってしまった。

「客相手なら、誰だってそうだろォ」

「まあな」

張青は頷いた。

「でも、二娘ちゃんのは早い」

「何が」

「切り替わるのが」

胸の奥が冷える。

張青は責めていない。

褒めてもいない。

ただ、見たまま言っている。

それが一番嫌だった。

アタイは戸を開ける。

「粥、冷める前に食べなァ」

逃げるように部屋を出た。

店へ戻ると、旅人が椀を持っていた。

服は汚れている。

荷も軽そうだった。

顔に疲れはあるが、目は食い物だけを追っている。

張青の言った通り、長居する客じゃなかった。

アタイは湯を足した。

旅人は礼を言う。

常連が笑い、父ちゃんは厨房の奥で包丁を動かしている。

何も変わらない朝だった。

でも、奥の部屋に張青がいる。

そのことだけで、店の音が少し違って聞こえた。

聞いている男がいる。

そう思った。

昼を過ぎる頃、客が増え始める。

酒を頼む男が二人。

饅頭だけの旅人が一人。

常連が三人。

張青の部屋へ水を替えに行くと、張青は眠っていなかった。

目を閉じてはいたが、寝ている顔ではない。

アタイが器を置くと、張青が言った。

「今の二人、知り合いじゃねぇな」

アタイは動きを止める。

「何の話だい」

「酒を頼んだ二人。連れみたいな顔して座ったけど、足音が合ってねぇ」

背筋が少し冷えた。

確かに、二人は一緒に入ってきた。

でも、片方は戸口で少し止まった。

もう片方は先に卓を選んだ。

並んで座ったのに、視線は合わなかった。

アタイも、少し変だと思っていた。

でも、張青は見ていない。

聞いただけだ。

「それで?」

アタイは聞いてしまった。

張青は目を開ける。

「片方が金を持ってる。もう片方は、それを知ってる」

「何で分かる」

「酒の頼み方」

「酒?」

「金を持ってる方は、値を聞かねぇ。もう片方は、酒の前に相手の腰を見た」

アタイは黙った。

見えないはずだ。

張青は奥の部屋にいる。

客席は見えない。

「今、腰を見たって言っただろォ」

「音で分かるわけじゃねぇ」

「じゃあ何で」

「さっき二娘ちゃんが水を運んだ時、少し止まった」

喉が詰まった。

「それで?」

「二娘ちゃんが止まるのは、客の手か、荷か、腰を見る時だ」

アタイは張青を見た。

張青は、こちらを見返している。

悪びれた顔ではない。

ただ、当然のように言った。

「そりゃ見るさ。ここで生きるなら」

その言葉が、胸の奥に刺さった。

ここで生きるなら――

張青は、もうその言い方をした。

逃げるとも、残るとも決めていないはずなのに……

「アンタ、残る気なのかい」

本当は聞くつもりはなかった。

でも、口から出てしまった。

張青は少しだけ黙る。

外で、客の笑い声がした。

盃が鳴り、父ちゃんの低い声が混じる。

張青はその音を聞いていた。それから、ゆっくり言う。

「今は、ここ以外に寝る場所がねぇ」

「それだけ?」

「それだけで十分だろ」

返し方が、妙に腹立たしかった。

でも、嘘ではなかった。

今は立てない。

逃げる場所もない。

追ってきた者がいるかもしれない。

外へ出れば死ぬかもしれない。

なら、ここにいる。

それは、気持ちではなく、勘定だった。

父ちゃんが

「帳場も見られそうだ」

と言った理由が、少し分かった気がした。

分かりたくなかった。

アタイは水桶を取る。

「余計なことばっかり聞いてると、疲れるよォ」

「聞かずにいる方が疲れる」

張青は言った。

「何が起きてるか分からねぇ方が、よっぽど怖ぇ」

その言葉で、手が止まった。

それは少し前のアタイだった。

何も分からず、足音だけを怖がっていた。

水を飲むことすら嫌だった。

粥の匂いで身体が勝手に動くのが怖かった。

部屋の位置を覚えていることが嫌だった。

張青は、それを違う形でやっている。

分からないから、聞く。

怖いから、覚える。

生きるために、店の音を拾う。

アタイより早い。

たぶん、ずっと早い。

「アンタ、嫌じゃないのかい」

張青は少しだけ笑った。

「嫌だね」

あっさり言った。

「嫌だけど、死ぬよりはましだ」

その言葉は軽かった。

でも、軽く言えるくらいには、本気だった。

アタイは何も返せない。

外で、椅子が動いた。

酒を頼んだ二人のうち、片方が立ったらしい。

張青が目を細める。

「揉めるかもな」

「何で」

「片方がもう帰りたがってる。もう片方はまだ飲ませたい」

アタイは戸の方を見る。

張青は続けた。

「父ちゃん、止めるだろ」

言った瞬間、父ちゃんの声がした。

「酒はそこまでにしときな」

空気が少し止まる。

張青は息を吐く。

「ほらな」

ほらな、じゃない。

そう言いたかった。

でも、声にならなかった。

この男は、もう店の流れを読んでいる。

父ちゃんがいつ止めるか。

客がどこで潰れるか。

常連がどう動くか。

アタイがいつ水を出すか。

奥の部屋に寝ているだけで。

父ちゃんは、これを見たのかもしれない。

殺さなかった理由。

置いた理由。

使えると言った理由。

アタイの中で、その形が少しずつ合っていく。

それが嫌だった。

夕方近く、張青は熱を出した。

傷のせいか、疲れのせいか分からない。

額に汗が浮いている。

父ちゃんは傷を見て、薬草を潰したものを当てた。

張青は顔をしかめたが、声を出さない。

「水」

父ちゃんが言う。

アタイは水を持っていく。

今度は父ちゃんが受け取った。

布を濡らし、張青の額へ置く。

張青は目を開ける。

少しぼんやりしていた。

「……店、静かだな」

熱があっても、それを言うのかと思った。

父ちゃんが鼻を鳴らす。

「夕方前だ」

「違う。さっきの二人、もういねぇ」

アタイは父ちゃんを見る。

父ちゃんは少しだけ張青を見た。

「帰した」

「片方だけ?」

一瞬、空気が止まった。

張青は熱で目が潤んでいる。

でも、耳はまだ生きていた。

父ちゃんが低く笑う。

「寝てろ」

「当たりか」

「寝てろと言った」

張青はそれ以上聞かなかった。

聞かない方がいいと判断した顔だった。

アタイは、水の器を持ったまま固まっている。

片方だけ――

張青はそう言った。

店で何が起きたか、全部見ていない。

でも、音で聞いていた。

二人の客のうち、片方だけが帰ったことまで。

父ちゃんはそれを否定しなかった。

アタイは喉の奥が冷たくなる。

この男は、もう十字坡の耳を持ち始めている。

張青は、また目を閉じた。

息は少し荒い。

熱で苦しそうだった。

それなのに、口元だけが少し動いた。

「二娘ちゃん」

「何だい」

「水、ありがとな」

また礼だった。

こんな時まで礼を言う。

それも嫌だった。

アタイは器を置く。

「死にそうなら父ちゃんを呼べって言われてるからねェ」

「まだ死なねぇよ」

「そう言って死ぬ奴もいるよォ」

「じゃあ、死なねぇようにする」

その返しが、妙に張青らしかった。

アタイは黙って、布を絞り、額の汗を拭く。

張青は少しだけ目を開けたが、今度は店を見なかった。

ただ、アタイの手元を見た。

前なら、嫌だった。

今も嫌だ。

でも、この手が何をするかを見ているだけだと分かった。

掴もうとしているわけじゃない。

何かを測っている。

何かを覚えている。

それも嫌だった。

張青は目を閉じる。

「ここは、音が多いな」

小さく言った。

「寝てなァ」

「寝ても聞こえる」

「じゃあ、聞くな」

「無理だろ」

そう言って、張青は薄く笑った。

アタイは返せなかった。

無理だ――

十字坡では、聞かずにいることはできない。

音は勝手に入ってくる。

入ってきた音は、勝手に形になる。

形になったものは、もう知らないふりができない。

張青は、まだ何も知らない。

でも、もう聞いている。

それは、前のアタイに似ていた。

でも、同じではない。

アタイは嫌がりながら、ここに染まった。

張青は嫌がりながら、覚えようとしている。

その違いが、少し見えた。

父ちゃんは張青を使えると言った。

帳場も見られそうだと言った。

その意味が、また少し分かってしまう。

アタイは濡れた布を桶へ戻す。

水面が揺れる。

張青の息が少し落ち着いてきた。

外では、また店の戸が開く音がする。

父ちゃんが応じる。

「入んな」

いつもの声。

張青の目は閉じている。

けれど、ほんの少し眉が動いた。

聞いている。

アタイはそれを見てしまった。

この男は、奥に寝ているだけじゃない。

十字坡を覚えている。

そしてアタイは、その速さを少し怖いと思いながらも、納得してしまった。

この男が残る理由を――

それが、一番嫌だった。

孫二娘でございますよォ。

奥で寝ているだけなら、まだ外の人間でいられる。

そう思いたいところだけどねェ。

張青は聞いていた。

客の音も、父ちゃんの声も、店の間も。

知らないから聞く。

怖いから覚える。

死にたくないから、十字坡の形を掴もうとする。

嫌なのは、張青が覚え始めたことじゃない。

アタイがその速さを見て、この男が残る理由を納得しちまったことなのさ。

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